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#185 映画 『オッペンハイマー』 を観て邦画に期待したいこと…からの、抑止力思考についての個人的な書き散らし(ネタバレなし)

 わたしの大好きな映画のひとつに、『太陽を盗んだ男』という作品がある。理科の教師が小型原爆を作り国家を脅す、という物語だ。憂鬱なる若者の破壊衝動を満たし、かつその内面に向き合うことへと導く、非常に面白い作品なのだが、本作を撮った長谷川和彦監督は以降、映画界から干されてしまった。

 皇居前でのゲリラ撮影を敢行したこと、首都高速でのカーチェイスや国会議事堂内の撮影も無許可であること(そのストーリーで許可など降りる訳がない。だからゲリラで、というのは昭和の映画界らしいエピソードだ)等々もあるが、一番の原因はやはり「原爆をエンタメに使ったこと」であろう。それにより、映画界からは「危険な監督」として認知されてしまった、という訳だ。

 このエピソードから分かることがある。日本は世界で唯一の被爆国として、核に関しては一貫して「被害者」であらねばならない。その立場でなければ語ることすら許されない、ということだ。

 しかし、実際はどうだろうか。自前で核兵器を持てない代わりに、米国の「核の傘」に頼ることにした。その意味では、我が国も核兵器を支持するという意味での、「加害者」の一面を持っている。それが、非核保有国が日本に期待するリーダーシップを発揮できない理由であることは、想像に難くない。

 クリストファー・ノーラン監督といえば、現代を代表するヒットメーカーだ。本作の米国公開は2023年7月21日である。しかし、日本では一向に公開される気配が無かった。

日本では、当初公開は未定であり、長らくユニバーサル・ピクチャーズとその国内での配給を担う東宝東和からは発表がなく、11月21日の4K Ultra HD Blu-ray・Blu-rayの発売および各動画配信サービスでの配信開始を迎えたため、輸入などを含むと上映に先駆けて視聴手段が生じる事態となった。

米国公開から4か月を経た12月7日になって翌2024年の日本公開(配給:ビターズ・エンド)が発表され、また2024年1月24日に公開日(3月29日)が公表された。

Wikipedia オッペンハイマー (映画) より引用
※筆者にて注釈の削除と改行のみ行った

 国内大手が手を引いた理由は明らかだろう。その内容がいかに素晴らしかろうと、「加害者」側の作品であるためだ。ノーラン作品となればヒット確実であるにも関わらず、である。

 そして、その太陽を盗んだのは中小の配給会社、ビターズ・エンドだ。この会社は、一昨年の米アカデミー賞(第94回)で、国際長編映画賞を受賞した『ドライブ・マイ・カー』も配給している。腰抜けの大手と違って、大衆受けしないアート作品であっても、堂々とやれる気骨のある会社のような気がしている。

 さて、日本における『オッペンハイマー』公開の懸念について。被爆者の実相が表現されていないのでは?という意見もあろうが、その見方は少し偏っていると思う。本作はタイトル通り、あくまでオッペンハイマー氏の自伝であるためだ。

 そして、被爆者の姿を描くべきは日本の役割であり、とりわけ本作の配給をスルーした東宝グループのような資金力のある大手が金を出し、世界に問うべきことだと思うのだ。外国人に語らせようなど、それこそお門違いという話である。

 それに、もし『オッペンハイマー』の作中で、リアルな被爆者の姿を映してしまったら、あまりのインパクトに、その後のストーリーが霞んでしまうことだろう。

 もし、長谷川和彦監督が映画を撮り続けることができていたなら、それを担うのは彼が適任だったとしか思えない。本人は被害者であり、ヒット作は加害者としての作品であり、かつ娯楽性と芸術性を両立できる監督であるためだ。

※彼のデビュー作は、実際の事件を元にした、『青春の殺人者』これはかなり重苦しい気分になるアート作品である。次作が『太陽を盗んだ男』であるため、彼は未だ2本しか撮れていない。しかも、3作目の構想は「連合赤軍」だったというのだから、きっとこちらも、伝説的な作品になれたはずなのに。惜しい気持ちだ。

 自らも胎内被爆者でありながら、『太陽を盗んだ男』を制作したことについて、長谷川監督は東京新聞のインタビューでこのように答えている。

 映画のラストで主人公が髪の毛をプッと吹くだろう。俺が言いたいことはあれに尽きるな。「原爆が何だ、うるせえバカヤロー。原爆に泣いたりしねえぞ」と。

 まじめな被爆者の映画、原爆反対といって作られた映画を嫌だと言っているわけじゃない。ただ、そうした映画は被爆者である俺を必ずしも元気づけないんだよな。

核の本質は全人類が加害者で被害者だと思っている。だから、加害者も被ばくして被害者になる、という設定にしたんだ。

東京新聞 2022年1月9日 06時00分 配信
「もう1本撮って死ぬ」40年も沈黙続ける「伝説の映画監督」長谷川和彦が激白 より引用
※筆者にて改行のみ行った 

 やはり、適任としか思えないが、いささか時が経ち過ぎた。しかし、日本で『オッペンハイマー』へのアンサーを作れる監督は誰か?といえば、わたしには彼しか思い浮かばない。

 『オッペンハイマー』は、原爆の父はいかなる人物であったか、というナラティブ(物語)を語り、彼の名前を映画史に刻みつけた。過去の記事でも度々言っていることではあるが、史実・学問としての歴史と、ナラティブは異なる。ナラティブには「語り口」がある。史実とナラティブの両方が揃ってはじめて、人々が共有できる形での「歴史」となる。そして、映画はナラティブを語るのに、最も威力のあるメディアだと思われる。

 以後、核兵器の誕生について知りたい時、真っ先に参照される、第一の映画になるだろう。当然、日本の映画界はその回答となる作品を作るべきだ。戦時を舞台にした映画は作られているが、日本から世界に問いかけるためには、「戦争は悲惨です」というだけでは通用しないだろう。わたし達の国は、枢軸国であったのだから。

 先日、『ブルシット・ジョブーークソどうでもいい仕事の理論』について記事を書いた。そこでは扱わなかったが、この本にはブルシット・ジョブの、5類型のひとつ「脅し屋(という表現はあくまで比喩である)」として軍隊をこのように語っている。

その仕事が脅迫的な要素をもっている人間たち、だが決定的であるのは、その存在を他者の雇用に全面的に依存している人間たちである。

この手の最も明白な事例は軍隊である。国家が軍隊を必要とするのは、他国が軍隊を擁しているからにほかならない。もし、軍隊をもつ者がなければ、軍隊など無用の長物となるだろう。

『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』
岩波書店 2020年9月25日 第五刷
第二章 どんな種類のブルシット・ジョブがあるのか? より引用
※筆者にて改行のみ行った

 そもそも、世界人類全員で多数決をとることができるならば、必ずや「武器や軍隊などいらない派」が勝利することだろう。

 もし、軍事費を無くすことができたなら、そのお金でどれだけの人間が救われることだろう?また、「覇権争い」以外の目的で科学が進歩する世界が来たならば、いったいどんな発明がなされるのだろう?そんなことまで風呂敷を広げて、考え込んでしまった。

 少し脱線したが、本書に基づくわたしの体験記について、ご興味を持っていただけた方は、以下の記事も参照していただけると嬉しい。

 さて、ここから先は『オッペンハイマー』の鑑賞を契機に、「抑止力」という概念がもたらす破滅的な脅威について語ってみたい。ちなみに、核兵器の話は出てこない。もっと、まとまりのない、頭の中でモヤモヤしている個人的な話をしてみようと思う。

 これまた、わたしの大好きな映画の一つに、マイケル・ムーア監督のドキュメンタリー『ボウリング・フォー・コロンバイン』という作品がある。「コロンバイン高校銃乱射事件」を契機に、銃社会の深層に迫る作品だ。

 取材を重ねるうち、銃があることそのものの問題とは別に、もう一つの闇が浮かび上がる。米国は、人々を「恐怖で支配する」構造になっている、という一面だ。これは、後に制作された『華氏911』にも繋がるテーマである。そして何より、現在の日本にも繋がる問題だ。銃が乱射されることこそ無いものの、「死刑になりたかった」という動機の数々の事件は、人々の恐怖を煽り、監視カメラの会社を儲けさせる。

 北朝鮮がミサイルを打ったとか、中国の船が領海を通ったとか。確かに知るべきことではあるのだが、なんとなく怖い映像を投げつけて、日本人の恐怖ゲージを上げ下げするだけのニュース番組は、それがお天気の話題に移ったあとにも、視聴者の中にモヤモヤしたものを残してしまう。

 周辺国の脅威に対応するため、日本は防衛費を増やさざるを得ない。凶悪犯罪を防ぐために、社会は監視を強化せざるを得ない。そう考える人が多いだろう。そのような世界を望んでいないにも関わらず。

 世界の不安要素は確かに存在する。しかし、上述したジレンマがその不安を煽り、とりあえず目先の安全として、既存の秩序を強化することを選択してしまう。そして、とりあえず政権運営のノウハウがありそうな、自民党に投票する。

 恐怖の支配は、直接的な暴力だけに止まらない。コレをしないと損をするとか、アレをしないとモテないとか、ソレを知らない奴はバカだとか、商売もそうした脅しで回っている。学歴も、就活も、結婚も、みんな同じだ。人々に「ほのかな怯え」を植え付けているのだ。くだらない。

 何がくだらないのかって?それらに対処するための「抑止力思考」が、わたし達の安寧を奪っていることだ。日常的に「ほのかな怯え」を植え付けられた人々は、漠然とした脅威に対処して安心を得ようとする。それが、防災バッグとカンパンを買って済むことならいいのだが、もちろん、そうしたことには留まらない。

 例えば保険、ファッションや美容もそうだ、最新家電や車もそう。キリがない。他にもいろいろとあることだろう。換金されているものほとんど全てが、見ようによっては、そう見える。モノやサービスに溢れた現代で、更に金を使わせるためには「これさえあれば!」と思わせるための、マイルドな恐怖と、安心の筋書きが必要なのだ。

 そうして、わたし達は「漠然とした破滅の恐怖」から逃れるために、お金と時間を使う。そのために労働を頑張らねばならない。しかし、実際のところ、ほとんどの日本人においては、モノやサービスを買うことよりも、仕事を辞める方が(一時的にではあるが…)QOLの向上に繋がる可能性が高い。つまり、現代社会は「人々を不幸にして、代償的消費を行わせる」ということで回っている。極論なのは承知だが、わたしにはどう見てもこれが、破滅への道、という感じがしてしまう。子供を望まない若者の増加など、良い事例ではないかと思うのだ。

 なぜ、上述の一文で(一時的にではあるが…)と、括弧に入れなければならないのかは、自明だろう。収入が無くなれば、いずれはお金が尽きるからだ。その新たな恐怖から安心を得るために、また労働に戻らねばならない。それは、お金が尽きてしまう前に、できるだけ早いほうがいい。まるで、恐怖と抑止力思考の無限ループだ。わたし達は常に「ほのかな怯え」による支配下にあらねばならない。望みはしなくとも、そういう構造になっているのだから。

 おそらく、誰もが不穏な未来を想像しすぎている。そして、その想像は、自分以外の誰かによって植え付けられている。わたしは、このループから逃れたいと思っていた。自殺である。

 あるとき、その用途で定評のある紐を買った。これはお守りだと思っていた。クソみたいな社会からいつでも退場できる、という安心を得たつもりでいた。しかしその後、定評のあるカミソリも購入した。実行できなかった場合や、失敗した場合に備えてのバックアップだ。他にも、薬や洗剤など、いろいろと購入した。わたしの部屋には、自分を破滅させるための「お守り」が沢山あった。

 外に出て、飛び降りる場合の場所を選定していた。候補は3カ所に絞った。その際には素面では無理だろうと、ウィスキーの小瓶と、いくつかの薬も持ち歩けるように準備した。

 オッペンハイマーが開いた米ソの「核抑止力競争」と同じことが、わたしの内面と社会との間で起こっていたのだ。強いストレスを感じると、それに対抗できる抑止力(自殺の材料)が必要となる。働いて得た金で、そうしたものがどんどん増えていく。

 結局、今のところは「生きててよかった」と思えるのが幸いだが、当時(たった数ヶ月前だが…)のわたしはまさに、抑止力思考による破滅の道を歩んでいた。それはもう、吸い込まれるような感じであった。

 繰り返しだがやはり、わたし達は未来を想像しすぎている。そして、想像の材料はたいていメディアの不穏な報道だったり、SNSの書き込みだったりするものだ。

 わたしはテレビを好まないが、新聞(電子版)は読む。読む方が好きだし、テレビと違って、内容の是非はどうあれ「論」を語る紙幅がある。だから、違うと感じたなら受け入れない、ということもできるのだ。映像を垂れ流すテレビとは、その点で決定的に異なる。

 さらに、X(Twitter)を辞めたが、noteの方が居心地が良いので、何の問題も生じなかった。

 今のところ、noteで抑止力思考を煽られたことはない。いろいろな方をフォローさせてもらっているが、そこから「ほのかな怯え」を覚えることもない。そこに人間がいる、ということが感じられるだけである。今後も、「抑止力思考の抑止力」として、noteに励んでいこうと思う。(何かヘンだが…まあ、そんな感じだ)

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