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『腰に立派な刀を差しているのに なぜ抜かないの?』

ー皆さん、こんにちは。
今日は、50歳で初挑戦した二輪車安全運転全国大会で見事優勝を納め、日本一に輝かれた奥本雅史さんをお招きしています。
奥本さんは現在、奈良県に住んでおられ多方面でご活躍中ですが、本業のお仕事を二つお待ちで、それが大変ユニークな組み合わせなんだそうです。
今日は、奥本さんがどうして『二刀流』になられたのかについて詳しくお伺いしていきたいと思います。
奥本さん、どうぞよろしくお願いいたします。
それでは早速ですが、奥本さんが今されているお仕事について教えてください。

僕は今、昼は行政書士、夜は串かつ屋『銀河食堂』の大将をやっています。自己紹介をする時には「調理師と行政書士の二刀流です」と言っています。
夜は調理師ですが、カウンターでお客さんから行政書士として相談をされることもしばしばあります。お酒やお食事を楽しみながら、かしこまらずに話ができると結構好評です。

ーお酒を飲みながら相談が出来るというのは斬新ですね。
行政書士がどんなお仕事なのかよく分からない方もおられると思いますので、少し詳しく聞かせてください。

行政書士というのは、江戸時代ごろにあった代書業がルーツだといわれています。当時は字を読み書きできる人がまだまだ少なかったため、役所に提出する書類や手紙などを代筆してもらっていたんですね。
今日の行政書士も、官公署に提出する書類、例えば飲食店の営業許可や補助金の申請のための書類などを代理で作成するのが主な業務です。それともう一つ、法律の専門家という側面もあって、相続手続きや遺言書の作成を行うこともあります。


ーなるほど、よく分かりました。ではずっと二刀流でお仕事をされていたのですか?

二刀流になったのはまだ最近で、行政書士の資格を取った5年前からになります。それまでの25年間は、ずっと飲食業一筋でした。

ーどうして飲食業から全く畑の違う行政書士を目指されたのかがとっても気になります。では最初は飲食業だけをされていたのですね?

実家が「とんかつぎんが」というとんかつ屋なんです。小さい頃からよく親の手伝いをしていて、高校を卒業してすぐにその店で働き始めました。
店はそこそこ繁盛していたので、生活の心配が無いぐらいの給料をもらいながら、日々のほほんと過ごしていました。
親から「店を継いでくれ」と言われたことはなかったんですが、働き始めて3年ぐらい経った頃には自分の方から「父の跡を継ぎます」と周りに公言していました。
自営業の家の息子というのはだいたいひねくれているもので、継いでくれと言われると継ぎたくなくなり、継ぐなと言われると継ぎたくなるものなんです。

ーでも、跡は継がれなかったんですよね?

仕事自体は忙しくて充実していましたが、とんかつの専門店だったために毎日決まった料理しか作らず、調理師免許を持っているといっても専らフライものしか作れませんでした。
また一緒に働いているのが両親だけだったので、あまり刺激も成長もない生活が長く続いて。
13年間家業に従事してきて、次第に『本当にこれでいいのか?』と思うようになってきました。『このまま、安定はしているけれどたいして面白くない人生を送るのか、それとも、自分の力を試すために独りで勝負をしてみるか』と考えはじめたんです。

その当時は10年以上同じ店で働いていれば自己資金が無くても必要な資金を全額借り入れできるという融資制度があったので、それを使って独立することを決意しました。

それである日突然父に「俺カフェやりたいから、跡継がれへん」と宣言したんです。


ーそれまでとんかつ屋さんだったのに、どうしてカフェをやろうと思ったんですか?

独立開業するにあたって飲食業の経験が豊富で調理に長けた友人と一緒に店を始めようと考えました。彼を誘った時『自分がやりたい店はカフェやで』と彼が言ったんですね。それに対して僕は「僕がやりたいのは経営やから、業種はなんでも構わない」と答えたんです。
そうして2人でいろいろ相談しながら開店作業を進めていくうちに、気がつけば『無国籍料理を出すカフェのような料理店』というよくわからないジャンルの店になってしまっていました。
しかし僕は『これまで親の姿をずっと見てきた。親にできることなら、自分にもできるだろう』という経営に対しての妙な自信を持っていました。
ですが後々、それは何の根拠もない自信だったと思い知ることになりました。

無事店をオープンすることは出来ましたが、大家さんに安くはない家賃を払って、スタッフもたくさん雇い、借金の返済や様々な経費の支払い等々に追われ、3ヶ月ほどで資金が底を尽いてしまいました。
チラシを撒いたり、雑誌に広告を出したりもしましたが、客足はなかなか伸びなくて。一度来たお客さんがリピートしてくれないんです。ということは、全てにおいて実力が全然足りていなかったということなんですね。
その後、買ったばかりの新車も売って、複数の消費者金融やクレジットカードのキャッシングなどで借りられるだけのお金を借りて支払いに当てながら経営を回していました。
そんな状況だったので、半年後には一緒に始めた友人が店を去ることになり、僕は今まで作ったことがないような料理を一人で作らなければならない状況になったんです。この頃、僕にとっての料理はただの苦痛でしかありませんでした。


ーそれは大変そうですね、、。とんかつはお店では出していなかったんですか?

一切、出していませんでした。親の七光というのは卑怯な気がして。それに自分の力を試すと偉そうなことを言って飛び出してきたので、意地もありました。
しかし経営が本当に苦しかったので、店が終わってから、深夜に寿司屋や新聞配達のバイトをしたりしてなんとか食いつないでいました。

ーそんな中で行政書士というお仕事に繋がっていったのはどうしてだったのでしょう?

店を出したのが近鉄奈良駅近くの商店街の中だったんですが、その商店街の月2千円の会費ですら物凄く痛かったんです。
その時『これはもう払わないか、払った分をなんとか取り返すかのどっちかやな』と考え、僕は取り返す方を選ぶことにしました。
がっつりと商店街の運営に入り込んで、商店街を活性化して、この通りにたくさん人を呼ぼうと。自分の店の前の通行量が増えれば、お客さんも必ず増えるはずだと信じて、その方法ばかりを考えていました。
幸い、実家も小さな商店街の中にあったので子どもの頃から会費を集めに回ったりもしていましたから、自然と商店街活動に入っていくことができたんです。
店を始めて4年目には副会長に抜擢されて、その3年後には会長に就任しました。

商店街では年一回、総会を開催するのですが、その資料を作ったり、議事録を書いたり、規約を整えたりするのが何故かとても好きだったんですよ。


ーそういう作業は、一般的にはキライな人の方が多いと思いますが(笑)

普通はそうですよね(笑)
でも自分はその作業をするのが楽しいわけなので、なかなかそこに気付くことができませんでした。自分の得意なことは、自分では自然にできることなので『みんながそうなんだろう』と思っていて。
『世の中には書類や手続きがキライな人の方が多い』と気づいた時が、行政書士の仕事を意識した最初の瞬間ですね。

ーではそれからすぐに行政書士を目指されたんですか?

いえ。その頃はまだ行政書士という仕事のことをよく知りませんでした。
行政書士を目指す直接のきっかけとなったのは、商店街の街路灯を建て替える事業のために、会長として商店街を法人化しようとした時です。
商店街を任意団体から、商店街振興組合という法人へと組織変更する手続きを、ある行政書士に依頼しました。
その時支払った報酬額が20万円だったんです。『あっ、自分が大好きな作業をして、こんなに報酬をもらえるなら、絶対に行政書士になろう』と心に決めました。
それから通信教育の行政書士講座で、仕事の合間を縫って勉強を始めました。


ーここから、いよいよ二刀流への道を歩んでいかれるのですね?

それが、、この時点では、きっぱり飲食業は辞めるつもりでした。
経営状況はどんどん悪くなっていて、毎日毎日『今月こそはダメかもしれない』と考えていました。

家賃の負担がとにかく辛くて。
家賃の支払い日を過ぎると当然大家さんから催促の電話がかかってくるのですが、それを店の奥で息を殺しながらじっと隠れて何日もやり過ごしていました。もちろん、申し訳ないという気持ちでいっぱいでした。
そんな支払いに追われ生きた心地がしないような日々がずっと続き、ほとほと嫌になってしまって。飲食業は25年もやってきたし、もういいかなと本気で思っていたんです。
『俺はもう油は触らん 紙だけを触って生きていく』と心に誓っていました。


ーではお仕事は行政書士一本でやっていこうと思ってたんですね?

そうなんです。
行政書士になるためには毎年11月に行われる国家試験に合格しなければなりません。
試験を受ける直前になっていよいよ11年間続けた店の閉店を決意し、閉店日は半年後の5月に定めて行政書士試験に挑みました。
しかし結果は不合格。結果発表の日は、ひとり厨房の床に座って泣きました。

その後計画通りにお店を畳んで、それからしばらくは介護施設の事務職にパートで勤めながら勉強を続けていました。
そうしてニ度目の試験が迫ってきた10月に、母が肝臓がんの手術をすることになって。幸いにも手術は成功して、仕事にもすぐ復帰することができたのですが、すでに70歳を超えていることもあり身体が心配だったので、僕は「介護施設を辞めて、もう一度店を手伝う」と申し出ました。

実は独立してからは、両親とほとんど会っていませんでした。
なので、店に戻ってきて、十何年ぶりかに「ぎんが」のとんかつを食べたのです。

一口食べて、、

美味しくって愕然としました。

自分の店を潰し、負けて帰ってきた気持ちを引きずっていた僕は、その美味さに打ちのめされた気がしました。ですが素直に感動も覚えました。


ーそれで、再びとんかつと向き合うことになったんですか?

それも確かにきっかけになったのですが、もう一つ、人生を変えるような大きな出会いがありました。
それは自分の店を閉める、2年前に遡ります。僕がまだ商店街の理事長を務めていた時、周辺の8つの商店街から若手が集められて、合同で大きなイベントをやることになりました。

このショウテンガイ・エイトというイベントを一緒に作り上げた仲間達は本当にかけがえのない戦友のような存在で、当時もよく店に食べに来てくれていました。
その中でも特に応援してくれていたのが、今、銀河食堂で女将をやっている栗生さんです。
彼女はうちの店のハンバーグが好きで(ちなみにハンバーグは「ぎんが」で出していたメニューの中で、唯一うちの店で出すことを妥協したメニューです)、ちょくちょく食べに来てくれていました。
その栗生さんに、お店を閉店してからのことですが、「ぎんが」のチキンカツを作ってあげたことがあるんです。
それを食べた栗生さんは「柔らかくてめちゃくちゃ美味しい!どうしてお店で出さへんかったん?」と言いました。
僕が「いや、親の七光なんて卑怯やし、、」と答えると、「こんな素晴らしい武器があるのに使わないなんて。腰に立派な刀を差してるのになんで抜かないの!?」と言って叱られました。

だけどその時はまだ素直に意見を受け入れる事ができませんでした。『そう言われたらそうやな』と納得できるようになったのは、もう少し後のこと、彼女と一緒に串かつ屋『銀河食堂』を始めてからになります。


ー『銀河食堂』というお名前が出てきました。ようやく二刀流のお話が聞けそうですね。

2度目の行政書士試験の結果発表は、年明け1月の末でした。今度は無事合格することができ、4月には行政書士会への登録が完了して、行政書士奥本雅史事務所を開業しました。
事務所は、「ぎんが」の隣りの一角を間借りしました。費用をできるだけ抑えたくて内装工事も自分でやりました。その時に栗生さんも手伝ってくれました。

栗生さんは事務所を始めてからもいろいろと手伝ってくれていたのですが、2ヶ月経っても行政書士の仕事がほぼゼロだったため、こんな提案をしてくれました。

「この事務所のスペースを使って、夜は料理を提供したら?」

「ぎんが」はお昼だけの営業だったので、夜は厨房が空いていたのです。
でも僕は、飲食業に心底懲りていたので、なかなか『ウン』とは言いませんでした。
しかしあきらめずに説得する栗生さんの熱意に折れて、まずは予約がある日のみのお試し的な営業からということにして銀河食堂をスタートさせました。


ー栗生さんは飲食業をされていたのですか?

栗生さんはアナウンサーが本業で、飲食業の経験はありませんでした。ですが子どもの頃から喫茶店をやるのが夢だったそうです。
彼女はアイディアがとても豊富で、機転が効く上に手際も良く仕事ができる人です。今、彼女と一緒に働く中で改めて仕事のやり方というものを教わっています。

そんな彼女と店をやるうちに、僕は徐々に変わっていきました。それまで料理は仕事で仕方なく作っているという感覚だったものが、栗生さんにいろいろ食べてもらって『美味しい!』と言ってもらううちに、作ることの喜びを感じるようになっていきました。
するとだんだん自信がついてきて、お客さんのことを美味しい料理で喜ばせたいという気持ちが芽生えてきました。
そして、親に負けた気がしてどうしても店で出すのがイヤだったとんかつも、次第に抵抗感が薄くなっていって逆にとんかつに対して感謝の気持ちが湧いてくるようになったんです。


ーとんかつもお料理のことも好きになられたんですね。

自分が『こんなに料理が好きだったんだ』ということは、自分一人では到底気づけませんでした。
自分と真剣に向き合ってくれる人がいたこと、そしてその人を喜ばせたいという純粋な気持ちがあって初めて気づくことができたのだと思います。栗生さんには、心から感謝をしています。

ー奥本さんが二刀流になるまでのお話、とても興味深く伺いました。特に『自分の得意なことは、なかなか一人では気づけない』ということが心に残りました。では最後に一言、皆さんにメッセージをお願いします。

僕の最初の独立開業は、正直失敗だらけでした。でも、もしもあの時、思い切って飛び出していなかったら、考えがせまくて人の意見を聞かない、我が儘で怒りっぽい人間で終わっていたと思います。

繰り返しになりますが、自分の中に秘められた可能性は、なかなか自分一人では見つけることができません。
ですが、できるだけいつも素直に心を開いて、真摯に人と向き合うようにしていれば、そのチャンスは必ず訪れると思います。決してあきらめずに、頑張ってください。
本日は長時間ありがとうございました。



ー奥本さん、今日は貴重なお話をありがとうございま、、



、、、テレッテ、テレッテ、テレッテテレッ、テレッテ、、、

う、、ん。
けたたましいiPhoneのアラームが鳴って、目が覚めた。

そうだ、今日は二輪車安全運転全国大会の奈良予選当日。
呑気にインタビューを受けている夢を見てる場合じゃない。

『日本一を獲って、正夢にしないとな。三刀流を目指して。』

なんだか良い日になりそうな予感がする、そんな朝だった。





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