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こだまでしょうか

昨日、旧秋田商会ビルのことを書いたが、そこの一室で金子みすゞさんの展示をしていた。金子みすゞさんといえば、小学校の教科書に載っていた「私と小鳥と鈴と」の印象が強い。他と比べることなく、みんないいんだよということを歌っている。同じような方向性で「土」という詩もある。

こッつん こッつん
ぶたれる土は
よい畑になって
よい麦生むよ。

朝から晩まで
ふまれる土は
よい道になって
車を通すよ。

ぶたれぬ土は
ふまれぬ土は
いらない土か。

いえいえそれは
名のない草の
お宿をするよ。

金子みすゞ「土」

この世にいらないものなんてないんだよ、と、何とも味わい深い詩だ。7音を基調としていることで歌としてのリズムも心地よい。

東日本大震災時のACジャパンのCMで有名になったこの歌も金子みすゞさんの作品だ。

「遊ぼう」っていうと
「遊ぼう」っていう。

「ばか」っていうと
「ばか」っていう。

「もう遊ばない」っていうと
「遊ばない」っていう。

そうして、あとで
さみしくなって、

「ごめんね」っていうと
「ごめんね」っていう。

こだまでしょうか、
いいえ、だれでも。

金子みすゞ「こだまでしょうか」

楽しい言葉、嫌な言葉、優しい言葉、いろいろな言葉に反応するのは、こだまだけではなく人の心がそうだと言っているこの歌。人と人とのコミュニケーションで、この「こだますること」が大事なことだということを暗に教えてくれているような気がする。

たとえば、辛いことがあって誰かに話をしたとする。話した自分は、ただ辛い気持ちをわかってほしくて話しているのに、相手から「それは〇〇だからいけないんじゃない?」と、冷静に分析されてしまったら、どう思うだろう。たしかにその指摘は正しいのかもしれないが、それは今言ってほしくないというか、それはわかっているんだけど……という気持ちになりそうである。

幼い子どもが何か辛いことがあったときに、自分の親にそのことを話す。しかし、親は「それはあなたが悪いからでしょ!」と一括してしまう。子どもからしてみたら親が「こだましてくれない」のである。それを積み重ねていったとしたら、いったいどうなってしまうのか。「辛かったね」「大変だったね」と、声掛けすることは誰でもできそうなのに、意外とできていないのではないだろうか。

子どもに対してだけではない。自分の周りの人間関係すべてがそうかもしれない。大人になればなるほど「こだまできていない」自分がいる。先のことを考え問題を解決しようとして、目の前の相手がどういう気持ちでいるかを考えているか、察せているか。何かを解決しようとするのは、その気持ちを受けて止めてからでも遅くないのではないか。そんなことを突き付けられている気がしている。

「こだますること」の大切さを、もう一度考えなおすきっかけにしたいものだと、この詩を通して痛く感じるところである。

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