見出し画像

自分の心身は、替えがきかない。

ジョブズ最期の言葉。

 現Apple CEOのティム・クックさん(2022年時点)に宛てられたとされている最後の言葉の中に、私の中では印象に残っている表現がある。

「あなたの代わりに車を運転してくれる人は居る。あなたの代わりにお金を稼いでくれる人も居る。でも、あなたの病気を変わってくれる人は誰も居ない。(中略)失ったら決して見つけられないモノが、人生であり命である。」

 鉄道員には満期(定年)を迎えるとコロッと逝ってしまうことを自虐的に表現した「鉄ちゃん満コロ」なんて言葉がある。必死で積み上げた退職金や厚生年金も殆ど手を付けずに現世を去ってしまっては、ストレスに見合ったリターンとは言い難い。それ位、寿命を縮めている職種なのである。だからこそ早期リタイアを目論む節もある。

 しかし、遺された配偶者側目線だと、在職時は泊まり勤務で大して家におらず、定年後はずっと家に居るのかと落胆していた矢先、ポックリ逝って貰えたら住宅ローンの残債もなくなるし、退職金と遺族年金がダブルで手元に渡ってハッピーかも知れない。人生の時間を一緒に居すぎないと言う意味では、配偶者が鉄道員と言う選択は案外悪くないかも知れない。

死が特別な現代社会。

 養老孟司さんは、都民を仮退院中の病人と称している。9割強の都民が病院で生まれ、病院で死んでいるのだから、確かに仮退院中である。その期間が長いか短いかの程度の差はあれど、それが都民の実態を揶揄している点に関しては何ら変わらない。

 仮にかかりつけの病院がなく、自宅で死亡した場合、残された遺族は死亡診断書と同等の効力を有する、死体検案書を貰うために警察に連絡しなければならない。事情聴取や死体の検死を以て、本当に衰弱死なのかを判別しなければならないためである。

 家族が亡くなって悲しんでいる状況下で、警察の事情聴取を受けたいなどとは誰も思わないだろう。病院で適切な処置を受けていれば、これらを経験することはない。だからこそ、末期は病院の世話になって亡くなっていき、見事に仮退院中の病人と言う構図が完成するのである。

 しかし、死は生物である以上避けることのできない宿命と言える。なにも特別なものではないのに、自然死が特別な出来事となりつつある現代社会に対して、些か疑問を感じることは往々にしてある。

 病気を患おうが、昨日までピンピンして死ぬ気配がなかろうが、生物である以上、死ぬときは死ぬ。それだけの話しである。それなのに、今のままでは、何割の確率で死亡します。手術を行うことで何割の確率で助かります。と言う謳い文句は預言者と変わらない。それだけが原因で死ぬとは限らないのにも関わらず。早い話が養老さんも私も医者嫌いなのである。

組織が欲しいのは証明書。

 その典型が健康診断である。大学で簿記の講義の際、損益計算書は健康診断の結果のようなもので、ある一時の状態を表すのに対して、貸借対照表は成績表のように1年間の累積した状態を表していると、説明されていたのを今でも覚えている。

 鉄道員は職業柄、半年に一度健康診断を受けることになっている。運転免許の条件にもなっている視力が基準値に満たなければ、即座に乗務停止となるし、基準値を著しく逸脱する場合は、専門機関の受診を行うようにと警告文が届く。

 私はスポーツ心臓故に心電図は何度も引っかかったが、心肺機能が強靭過ぎて基準値に収まっていないのを、心肺機能が衰弱している状態と同じ異常で括られては具合が悪い。スポーツ心臓の場合、運動することで正常値に戻る性質があることから、外科による処置は基本的に必要ないのである。

 専門機関に受信する際に、それらをいちいち問診で回答した上で、それなら問題ありませんねと言うお決まりのやり取りをして、形式上必要な受診報告書を記入して貰うためだけに、時間やお金、労力を浪費しなければならないのは本当に腹立たしい。

 組織が欲しいのは、仕事には支障があるのか、ないのかと言った専門医の証明であり、個人の健康状態なんてどうでも良いのである。いくら本人が大丈夫とか、具合が悪いと訴えたところで、専門機関の証明書がなければ戯れ言でしかなく、まともに取り合ったりはしないだろう。

 とはいえ、健康診断の結果はその日の体調を数値化しているだけであり、それだけで個人の身体に潜むリスクの全て洗い出せる性質のものではない。数字の異常がなくて満足しているだけでは、隠れたリスクを見落とすことがある。

健康診断なんて気休めでしかない。

 実際に、私は具合が悪くなっても自分の抗体を信じて、自然に治るのを待つが、明らかにいつもの体調不良と毛色が異なると直感して、にっちもさっちも行かなくなって初めて専門機関を受信する。

 しかし大抵の場合、自身が納得できる原因が解明できることはなく、対症療法で薬を処方されるだけで、根本を解決したり、予防する手段が見つけられる性質のものではない。データと確率を元に最も合理的な治療を行う、合理化された西洋医学の限界を感じざるを得ない。

 そしてある時、食欲不振、吐き気、激しい腰痛と右肩甲骨裏側の痛みと、これまでの人生で経験したことのない体調不良に襲われた。最初は寝違えたのかも知れない程度に思っていたが、寝違えた痛み程度で、湿布を貼らなければロクに寝付けないのはどう考えても異常だったが、診察時間を過ぎていたため仕方なく様子見となった。

 その後、まもなく発作に襲われた。誰かに心臓を握りつぶされるような感覚に見舞われて息が出来ている感覚もなければ、声を発っしたり、立っているのも儘ならず、出先の過疎地で数十分間、ひとりでのたうち回っていた。

 直近の健康診断で異常が出ていないのだから、当然、心当たりなど無い。症状や体格などから気胸を疑われ、急患でCTを取るも、肺に穴など空いておらず、発作は何だったのかと医者が首をかしげて帰宅。相変わらず具合は悪い。

 翌日に急患の精算をする際に、外科と整形外科の受診予約を取り、血液検査の結果から肝機能障害が起きていることを告げられ、即時入院となった。具合が悪くて酒など飲んでいないから、心当たりなど全く無かったが、精密検査をしたところ、胆石発作に依るものと知り、過去に原因不明だった体調不良の全てがつながった。

 健康診断で毎年血液検査を行っているにも関わらず、自身が胆石持ちであることも、肝機能障害で具合が悪くなっていることを見落とされ、突然の発作に見舞われ、内臓を摘出する羽目になったのである。

 現代人は忙しさにかまけて、具合が悪くなっても薬を飲みながら騙し騙し仕事をしている。しかし、身体からの微かな悲鳴を聞き逃さなかった私が大事になってしまったのだから、無視して働き続ければ、牛丼屋チェーン店でワンオペを行なっていたパートさんのような悲惨な結末を迎える可能性は誰にでもある。

 そして何より、真面目に働いて心身を病んだ結果、心身が不自由になったとしても会社は責任を取ってくれない。身体も元には戻らないのだから、手遅れになる前に、仮病を使ってでも休むべきだと、文字通り九死に一生を得た私から忠告して終わりにしようと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?