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余裕のない社会の先にあるもの。

通勤時間に余裕のない賃金労働者。

 平日休みの日は、天気が良ければ朝に散歩に出ることが多い。とはいえ、出勤するわけではないため、通勤、通学の群れとは逆の動きをするようにしている。すなわち、早朝にひとりでに駅まで歩き、通勤、通学の流れが構成される時間帯に帰り、一般社会とは反対側からその光景を眺めるのである。

 そうして、これから満員電車に揺られるであろう、死んだ魚の目をした社畜リーマンを眺めては、自分が休みである優越感に浸りながら家路に着く。

 そこで目に付くのが歩行者の時間的余裕の無さである。信号無視など日常茶飯事で、私と通学中の小学生だけが律儀に歩行者信号を守っており、時間すら管理できない大多数の大人のモラルや時間管理能力の低さに呆れている。

余裕があるから、鉄道は定時運行できる。

 恐らく鉄道乗務員という職業柄、時計の秒針と睨めっこするため、自ずと時間管理能力が高くなる傾向にある。出退勤時間は1分刻みで毎回変わるし、担当する列車もバラバラである。やっている作業そのものはルーチンであるものの、平日か土休日でも運行ダイヤは異なり、逐一走行環境も変わるため、マニュアルに則ったところで、毎回同じ秒数で正確に走行できることはまずない。

 それでも、諸外国と比べて運転時間が正確なのは、運行計画に余裕を持たせているからである。鉄道の場合は、走行時分、停車時分、余裕時分の3つで運行ダイヤが策定されている。

 走行時分は一番性能の悪い車両を基準に運転曲線を作図するため、新型車両との性能差が大きければ大きいほど、新車を担当した時には余裕が数秒増えたりする。

 停車時分は文字通り、駅に停車している時間で、会社によもるが15秒~30秒が一般的で、乗降人員の多い駅だと計画時点で1分近く確保していることもある。

 首都圏で朝ラッシュ時に列車がノロノロ運転となるのは、各駅の停車時分が日中よりも余分に10秒以上確保しているが故に、チリツモで各駅停車の表定速度が遅くなり、それがボトルネックとなるためである。

 鉄道事業者側としては、極力停車時分を短縮したいのが本音だが、乗降人員の絶対数や、一個列車辺りの扉の枚数や幅、プラットホームの広さなどの制約から時間短縮には限度があり、過度に旅客を急かす訳にもいかないため、結果としてノロノロ運転にならざるを得ないのが実情である。

 とはいえ、やれ駆け込み乗車だ、急病人対応や、旅客トラブルなどの、ちょっとした事件は付きものである。その対応を行う間は列車が動かせず遅れが生じる。

 そんな時に、運行計画に余裕時分が織り込まれていることによって、ひと区間では数秒しか縮まらなくても、終着駅到着時には遅れがある程度回復する仕組みになっているが、だからと言って駆け込み乗車をしても良い理由にはならないが。

余裕時分全廃の教訓。

 平常時に余裕時分は乗務員からすれば手待ち時間であり、体感的に遅延の回復で消化する割合は、路線の性質によっても異なるが概ね2~3割程度だと感じる。経営者の視点からすれば、運行計画で織り込むものの、実態として半分以上が手待ち時間となって、有効に使われていない余裕時分の存在はムダに思える。

 実際、このムダを切り詰めると、必要な列車の編成数が抑えられて、購入費用が数億円圧縮できたり、乗務員の残業時間が一人当たり1時間単位で削減されたりと、相当な費用削減効果が得られるだけでなく、速達性をアピールすることで競合路線への競争力にもつながる。

 副作用として遅延が慢性化して、駅員やコールセンターが苦情が増えたり、遅延証明書を余計に発行する必要が出てくるが、人件費や車両運搬具で削減できる費用と比べれば、微々たるもので、数字の上では割の合う合理化施作となる。

 この余裕時分の全廃を実行した会社は、2000年代初頭のJR西日本であり、その結果として尼崎でJR発足後最悪の列車事故が発生する引き金となった。この時の教訓は、人は余裕を失うと正常な判断ができなくなることである。

 詳細は航空・鉄道事故調査委員会の報告書に譲るとして、少なくとも事故当時のJR西日本は日勤教育で話題にもなったように、ミスを許さない恐怖政治体質が蔓延っており、列車の遅延すら処罰の対象だったと伝えられていて、同業者としてミスの隠蔽、過少申告は日常茶飯事だったものと推察する。

 運転士は理論上の走行時分と停車時分しか与えられず、駆け込み乗車でもされようものなら停車時分は超過し、走行時分で短縮できなければ、徐々に遅れが生じて処罰されるため、恐らく、例の魔のカーブは遅れを取り戻すポイントとして、日常的に70km/h(当時)の制限を厳守しておらず、乗務員の速度超過への抵抗感は薄かったものと思われる。

 とはいえ、遅れを無理に取り戻そうとすればするほど、リスクを過小評価して見誤る。報告書によると、事故直前の伊丹駅までは1分未満の遅れで推移していたが、停車時にブレーキで遅れを取り戻す意図だったのか、眠気でブレーキのポイントを見落としたかは、当日に不自然な運転を繰り返していたため定かではないものの、結果として過走。

 遅延も増幅させてしまい、指令への報告事項を増やし、発車後に車掌に過少申告の交渉をしたが、その最中に乗客からの苦情で車内通話が途切れ、辻褄を合わせるために車掌の無線報告を傍受することに気を取られ、高速度のまま魔のカーブに進入。遠心力に耐えられず、横転、脱線してあの惨状になったとされている。

世の中に無駄などあるものか。

 極例かも知れないが、合理化でムダを無くすと却って余裕がなくなり、人は判断を誤るのである。

 冒頭はたかだか歩行者信号の無視程度に思われるかも知れないが、交通事故による死亡率はゼロではないため、母数を増やしていれば、確率論的にいつかは1になるが、1になった時には既に手遅れかも知れない。

 歩行者信号を無視することで、最悪死亡するリスクと、いつもの電車に間に合うリターンを天秤に掛けること事態、馬鹿馬鹿しいと思う人が多数派である状態が正常だと思うが、世の中の賃金労働者は余裕がないためか、現実世界はそうなっていない。

 若年世代はお金に関しても同様で、非正規雇用の増大による雇用の不安定化、学歴社会に伴い、貸与型奨学金で借金をしてでも大学に行くことが是とされ、平均288万円の借金を背負い社会に出るため金銭面での余裕がない。

 そうなると、基本的には今月の家計を考えるのに精一杯で、長期目線で投資の種まきをする判断もできなければ、ブラック企業に搾取されていても、このまま働き続ける以外の選択肢に気付けなくなる。そんな社会に明るい未来があるのだろうか。

 一見するとムダに思えるようなことこそ、余裕を生み出す源泉であり、余裕こそカオスな社会を生き抜くために必要な要素となっているのではないかと思う今日この頃である。


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