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全体の教養を底上げしないと、多数決はクソ


民主主義の頂点を倒しても、衆愚政治は続く

 疫病や戦争と言った、人類が克服できたと錯覚していた出来事が、立て続けに起きている2020年代。我々はその渦中に居るが、これらの出来事によって、日本人から見たら平和だった21世紀の均衡が、徐々に崩れ始めているのは確かだろう。

 それにより、世の中に不満を持った若者が、一票ではなく一発で社会を変えようとするテロ事件が日本だけでなく、米国でも起きてしまった。

 先進国は経済成長により、今や飽食となって久しい社会であるにも関わらず、食って、寝て、種を存続させる根源的な欲求以上に、社会的な比重が大きくなってしまった。

 その歪みにより、偶々、社会的に不遇な環境で、居場所がなく、蔑ろにされて苦しみ続けた者が、何かの拍子に完全に社会的に失うものがない「無敵の人」と化して、自決する前に既得権益層にやり返す形での、国家そのものを揺るがしかねないテロ行為に走る形で表面化しているに過ぎない。

 確かに、自分らの居場所がない社会を作った、権力者の頂点に立つ者を排除したらスカッとするだろうから、どうせ自決するなら、最後に一発やり返してやろうと、哀れな自分を見殺しにしてきた、この社会に復讐してやる的な発想に至っても不思議ではない。

 そもそも、社会に居場所がなく孤立していることで、話を聞いてくれる(ガス抜きができる)相手も居らず、何ら抑止力が働かないとなると、貯蓄が底を尽きるなどの、経済的な破綻が引き金となって、思考実験の域に留まらずに、実行してしまうのだろう。

 これは行動経済学で、欠乏状態によって非合理的な判断を下してしまうことからも想像に難くない。

 しかし、冷静に考えてみれば、自分を蔑ろにした社会構造の頂点に立つ者を、非合法的に倒したところで、民主主義のプロセスに則った新しいトップを、現状維持を望む保守的な愚民が選び続ける以上、社会は何も変わらない。

 それどころか、真の敵は政治家ではなく、自分の教養レベル以上の指導者を選べない大衆にある訳で、正攻法で社会を変えていくなら、教育とマスメディアを変えるのが妥当だろう。

 いずれにせよ莫大な資本と時間が必要で、それらを持ち合わせているであろう既得権益側が、わざわざコストを掛けてまで、自分たちの立場を脅かすような存在を育てる真似はしないのは自明の理で、これからも変わらず愚民を量産し続け、衆愚政治であり続ける。それが嫌なら民主主義のプロセスに則って独裁や恐怖政治を行う他ない。

多数決は決して万能ではない

 私は多数決がクソだと思う派閥だが、これまで生きてきて最もクソだと感じたのが、校外学習のキャンプ(炊飯体験)で、出席番号で画一的に分けた5人程度の班の中で、班毎にカレーとホワイトシチューのどちらかを選べる的な話で、結果として全ての班がカレーとなったことだ。

 「食べ物の恨みは恐ろしい」の典型例だが、私が根に持っている時点で、シチュー派である。個人調べではシチュー派閥は全体の2〜3割程度であり、偏りなく各班に分散されてしまうと、5人中1〜2人しかシチューを希望する者が居ないため、カレー派が多数で否決される。

 しかし考えてみていただきたい。40人学級で5人の班を8つ作れる状況で、シチュー派が2〜3割となると、多数決ではなく加重平均を用いてカレー班を6、シチュー班を2の形で分けていれば、ほぼ全員が希望通りの飯が食えた訳で、その方が全体の満足度は高かったはずだ。

 多数決によって意思決定すると、過半数を占める多数派にとっては、満足のいく結果になるが、少数派の意見は、たとえ無視できない数だったとしても黙殺される。

 その典型例が、今の日本のシルバー民主主義であり、団塊世代を中心とする高齢者が日本人の多数派となっている構造上、高齢者が暮らしやすい政治にはなる。

 しかし、それにより、少数派の現役世代が重税に苦しめられ、超マイノリティである若者の意見は、政治的意思決定から疎外されている辺りからも、マイノリティ側のモヤモヤ感は共有できるだろう。多数決は決して万能ではない。

均衡が崩れる”いつか”に備えて教養を磨く

 多数決が万能ではないからこそ、民主主義的な意思決定をする際に、課題の本質が何かを見極め、その課題解決に当たり何をするのが理に適っているかを、自分の頭で考えられる教養と、長期目線で物事を判断できるだけの心の余裕が、有権者に求められる。

 しかし、残念ながら失われた30年で縮小再生産を繰り返し、等しく貧しくなる道を繰り返したことで、社会全体であれこれ考える教養も余裕も失われつつあるのは、まともだと感じる国民民主党の支持率を見ても窺えるし、これを記している自分自身だって怪しいものだ。

 結果、自分さえ良ければそれで良い。後のことは知ったこっちゃないと考える多数派の高齢者が、徐々に国の経済全体がシュリンクしていくだけの現状維持を望む。

 一方で、このままでは社会が持たず、どう考えても逃げきれない自覚のある少数派の若者が、「〇〇(既得権益)をぶっ壊す」みたいに、何か変えてくれそうな雰囲気のある者に、政策や公約もよく分からないまま投票する形で、社会の分断が起きているのは先日の都知事選の結果を見ても明らかだろう。

 現状維持の均衡が崩れるのは、おそらく団塊世代が淘汰される10〜20年先の未来だと予想するが、その時に初めて多数派となる団塊ジュニアもとい就職氷河期世代と、次点のミレニアル世代の教養レベルによって、この社会の行方が決まることを考えると、今のうちから教養を磨く習慣を持つことが、均衡が崩れる「いつか」の備えになると考えるが、いかがだろうか。


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