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免許を行使する権利と負う義務。

何のための免許制度なのか。

 教員の成り手不足が深刻化していることから、文科省が免許の取得要件を緩和する方針を打ち出したことが物議を醸している。以前にも物流業界をネタに記したが、成り手が不足しているのではなく、低賃金で激務な雇用主にとって都合の良い、現代版奴隷を彷彿とさせる成り手が居ないだけで、既に免許を保有している人はごまんと居る。

 資格保有者が就きたがらないのは、待遇が悪いなど相応の理由があるからである。私も業務独占資格である第二種電気工事士を、工業高校在籍中に取得したものの、その手の職にはこれまで一度も就いたことがない。

 士業という割には、単価が恐ろしく安く、同じ所得レンジで良ければ、電気工事士よりもゆるく稼げる職がいくらでもあるからである。そんな宝の持ち腐れ的状況を棚上げして、免許を取得するハードルを下げれば成り手不足が解決できると思っていること自体、言語道断である。

 因みに現職の電車運転士は、国家資格が必要であり、業務独占資格な観点では士業と類似しているが、「士」は語源が士業のそれとは異なるらしく、厳密には士業ではない。資格の名称が動力車操縦者なのが何よりの証拠だ。

 そもそも「免許」は免じて許すの字面からも察するように、一般には禁止されていたり、制限されている行為に対して、行政機関が「許可」をすることで、特定の人に権利を与える制度であり、「認可」とは重みがまるで違う。

 原則禁止されている行為に対して、個人に免許を交付して、権利を与える行政機関には、禁止事項に対する適性の有無を見極める義務が生じる。権利と義務は表裏一体である。

 過去に適性があると判断して、免許を交付した人を活用することなく、人手が不足しているからと、権利を与える敷居を下げるのは、現職として勤めている人のモチベーションを低下させるだけでなく、専門人材の質を低下させかねない。これは日本社会にとってはマイナスではないだろうか。

過ちを犯した業界に身を置くからこそ、

 鉄道業界に身を置かずとも、脱線事故と聞いて思い浮かべるのは、ほぼほぼ尼崎のそれだろう。あれほど衝撃的な惨状がニュース番組で報道されていたのを、リアルタイムで観ていた世代で知らない者はまず居ない。卒業アルバムに掲載される時事ネタですら、2005年はあの写真が使われた位である。

 科学技術が発達した21世紀にもなって、速度超過でカーブに突っ込み、遠心力に耐え切れなくなる、典型的な単純転覆脱線事故が発生した事実は、一介の鉄道員として、決して忘れてはならない。

 直接的な原因は鉄道模型で類似の状態が再現できる程度に単純だが、事故に至るまでの背景は複雑で、運転士が即死だったこともあり、航空・鉄道事故調査委員会の報告書は、日本では過去最大の分量となっている。

https://www.mlit.go.jp/jtsb/railway/fukuchiyama/RA07-3-1-1.pdf

 私は全ての資料に目を通しているが、要点だけ掻い摘むと、社内は日勤教育と言う名の懲罰的な恐怖政治体質で現業職員を追い込み、ミスの隠蔽や過少申告が横行していたこと。

 運転士は事故直前にはオーバーランの過少申告を車掌に頼み、報告の辻褄を合わせるために列車無線を傍受していたところ、最高速度のまま例のカーブに進入したものと推察されている。

 ここからは持論だが、当該行路に折り返す前の回送列車から、同職目線では不可解な運転をしており、折り返す前から既にパニック状態だったものと思われる。

 教員免許同様に、会社は成り手が不足すると、動力車操縦者の取得ハードルを下げている感が否めず、本来なら適性基準を満たしているか怪しい人も免許を取得できてしまう時期があるように思えてならない。

 もしかしたら当該運転士がこのパターンで、基本動作もおぼつかないまま、現場に放り出されてしまい、それが小さなミスを機にパニック状態に陥り、負のスパイラルから抜け出せないまま、本件に至った可能性も否定できない。

 事故調査報告書p.48には、学科試験が偏差値63に対して、技能試験の偏差値は50と記されている。頭で理解していることと、それが出来るかは別問題なのは百も承知である。

 しかし、同試験をパスした同職として思うのは、学科の採点は定量的なのに対して、技能に関しては一定基準こそ定められているものの、それ以外は採点者の主観が含まれるため、いささか定性的であり、部内要因で採点が甘くなる可能性は否定しきれない。

 免許交付のハードルを下げることは、かつて鉄道業界が犯したレベルの過ちを助長しかねないと、個人的には危惧している。

何が正しいかを見極める判断軸を持つ。

 天職を判断する材料として、Will・Can・Mustの考え方がある。やりたい(好きな)こと。できる(得意な)こと。するべき(求められる)こと。この3つの円が全て重なる位置にある職業が、その人の天職と言われるものだ。

 私は高校を出て鉄道員のキャリアを歩む中で、駅係員は好きではなかったが、人並み以上のITリテラシーは有していたため事務作業が得意で、周囲からも求められていた。

 Willが不足していたため、これを満たせれば天職になるのではないかと考え、乗務員を志望した。Willは補えたものの、今度は単純作業故に代わりがいくらでも居る状況から、駅員時代のように周囲から求められることはなくなりMustが不足した。それに運転免許を取得できる適性はあったものの、いざやってみると運転そのものは大して得意ではないと気付き、Canにも欠乏感が生じた。

 結果として志願した乗務員よりも、腰掛仕事だと仕方なしにやっていた駅員の方が満足度が高かったのである。しかし、鉄道員のキャリアパス上、片道切符故に乗務不能にならない限り、一般職の駅係員に戻ることはない。

 そんな葛藤を抱えながらコロナ禍が到来し、最初の自粛要請で街からは人が消え、電車を動かしても、ほぼ空気を運ぶだけの空しい日々が何日か続いたことで、一般社会にも必要とされていないような錯覚に陥り、終いにはストレス過多で大病を患った。現役世代でもっとも病気をしないであろう20代半ばの話である。

 鉄道員としての使命感があるからこそ、得意でもない運転を続けた末に壊れた人間に、乗客の命を預かる資格などないと内心思うが、残念なことに目的優先、人命軽視な組織は同じ判断には至らなかった。それが、今春に早期退職に踏み切る要因のひとつである。

 組織を変えることは難しい。だからこそ、自分ひとりくらいは、思考停止にならず、何が正しいのかを見極められる、確かな判断軸を持った上で、行動に移せる人間でありたい。


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