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強度を上げるのではなく、衝撃を吸収する。

敢えて壊れやすい箇所を設ける。

 良いよなぁJRは、運転台が広くて。民鉄の乗務員が一度は口にすると言っても過言ではない常套句である。民鉄の車両は運転台の真横に乗務員扉が付いているが、JRの新しめの車両は運転台の後方に乗務員扉を設けているためだ。

 とはいえ、JRの車両の方が全長が長いかと言えば、そんな訳はなく、1両20mは変わらない。つまり、JRは運転台を広く取っている分だけ、先頭車両の客室が狭くなっていると捉えられる。

 裏を返すと乗務員室が狭い代わりに、客室を広く取って混雑時に詰め込める民鉄の考え方は、経営の観点では理にかなっているかも知れないが、JRの車両は拡幅車体を採用している分、長さのハンデを補うどころか、むしろ有利かも知れない。

 なぜJRは先頭車両だけ、客室の長さを抑えてまで乗務員扉の位置を、運転台の後ろになるよう設計しているかと言えば、クラッシャブルゾーンの思想の基、コストをかけて強度や剛性を高めるのではなく、逆転の発想で、敢えて構造上、変形しやすい箇所(ここでは乗務員扉部分)を設けることで、万が一の衝撃を吸収して、生存空間を確保するという、ベンツの天才エンジニアの発想を取り入れているからであり、決して乗務員の処遇改善目的で設計しているわけではない。

 仮に強度を上げたところで、衝突した際のエネルギーは、どこかに分散する筈であり、無条件で消えて無くなるなら、現代力学の根底が覆されてしまう。

 つまり、車体前面の剛性を極限まで高めて、仮に前面が無傷とするならば、衝突時のエネルギーは前面以外のどこかに分散され、乗務員や客室の空間が損傷する可能性が高い。生命を守ることが目的であれば、車両が壊れることで衝突時のエネルギーを、車体が吸収してくれた方が、搭乗者の空間まで被害が出る可能性が低下する。この考え方は人生でも活かせそうだ。

強くあるべきと思い込まない。

 肉体的にも精神的にも、強くなければならないと思い込んでいる現代人は多い。原始時代の生き方を地で行くなら話が違ってくるが、平和な文明社会の中で生きる上では、機械技術の発達により、フィジカルの強さが必要になる局面など、そうそう無いだろう。

 今後、経済規模が縮小するにつれて、日本の治安が悪くなる可能性も否めないが、それに備えて自分自身を鍛えなくても、お金さえあれば護衛のプロを雇うことだって出来る訳だから、生まれつきの体質や骨格の違いから、向かないことを無理に自前でやる必要はない。

 メンタルに関しても、強い心を持つ的な自己啓発本が、書店の目立つところに並べられているのを見る度に、現代の闇を垣間見た様な錯覚に落ちるが、そもそも日本人は人類史で、ビビって大陸中を逃げまくった末、島国にたどり着いた民族である。

 遺伝子の傾向として、悲観的で恐怖心を感じやすく、その臆病さを気合いや心持ちでどうにか出来るのなら、こんな狭くて山ばかりの島国に、1億2,000万人も居座っていないだろう。

 構造上、仕方がないようなものを受け入れず、根性で直そうと思うこと自体が、そもそも間違っている可能性が高いが、減点方式の教育で完璧主義が蔓延っているとそれに気付けない。別に生物として弱い存在でも、つつがなく暮らせるのなら、それで良いのではないだろうか。

軸さえブレなければ、他は柔軟に。

 構造上、脆い部分を受け入れ、肩の力を抜いて生きれば良いと、全てを分かったかのように記している私だが、今まで強かに生きてきた結果として、クラッシャブルゾーンと同義の微かな悲鳴を聞き逃し、壊れてはいけない内臓を、20代半ばで悪くしたからこその警告である。

 自分自身に過大な負荷が掛かった際、身体的にどこから調子が悪くなるのか。私の場合、耳鳴りがそれに当たる。

 耳鳴りを自覚した時点で、自身にはすごい負荷が掛かっている現状を受け入れ、仮病を使ってでも休んでいたら、大病を患わずに済んだのではないかと入院中、フランスベッドの上で後悔していた。

 それからは、強かに生きるのではなく、時代の流れに身を委ねて、柔軟に生きようと思うようになり、今春に個の時代らしく、時代錯誤も甚だしい日系企業からおさらばする。

 金融資産所得を頼りに、学び直しながら今後の人生を模索するが、社会に出た直後の自分が、この状況を見たら何を思うだろうかとも考える。結果論ではあるが、上昇相場の時なら、初任給(手取り)と同等か、それ以上の金融資産所得が得られているからだ。

 かたやフルタイムで乗客の命を預かる重責な賃金労働を行なった対価。もう一方は数字と睨めっこして、パソコンの前で状況に応じてちょこちょこ操作して得られる実利。おまけにこちらはミスをして、誰かが死ぬこともない。

 後者は、現実世界で何の付加価値を生み出していないが、前者よりも稼げる傾向にある。この構造はどう考えてもおかしい。お金に困らなくなった今でも、不健全な仕組みだと思うし、みんなが揃いも揃って投資家になれば、経済がまわらなくなるのも明白である。

 しかし、資本主義社会に取って変わるだけの、優れた社会システムがない以上、我々は現状の枠組みの中で立ち振る舞うしかない。それならば、頑なに拒むよりも、受け入れて自分も資本家側に乗っかるのが得策だろう。

 お金持ちを貧乏にした所で、貧乏な人がお金持ちになれるわけではない。お金持ちがズルいと思うなら、正攻法でお金持ちを目指せば良い。一度きりの人生を謳歌するための、いち手段としてお金があるのであって、お金を目的に生きても仕方がない。

 軸さえブレなければ、お金を得る手段なんて、道徳的なら何だって良い。たとえ高卒で平均年収以下の私でも、20代のうちに複利効果を実感できる規模の資産は築けたのだから、相当な覚悟で取り組めば、時期に資本はそれに応えてくれる筈である。


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