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社会的に死んだら、世捨て人になるチャンス


組織人として生きていた頃は、人として死んでいた

 私は過去に発作で倒れ、術後の後遺症という名の持病を抱えながら生きている。これだけ読むと、中年〜壮年くらいな印象を受けると思われるが、執筆時点ではまだ20代後半のアラサーおじさんだ。

 20代でおじさんを自称したら、30代や40代にもなって、若作りもとい現実逃避している中年の立場が危うくなる的な苦情は一応受け付けるが、火に油を注ぐと、リアル伯父である以上、おじさんと名乗るのが適切だろう。

 人間は生物である以上、老いからは逃れられないのだから、「老い=悪」的な先入観を持つと、いつまでも若くありたい希望的観測と、そうはいかない現実とのギャップで、いつか苦しくなる訳で、それならば最初から老いと向き合い、どう老いて死にゆくかに考え方の焦点を当てた方が合理的だと思うが、いかがだろうか。

 それはともかく、これまで高卒で鉄道員として生きていたが、シフトワークによる身体の負担が想像以上に高く、病気を機にドロップアウトして、今は専ら株取引をしながら、地方で隠居生活をしている。

 一応、専業になる以前の兼業投資歴が年齢の割に長く、昨今の疫病と戦争はもとより、チャイナショックも経験していることと、トーシロの投資家として経済的に死なないことが最優先事項のため現物取引に留めている。

 それでも直近5年間のリターンは、賃金労働者としての年収水準より高く、組織人としてはクセが強い単なるポンコツだが、投資家としては再現性のない不思議能力で運よく食い扶持を確保できている節がある。

 思い返せば、組織人として生きていた頃は、人として死んでいた。そして、人として生きている今は、社会的に死んでいる。

 どちらが良いのかは個人の価値観によるが、ひとつ確実に言えるのは、私のように身体が資本のブルーカラー側で身体を壊すと、人的資本を全て失うに等しく、途端に社会復帰が無理ゲー化して、社会的に死ぬ確率が高く、往々にして選べるだけの選択肢が残されていない残酷さを内包しているのが、この社会の現実と言ったところだろう。

ハイリスク・ローリターンなブルーカラーはカモ同然?

 投資の世界に身を置いていると、リスクとリターンが表裏一体であることが身に染みている。つまり、金融市場においてハイリスク・ハイリターン、ミドルリスク・ミドルリターン、ローリスク・ローリターン以外はあり得ない。

 ローリスク・ハイリターンを謳う商品はサギだし、反対にハイリスク・ローリターンな商品はカモだ。このリスクとリターンの原則が染み付いていれば、投資詐欺の殆どは直感的な違和感が先行して、ほぼほぼ見抜ける筈である。

 しかし労働市場では、公共事業という名の市場原理が働かないブラックボックスが存在するためか、この原則が通用しない。

 一般論で事務仕事を中心とするホワイトカラーよりも、現場仕事を中心とするブルーカラーの方が、3K労働と揶揄されるだけのことはあって、怪我や病気で働けなくなるリスクや、雇用が不安定で失業するリスクが高い。

 それならば、リスクに見合うだけのリターン、つまり高い待遇を提示しなければ釣り合わないのが市場原理の鉄則だが、現実にはリスクの低いホワイトカラーの方が厚遇だったりする意味で、ブルーカラーはカモ同然とも捉えられる。

 典型例が公務員で、行政職と現業職とで給与テーブルが異なるが、往々にして現業職の方が安く設定されている。

 ごみ収集や公営バス・電車のドライバー、清掃作業員、学校用務員、守衛など、社会インフラを維持する上で必須な職業に就く人と、冷暖房が完備された庁舎内で事務作業を行う人。

 どちらの方が実社会に役立っているかを考えれば、「市バスの運転手なんてトチ狂った給料で生活してる」なんて発言が市民に受け入れられて、給与カットするみたいな事態がまかり通ること事態がおかしいのである。

 だがしかし、成り手が居なくなって不便にならないと、その有り難みが理解されないのが現場仕事の悲しい現実でもある。インフラは機能していて当たり前ではなく、多くの名もなき労働者の手で支えられている事実を今一度、厳粛に受け止めるべきではないだろうか。

ワンランク上を目指す先にあるもの

 そんなことを入院中に思っていたが、私がボヤいたところで、社会は何も変わらない。だからこそ、一度、社会的に死んだ人間を受容しない、ブルシットジョブが蔓延る社会に復帰する道ではなく、クソみたいなものが混ざっている社会そのものから距離を置く「世捨て人」としての道を選び、今に至る。

 労働者として社会に出ると、金融機関から社会的信用が得やすいが故に、割賦販売やカードローン、キャッシングやリボルビングの心理的ハードルが低く、身の丈よりもワンランク上の生活水準まで引き上げては、未来の昇給や残業代で帳尻を合わせがちである。

 だが、それを繰り返した先に何があるだろうか。限界効用逓減の法則で、最初の1消費単位で得られる効用が最も大きく、単位が大きくなるにつれて、得られる効用は小さくなっていくことは、経済学で証明されている。

 つまり、決して超えられない最初の効用を追い求めて、大量生産大量消費のループに嵌まることは、資本主義社会という名の手のひらの上で転がされているに過ぎず、その代償として人生の時間を切り売りする賃金労働から逃れられなくなる。

 しかし、その賃金労働にも定年退職という仕組みが存在して、いつかは引退しなければならない。そして、人間も生物である以上、老いて最終的には何も持てずに死に至る現実からも逃れられない。

 死から逆算すると、無欲、知足を前提に自活するハードルを極限まで低くした世捨て人として、俗世間から距離を置いた生き方は、実に理に適っているとも捉えられるが、いかがだろうか。

 現に養老孟司先生は「人生、一番効率的に生きるんだったら、生まれたらすぐお墓に行けばいいんですよ。」と発言しており、これを炎上芸でお馴染み成田悠輔先生の言葉を借りると「コスパを良くしたいなら死ねば良い」と、ニュアンスとしては同じ結論に行き着く。

 人生など80年掛かりの壮大な暇つぶしと考えると、何かしらの不幸なイベントで社会的に死んだら、世捨て人になるチャンス到来であり、そこから人として生きる本当の人生が始まると思えると、社会的な「死」に怯えたり悲観しては、社会規範や同調圧力に嵌まり続ける必要などないのかも知れない。

 そうした価値観が世間一般に浸透することが、回り回って社会的に死んだ人間を受容する社会に変化して、誰もが生きやすい社会となるための一歩になるだろう。


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