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やっぱり気になる広島サッカースタジアム⚽️

 広島市の出身として中央公園の変遷を記憶に留めていたい。ただの何もない公園の風景もそれはそれで悪くない。実際に訪れたことのある方ならわかってもらえるが、百万都市のど真ん中にある広々と何にもない芝生空間は本当に貴重な都市空間だからだ。

 映画「夕凪の街 桜の国」はまさにここが舞台となったドラマ。今でも映画に出て来たポプラの木が本安川河岸緑地に立っている。毛利輝元が築いた広島城の城郭内である広島市中央区基町、そこはかつて大日本帝国陸軍の用地としての機能があり、一時は大本営も置かれていた日本の中心でもあった土地。

 お城を中心とした広い敷地内では終戦まで各種の訓練も行われていた。そしてそのことも原爆投下理由のひとつになった昭和20年の人類最初の原子爆弾による多くの一般市民を巻き添えにした殺戮。その時を境にこの土地は数奇な運命をたどることとなる。

 原爆で住む家を失った人たちが何もなかった国有地に次々とバラックを建てて住み始め、一体は原爆スラムとして戦後の都市計画からは隔絶された魔境空間となっていく。

 そうした人々の住まいを確保しようと、本腰を入れた行政の手により一角に建設されたのが最大20階建ての当時としては日本では珍しい都心の大規模な公営住宅群、通称「基町アパート」。徐々に住宅から住人を移転して跡地を更地化していく。そうした整理がようやくついたのはもう昭和50年代になってからではなかったろうか。

 それまで地元の人でも近寄りにくかったスラム街から一転、何にもない都心の緑地公園へと変貌。公園に付随して図書館やこども科学館、ファミリープールなども整備され、周辺一帯は広島市民の文化・スポーツのニーズを吸収する都心のオアシスへと大きな変遷を遂げたのである。

戦後すぐに立案された素晴らしい都市計画案を今実現へ

 そんな中央公園であるが、元々は戦後の戦災復興に伴う都市計画案として採用された丹下健三氏の「平和公園計画」の中に組み込まれていた。良く知られているのは、平和公園の南側にある平和記念資料館から北側を見ると、原爆死没者慰霊碑から24時間火を灯している平和の灯、旧産業奨励館の原爆ドームまでが直線上に配置をされている。

 現在はそこで平和公園は終わっているのだが、1949年に公表されている廣島平和記念都市建設事業計画案では、広島城の西側(現中央公園)までその対象としており、その後すぐに設計競技案として提出された実施計画は、原爆ドームまでの範囲へと縮小されている。そのため“幻の計画案”として長年語り継がれてきたのが、ここへきて火の目を見ることになるという。

 そしてサッカー専用スタジアムが中央公園建設案が承認されるまで、広島市の中で建設計画が二転三転した、広島市のサッカースタジアム建設問題なのである。長年愛されてきたカープの本拠地である旧市民球場が、老朽化から広島駅付近に移転新築をしたのを契機に始まった球場跡地の活用問題

 そこにサッカースタジアムをもってきたらどうかという議論が自然と巻き起こり、検討したものの球場跡地ではサッカースタジアムを建設する余裕が乏しい上に、工法の点で建設費が高止まりするということで、敷地に余裕のある中央公園や宇品の県有地がベターとして一時は候補地として俎上に上った。

 その際に中央公園はいち早く諸処の理由から候補から外れたはずだったが、本命候補となった宇品の県有地の反対が地元やチーム側から大きくなり頓挫。それでは致し方ないと再度俎上に挙げて、検討を重ねた末にやっとたどり着いたのが中央公園の西側に建設する現プランである。

 市民レベルから見ていたらここまで来るのに、当事者の広島県や広島市の動きが鈍く、取組みに全くの熱量が感じられなかった。

 お役所仕事と言われればそうなのだが、市長や知事の言動からしてやらされている感が半端なかった、というのが感想である。何故そうなっていたかの本質は分からないが、本当にスタジアム建設への道筋がはっきりと見えて来たこの時点での感想は“奇跡に近い”ではないだろうか。

サッカーファンではないが中央公園への思い入れは深い

 広島市を離れてもう○十年経っていてさえ、コトの成り行きを注意深く見て来たほどの広島市の将来をある意味決すると考える大切な案件である。それは何故かと言えば一番にはJリーグ創設メンバーとしてリーグの発展に寄与してきた、サンフレのチーム運営上の問題を解決すべき理由がこれだけあるからだ。

①歴史あるチームの「サンフレッチェ広島」のホームアリーナ問題(Jリーグのスタジアム規程に届かなければJ1リーグへの加盟資格を失う)。現ホームのエディオンスタジアム(広島広域公園陸上競技場)は、メインスタンド以外の観客席が背もたれやボトル入れ付きの個人席の率が少なく、観客席の上の銀屋根もメインスタンドの一部だけ。以前、ワールドカップ誘致を目指して屋根掛けを計画したが頓挫した。その他、トイレの数やユニバーサルデザインになっていないなど、1990年代に建築されたスタジアムには問題がいっぱい。

②現在の安佐南区のアジア競技大会メイン会場で開閉会式を開催した日本を代表するスタジアムは本来、陸上競技会のためのスタジアムであり、当初は収容人員約5万人と言われていたが、実際には4万人も入れば受入の機能はいっぱいであり、3万人も入ると観客に無理が生じる様なプロサッカーを観戦する環境ではない。日本を代表するのは1990年代までで、近年はほとんどのチームが球技専用のホームアリーナを持つ、ないしは建設計画有りの状況になりつつあるほど、日本のサッカー文化は進んできている。

③メインのアクセスであるアストラムラインは本通りから時間も掛かるし、ピーク時の本数の調整も難しい。そこで役割を担うのは横川駅から出る臨時のシャトルバスになってしまうが、スタジアム周辺の渋滞がひどく定時制に乏しい。もちろんマイカーでの観戦は渋滞と駐車場不足で至難の業。シャトルバスの貸切運行はチームの経費持ち出しのため利益を圧迫する。

④もともとのサンフレのホームグラウンドは西区にあるコカコーラジャパン広島スタジアム(県立競技場)結果、大きな大会や優勝を賭けた試合でもなければ満席は難しく、サッカー観戦では大きな援護射撃になるアウェーチームの応援団の来場も期待薄。

⑤結果、優勝常連のチームながら収入は並みのチームと変わらずに、高い契約金を費やす大物選手の獲得もできず、逆にチーム内の生え抜き主力選手が他チームに移籍する例が多くある。

このような悪循環を断ち切る手段として、チームサイド、ファンともにまちなかのコンパクトな球技専用スタジアムを求めてきた経緯がある。

広島市都心の魅力低下による集客減を挽回するウルトラC

そこでサッカーにあまり興味がない層の中で、広島のまちづくりに関心が高い人間としては、

①市民球場が紙屋町から広島駅に移転して以降、衰退が進む紙屋町の復活。紙屋町から基町にかけての都市空間の連続性の確保と、新たな集客装置の設置による行きたくなるまちづくり。

②これまで人通りが全くなかった中央公園の新たな核ができることで、旧市民球場跡地に整備を目指すイベント広場とつなげて、周辺の文化施設の再配置計画ともリンクをした、新時代の広島市の都市の顔をかたちづくる壮大な計画の第二章。(第一章は広島駅周辺の再開発とマツダスタジアム)

③これまでは忘れ去られていた感もある広島城趾公園の再整備と元安川の河岸緑地と新サッカースタジアムを借景にした、新たな城下町広島の魅力を生み創り出すまちなか再整備。大阪市で言うところの大坂城公園のような城と緑地、文化・スポーツ施設に近接した高層オフィス街、それに紙屋町の連続性をプラスし魅力溢れた都市空間を目指して。

④旧市民球場跡地にできるイベント広場と広島商工会議所や隣接する民間ビルの立ち退きを実現できれば、真の平和記念公園としてまた世界遺産の場所として平和資料館から新サッカースタジアムまでの丹下案に基づく「平和公園計画」が時を経て完成に至る。相生通りから南は鎮魂の舞台として、北側は市民生活で親しまれる、現在の平和な社会を楽しむ場所として機能する。

(コンストラクションマネジメントを担当する山下PMCのサイトより) ※この模型は当初計画の中央公園東側建設プラン、この契約後に西側に変更

 広島市が2020年度の一般会計補正予算案の中に、「債務負担行為」として、総額約260億円の新サッカースタジアム建設の財源確保を、市議会に提出する方針が明らかになったことで、ゆめへの一歩が近づいた。  


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