徒然草を読んでいるはなし
エッセイが書けないので、ふと思い立って吉田兼好の徒然草を読んでいる。正直、エッセイと随筆のちがいすらあまりよくわかっていないのだが、とりあえず「日本3大随筆を読めばなんか分かるんじゃね?」と思い、今日その足で駅前のブックオフに出かけることにした。
日本の古典文学を買って読む機会など滅多にない。せいぜい読んでも『あさきゆめみし』くらい。もはや古典文学そのものですらないけど。
訪れたブックオフで、まずは岩波文庫のコーナーから漁ってみる。
するとさすがは日本の三大随筆、古本でもきちんと置いてあった。
今回購入したのはKADOKAWAの文庫本だが、700年以上も前の内容の割に元値は720円と文庫本にしては少し高い印象を受けた。古本でも400円にしか下がっておらず、さすがは古典文学、普遍的な価値のあるものは(金額も)そこそこにするんだな、という感想をもった。
思い立ったが吉日的に手にしたこの本の仕立てがかなりよく、まず現代語訳が先に出てその後に原文が出てくるという流れ。当時の挿絵や豆知識や解説者の解釈なども適宜挟まれ、スイスイと読み進められる。今ちょうど半分をすぎた頃だ。
受験時代に兼好法師を習った時、徹底した「無常」観を展開しているという彼に対してはどちらかというと「俗世にケチをつける嫌味ったらしい坊主(ではないけど)」というネガティブな印象を持っていた。
ところが実際に読み進めてみると意外とそうでもなく、人間に対して鋭い観察眼を持ち、独自の悟きながらも思想的に潔癖な部分はなく、矛盾や清濁を併せ持った「おもしれー爺ちゃん」であることがわかってきた。たしかに全体的にはときの権力者や堕落した僧たちに対する辛辣なコメントも多いのだが、一方で四季折々の情緒に対しては清少納言並みの繊細な感性と目を持っており、(実際「清少納言も言っていることだが〜」と本人が書いている部分がある)夏は超暑くなる京都での最適な住まいに関する言及や「もののあはれ」の定義でユニークな持論を展開するなど、「射程圏の広い知識人」といった印象を受ける。彼の思考の深さはまさに深海並みで、現代の「エッセイ」とはまた少し違うようだ。現代のエッセイ(随筆)はもっと具体のエピソードをその人の観点で横に広がるようなものが多い気がしていて、こんなに下に潜るように独自の持論を展開していくパターンは少ない。
読んでいて不思議と勇気が湧いてきた。
「これが3大随筆のひとつであるなら、私の普段書いているnote(自称エッセイ)も立派な随筆になるのでは.....!!!」と謎な自信が湧いてきたのだ。思考が下へ下へと潜り、日常の些細な1の出来事から100の自分のワールド、つまりは思想を展開していくスタイルはまさに私の普段のエッセイと同じスタイルではないだろうか。(そう思いたい)兼好法師という、強力すぎる後ろ盾を勝手に獲得した気分だ。
そんなこんなで勝手にネガティブな印象を持っていた兼好氏の「無常」観だが、この本の導入で書かれていた紹介がまず良かった。初っ端から私が共感した部分として、こう書いてある。
この導入を読んで、私の中で「無常」観に対するイメージがかなり変わった。どちらかというと「無常」とは平家物語の「諸行無常」の「無常」、つまり「万物はすべてひとつにとどまることなく変わり続ける、虚しいものさ!」というイメージが強かったが、この訳によれば兼好法師の言うところの無常とは人知を超えた不思議なもの、理解が及ばないもの、という意味合いらしい。人知を超えるものを人は昔から「神」「お天道様」など宗教やアニミズム的精神で捉えていたのを、兼好は当時の宗教批判から「宗教に頼らない道理」というものを必死で探していたのかもしれない...そんなことを思ったのだった。そして彼がたどり着いた結論が、「無常」だったと。
もし兼好の営みが本当にそうだったとするのなら、それは私が勝手に一人ですすめている作業と似ているのかもしれない。ひとりで独自の悟りをひらいていくこと。混沌としたこの世に何かしらの法則を見つけ、そこに自らを置くこと。
さすがにこの現代において「俗世を離れる」ほどの極端さは持っていないが、気づけば勝手にカオスな世界に放り出されているこの謎の多き「人生」に対する疑問や不思議、戸惑いは私も常々考えていることだ。
どんな思想をミックスしてどんなふうに自らの今回の生を納得させるのか。おそらく兼好が挑んだその果てしない究極のテーマはまさに、私が四六時中考え、実践していることにほかならない。
...ややこしいことを書いてしいまったので、ここからは純粋におもしろかった部分をピックアップしてみたい。
まずは古文の問題で読んだことのある気がする、「あだし野の露」という章だ。
漂う「ザ・あはれ」観…
遁世に見えるが決して悲観的でなく、厨二病的な自己陶酔に陥っている訳でもない。儚い命を煙にたとえているあたり、私たちが古典で散々習わされてきた「いにしえの人々の感性のみずみずしさ」なるものを感じる。ちなみに、古文の授業で歌の中で出てくる「露」という言葉には「儚い」とかの意味があることを習った。習ったことが出てきてちょっと嬉しい気持ちになる。
どんな人間にも必ず訪れる「死」があるからこそ、生は際立ち、人は意味を求める。ここら辺は兼好の無常観がよくわかるパートになっていると思う。
特に好きで、私が兼好と似たようなところがあるかも...と思ったのは「真乗院に 盛親僧都とて」という章だ。
本文の解説文を借りると、このパートは
「兼好は自分が逆立ちしてもかなわない人物を紹介する。(略)自分がなろうと努力しても及ばない理想の自由人を、盛親僧都に見いだしたのだ。尊敬と憧憬の念がすなおに伝わってくる名文だ。末尾の一文「徳の至れりけるにや」に兼好の思いのすべてがこもる。」のだそうだ。前も少し書いたことがあるのだが、私も同じく、こういう説法に出てくるような人徳高く究極の道理の道をひらいているのにも関わらずやることなすことが最高に狂っているカリスマ僧に、つよい憧れを感じている。
毎日このnoteで出てくるあのみうらじゅんも私の持論では現代のカリスマ僧というポジションなのだが、やはり私が尊敬していつか自分もそうなりたいと思えるのは自由で人徳の高い僧、お坊さんなのだ。品と知性を携えたカリスマ坊主に憧れと尊敬の念を抱いていた兼好の気持ちが、とてもよくわかる気がした。
この他にも個人的に最近起こった出来事や感じたことに通ずる話が多く、700年も前の文章にこんなにも共感できていることに「無常」のような感覚があった。
話はだいぶ逸れたが、実際700年後の私たちでも読んでいるエッセイ(随筆)がこんな感じの内容であるなら、なんとなく私がいつも書いてある文章のスタイルも許されるような気がしてきている。徒然草に救われたと言ってもよいだろう。
次なる研究はズバリ、カリスマ僧である。なぜなら私も女性でありながら現代のカリスマ僧になりたいから。
そのためにも参考文献としてまずは古典の説話からカリスマ僧の話を読み漁り、研究しようと思っている。そこから現代におけるカリスマ「僧」(ただし無宗教で)とは?というテーマを深めていくとしたい。今日のブックオフで徒然草の隣にあった今昔物語と、説話集らしい古事談という本も買ってみた。
じょじょに私の理想の大人像がクリアになっていって楽しい。そのうちカリスマ僧の珍エピソードもまとめていくつもりだ。マジで誰得の内容だとは思いますが、どうか乞うご期待ください。
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