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言葉でつかんで離さない

2022.0202
春休みになった瞬間に観ようと思っていた映画を、今日は一気に2つ観た。
『フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊』(長すぎる!!!)と、『浅草キッド』だ。

フレンチ・ディスパッチは先週公開したばかり、浅草キッドはNETFLIXで昨年の12月から配信されている人気の作品だ。

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フレンチ・ディスパッチは、50カ国50万人に定期購読を抱える超人気雑誌。その名物編集長がある日突然心臓マヒで死んでしまうのだが、残された遺書にのっとり、編集部は解体、廃刊になることが決まる。
映画は、編集長の生前最後となった号に寄せられた、自転車・美術・政治記者・食のそれぞれの分野のエッセイストによる寄稿内容が再現される形ですすんでいく。

映画館で予告編を見た時から、絶対に観ようと決めていた作品だ。

この予告編のサムネイルからなんとなく予測されるとおりに、めためたにおしゃれな映画だった。見終わってすぐ、真っ先に浮かび上がった「西 洋 の 感 性 」をもとにこんな感想をつぶやいた。

こっちのnoteではあまり言っていなかったことだが、実はプライベートで制作している雑誌がある。雑誌はまだ形を持たない抽象的な概念や思想を言葉やイラストで形に落としこむ点につよい媒体なのだが、今回はその雑誌が映像化されたものだと言える。しかもエッセイの内容に動きをつけたものだったので、雑誌と映像の違いをみるのももおもしろかった。

とにかく、直角とか、長方形とか、左右対称とか、そういうとビシッ!キチッ!としたものが好きなデザイナー気質の方には眼福の作品だと思う。内容そのものが何を言っているか、というよりも本当にビジュアル、画が見どころな映画です。

続いてはこちら。ビートたけしの御師匠との関係を描いた師弟物語、浅草キッド。

年末、私が好きな人たちが皆こぞって絶賛していた作品。
ビートたけしにそこまで深い思い入れはないが、(強いて言えば、若い頃の色気がすさまじい。)なんせ柳楽優弥のなりきり度がスゴすぎるという噂を聞いて、どうしても見てみたくなったのだ。なんとビートたけしの所作指導に、モノマネ芸人である松村邦洋が入ったとのこと。そんな世界線ある?

実際、シーンが進むにつれて、柳楽優弥がたしかにどんどん本物に近づいていく様子が手にとるようにわかった。特に売れ出した頃のシーンで漫才をしている時はもう本当に北野たけしだった。すごすぎる。
俳優って、どうやってその人の魂に入り込むんだろう?と思う。だって、お稽古をしても家に帰れば生まれてこの方の自分になるでしょう?しかもまだ生きている人の場合、どうしても本人と比べられながら芝居をしなければいけない。しかも相手はビートたけしという、クセしかないような人だ。どんなプレッシャーの中であの役を作り上げたのかと想像すると、俳優という特殊な職人だけがなせる技に、ただただひれ伏したくなる気分だった。

ストーリーももちろん良かった。
まだ下町感がゴリゴリに残っていた頃の「芸」にかけていた人たちの生き様。流行り廃りの中で、夢破れていく人間はどの時代にも存在する。
この時代にはまだ「江戸っ子」とか「粋」とか「気概」とか、そんな言葉を体現している大人がいっぱいいたんだろうな、と思う。負け方が粋だった。

逆になんで今の社会はこんなにも人に冷たくて、言いたいことを押し殺して、みんなやりたいこともなくて立ち尽くしているんだろう?とシンプルに疑問に思った。社会がまずしくなったから?

浅草キッドの人間関係の濃さがうらやましかった。

今日言いたかったのはこれだ。

映画やドラマ、舞台などの作品の余韻を、私はきちんと言葉にしてつかんでおきたいな、と。もちろん、言葉にする暴力性には常に気を配りながら、という注釈つきで。

作品を見たあと、毎回霞のようなイメージが残る。今日みた作品のように、バチッと「これは〜〜〜だ!!!!」という明確な言葉が降りてくることもあるけれど、そうでない時も当然ある。

私の経験上、そういう霞はたいてい、時間が経てば消えてなくなる。果てには霞があったことすら忘れてしまう。でも、霞を言葉でつかんで握っていれば、頭の片隅にかならず残ってくれるのだ。そして、同じような経験をしたり、言葉を聞いた時にはちゃんと頭の引き出しから出てきてくれる。

なかったことにされてしまうのが、嫌なのだ。今日、私はこんなにいろんなものを受け取ったのに。いろんなインスパイアを受けたのに。
この霞をつかんで離さないために、私は言葉をつかいたいし、ちゃんと感想も残したい。Twitterでも、noteでも。

この春休みはたくさん感想をつぶやいていこうと思う。



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