好きになる人と幸せにしてくれる人は違うのか
私の好きな人は必ずしも私を幸せにしてくれるとは限らない。
そんなこと、とっくの昔に気づいていた。
それなのに、それを認めるのが怖かった。嫌だった。
人を好きになるという感情は、私にとって特別なもので、私の大切な一部。
はっきりとした理由もなく、その感情を否定するのは、自分の大切な一部を失うのは到底できなかった。
見返りを求めない恋をして早3年を迎える。
そんな私の恋ももうすぐ終止符を打つことになるのかもしれない。
相手を好きである自分を認め、でもそれを相手に押し付けないように、見返りを求めないように、自分で自分を抑えて、それでもデートして、いろんな話をすることが楽しければ、それでいいと思っていた。
自分の辛さから逃げて、残ったほんのわずかな温かい気持ちが、心地良くて、それを失うのが怖かった。恋人になれずとも、相手が自分の大切な人であることには変わりないから。
自分の一部を失うことで、好きな人だけでなく、忘れらない人だけでなく、大切な友達としての彼を失うことが怖かった。
10ヶ月ぶりの再会。
お互いに今は忙しい時期で、大事な時期だったから、期間は空いたし、その間、あんまり連絡も取れてなかったけど、私の非常口としての彼は、何かあった時には必ず想像できない考えで私を慰めてくれた。励ましてくれた。勇気をくれた。
一度連絡をとってしまえば、もっと欲張りになってしまいそうで、正直、不安ではあったが、自分も相手も忙しいことが唯一の救いだった。
それでも、お互いに少し落ち着くと、電話をして、いろんな話をする。
それが心地良くて、でももっと求めてしまいそうで、知らずのうちに、自分の中のジレンマに目を瞑ることにも慣れてしまった。
久しぶりに会いたくなった。
だからそう伝えた。
会うことになった。
平日の夜ご飯。
冷静な私はいつだって平気そうな顔して、その予定をなぞるけど、裏側にいる私は服やメイクを悩んだり、美容を意識したり。
自分で自分をかわいいな、って思う瞬間はそれほどないが、冷静な私も少し微笑んでいた。
カジュアルな服装に、少し可愛さもあるコート。
イヤリング をつけて、ちゃんとメイクをして、当日を迎えた。
待ち合わせの改札。
帰宅の時間も相まって、すごい人の数だけど、結局一瞬であいつを見つける私は、相変わらずの私だった。
そして相変わらずのあいつで、相変わらずの会話で、相変わらずの健全な解散時間で、相変わらずのなんとも言えない苦しさに支配される。
私は一体何をしているんだろう。
そんな虚無に襲われる。
好きって何だろう。
幸せって何だろう。
いつもなら顔を見てすぐにかっこいいってなるはずが、今日はそんな風に見えなかった。だったらもう私はあいつのことを好きではないのだろうか。
じゃあ、なんで、あいつと顔を合わせると自然と笑顔が溢れるのだろう。
エスカレーターの前に立つあいつの背中に、触れたくなるこの気持ちは何なんだろう。
相変わらずの会話をほとんど覚えている私は一体何なんだろう。
好きじゃないのなら、どうして、こんなにも胸が苦しいのだろう。
自分の中の矛盾に、目をそらしながら、自分の感情を片付けずに、平気な顔で毎日を過ごす。
自分の中の大切に、名前をつけたくなくて、そのまま名前のない関係を箱にしまう。でも時々思い出したかのようにその箱を開けるんだ。
自分の好きな人は、自分を必ずしも幸せにしてくれるとは限らない。
でも大好きだなって思う気持ちと、その大好きに幸せを感じる自分がいる限り、私はあいつを忘れることはできないのだろう。
直感的にあいつを失うな、と叫んでいる限り、私はあいつを手放せないのだろう。
あいつを忘れられない呪いにかけられる方がマシだった。
呪いなら、諦めがつくのに。
開けてはならないパンドラの箱は、開けてはならないからこそ、開けてないからこそ、美しく、綺麗に見えるのだろうな。
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