ささやかで愛しい日々
2019年の夏、そのころ働いていた会社の社長に呼ばれた。社長からは売上や支払いについて嫌味をいわれるのが常だったが、そういう雰囲気ではない。
私が座ると、社長は事業所閉鎖についての説明を始めた。どうやら私は、会社都合で退職せざるを得ないらしい。経理であったため、正直なところ、いずれはそうなるだろうと思っていた。売上と経費が見合っておらず、私だけでは改善の見込みがなかったからだ。数年前、久々の正社員就職で喜んだ自分を思い出して、少し切ない気持ちになった。
幸運
その退職は、私にとっては幸運だったと思う。当時飼っていた犬が大病をしていて、余命わずかだったからだ。
犬の病気は「悪性黒色腫(メラノーマ)」というもの。その腫瘍は、地元の動物病院では対処できない。気づいてから検査をして手術を受けるまでの1か月で、腫瘍は口からはみ出るほどの大きさになった。
手術を受けてから、犬は私にべったりになり、離れない。そんな犬を残して仕事に行くのが嫌だったので、退職せざるを得ない状況が、逆に嬉しかった。必要な雑務をこなし、予定の日付で何の未練もなく仕事を辞めた。事業所閉鎖がなかったら、きっと犬を気にしながら働かなければならなかっただろう。
11月の終わりまで、朝から晩まで、犬と一緒にソファで暮らした。抗がん剤治療は数か月で終了。なぜなら、転移があったからだ。11月になるころには「こんなひどい転移は見たことがない」と言われていた。犬がなぜか私の足のあいだで寝るので、いつも不自然な態勢で眠りは浅い。終わりが見えていながらも、幸せな日々だった。
犬が亡くなって、お世話になった地元の獣医さんに、挨拶に行った。子犬のころから犬の面倒を見てくれていて、愛称で呼ぶほどかわいがってくれた先生だ。その当時のことは正直あまり記憶にない。メモ代わりにしていたSNSによると、私の話を聞いた先生は、こう言った。
「命はつながってる。落ち着いたら、また犬を飼うといいですよ」
新しい命
8月、あるペットショップでビーグルの子犬を見た。なんとなく感じるものがあって抱っこさせてもらったが、前の犬を思い出して、ただただ泣いた。
飼いたい気持ちはあったものの私には早い、と思って、その子に「良い人に飼ってもらいなさい」と言ったのを覚えている。
そして9月。
同じペットショップに行くと、その子犬が売れ残っていた。もうだいぶ大きくなってしまっている。やけにフレンドリーで、べたべたと甘えてくるその子犬が愛おしくなり、悩みつつも迎えることにした。
当時の私は、前の犬を失って泣き暮らし、眠れぬ日々。ずっと犬と寝ていたせいか、何時間横になっていても、眠れなかった。
その子犬を迎えた日、久々にぐっすり眠ったのを覚えている。新しく迎えたビーグルを動物病院に連れて行くと、先生は丁寧なお辞儀とともにお悔やみを言ってくれた。そして「また犬を飼うこと、ビーグルを選んだことがとてもうれしい」とも言ってくれたのだった。
究極の選択
新たな犬は私を癒してくれた。過去最高に甘えっこで、一日中べったり。まるで亡くなるころの前の犬のようだった。悲しみは消えないけれど、日々の楽しみができた。
犬を迎えたのはいいが、そのころまだ私は無職である。さすがに、いつまでも無職ではいられない。
犬を看取って少し経ってからハローワークに通い始め転職活動はしていた。しかし、年齢的にすぐ次が見つかるとは思えない。40代でも探せば仕事は見つかるものだが、難航するのは目に見えている。
失業保険を受給し、転職活動をしながら、私は悩んだ。
「なるべく犬と一緒にいたい」
「好きなライブにも行きたい」
「会社に振り回されたくない」
年齢から、たぶん自由に動ける期間はそれほど長くないだろう。一度くらい、やりたいことを思い切りやってみたい。
会社員として働くか、自由に生きるか……究極の選択だ。
それまで、わりと「ある仕事で会社員として全力で働く」日々だったように思う。そもそも自由に働くというイメージがわかない。自由に生きるといっても、働く必要がある。そこで選択肢に入ったのが、フリーランスとしての生き方だった。
若いころから、ぽつりぽつりと文章を書いていて、2016年からは副業としてWebライターをしていた。そういっても、長期的な契約をしていたわけではないし、ライティング関連の会社で働いていたわけではない。犬が体調を崩してからは、ほとんどライターは休みがち。それでも、副業時代の手ごたえから、やれるだろうとは思っていた。
……あとは勇気だけだ。
やるしかない。すでにフリーランスとして働いている妹に相談しつつ、大した準備もなく、専業ライターとして開業した。
選択の結果
数年が過ぎて、あのとき、悩みつつもフリーランスの道を選んでよかったと思っている。会社員時代とは違って有休もボーナスも福利厚生もなく、楽ではない。
ただ、『自分の人生を生きている』という実感はある。
ありがたいことに、最初の1~2か月を除いて、安定した状態だと言えるだろう。私を含め、家族の誰もが、早い段階で安定して働けるようになるとは思っていなかった。本当にクライアントに恵まれたと感謝している。
朝起きて、犬と遊び、執筆をして疲れたら犬と遊ぶ。ときどき、ちょっと遠くにライブを見に行き、終わった後は安ホテルでごろごろ過ごす。あとは、ほとんど毎日仕事だ。
大変だと思う日はあるものの、私はずっと、書くことを仕事にしたかったから、それほど苦痛はない。
まさに人生を変えた選択だった。あのとき、『雇われない生き方』を選択してよかったと心から思う。雇われない大変さもあるので、安易には勧められない。ただ、私には合っていた。
忙しいながらも日々は穏やかに過ぎていく。あっというまに数年が過ぎた。AIも進化して、仕事の内容も多少変わりつつある。このさきどうなるかはわからない。時代の変化に追いつけるよう、努力していくだけだ。
自分の選択の結果だから、きっと失敗しても後悔はないだろう。
ささやかで愛おしい日々を、守り続けたいと思っている。
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