連載「人命の特別を言わず*言う」,本日で10回目の公開です!

※ いろいろとひどいこともあったが、だから原稿を書きあぐねていたというわけではなく、しかし間があいてしまった。原稿はいったんは書いてしまっているので、次からはもっと詰めて、掲載できたら(掲載してもらえたら)と思う。
 この連載がもとになる本と(ほぼ)同時に、2008年の『良い死』、2009年の『唯の生』の一部を略し、つなげた本を、ちくま学芸文庫から『良い死/唯の生』として刊行していただこうと思っている。ただ、基本、分量を減らしたうえでそのまま、にしようとは思っているのだが、なにか、リクエスト、助言などいただければと。立岩(tae01303@nifty.ne.jp)までよろしくです。

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第3章 世界があり恐怖するから慎重になる

■■1 Ⅲ・Ⅳ:世界がある・恐怖する
■1 Ⅲ:世界・内部
 第1章に見た人たちは人命の特権化には根拠がないと言うのだった。そしてその後、その人たちは自らが正しいと考える殺す/殺さないの区別とその理由を言う。そのように話が進んだ。
 それに対して、区別をしないという立場はあるだろうか。殺すものと殺さないものとの区別を認めない、みな殺さないことがあるだろうか。だがその前に、この場合には既に生物が前提されている。それもいけないとしたら、壊すものと壊さないものとの区別を認めない、壊さないということになるか。しかしそんなことは到底不可能であるように思われる。すると、やはり、生物と生物でないものには区別を――まだ理由はわからないのだが――付けるとするか。それで生物はすべて等しく、となるだろうか。だが、動物を殺さない人でも植物は食べている。ただ人工物をうまく作れるなら、生命を奪わないことは不可能ではないかもしれない。しかし、人間において仮にそんなことができたとして、生命の世界の全体はそうはならないだろう。人間を特権化しない立場を採るとして、それでよいのだろうか。
 このようにして、いったいこんなことを考えてどうするのだ、どんな意味があるのかと思われる問題が現れる。この「難問」に答えるということがどういうことなのかよくはわからないまま、考えてみるとどうなるのか。まず第2章第4節(連載第8回)で述べた。それに加えて、私の答は次のようなものだ。
 なぜその存在を消し去らないか、消去できないか。その存在の「世界」があるからだ、その世界が存在するその存在の「内部」があるからだ。このように答える。その中に外界への能動性はむろん含まれているのだが、それだけではない。その存在において、体外や体内のことが、感覚という語がふさわしいのかわからないが、感じられている。
 そしてその中に快苦もまた大切なこととしてある。その快苦について、ごく普通に、苦より快があった方がよいとは言えようが、その苦とその快とを足し算か引き算かできると考え、足し合わせるか差し引きするかすると負の値になったとしても、それで存在の価値がないと考えねばならないことはない。
 もちろん石ころも私ではない存在ではあり、様々な有機物、生物もそうなのではある。ただ、誰かを尊重するというときには、その誰か(なにか)に固有の世界があって、その活動が終わるときにはそこに生起している世界もまた閉じる、そのような存在であることが含意されているだろう。そのように言うことのできるその範囲がどれだけであるかは確定しないとしても、その存在を毀損してならないというとき、そこで想定される存在は、少なくとも今述べたような存在である。
 そしてこのように存在しているものはたくさんあって、その状態は多様であり、その中に基準を作り、その基準に照らして高等/普通/…等々の階層を設定することはできようが、その一部だけを取り出して、例えば理性を有する高等な存在だけを取り出してそれだけを特別に扱わねばならない理由は、まずは見当たらない。そう考えるから、第1章にみた線引きは不思議であり不合理なのだ。その人たちが想定するよりもずっと広い範囲がここでは考えられている。
 そして、人のことは知っているはずの人であっても、その人において何が起こっているかわからない、わかりがたい。だからその周りにいる者たちがせいぜいできることは、できるだけその判断を慎重にしようということだ。また、わからない時にはわからないと言おうということだ。もう世界が終わっていると確実にわかる手立てなどそう思いつかないのだから、その場合には、終わりが明らかになるまで待っていようということだ。快苦を大切にすると称する人たちがそのように言わないなら、それは不思議だ。

■2 だから絶対尊重派ではない
 次に、以上は「質」による「差別」を認めるということでもある。他方に、それを認めないと述べる立場はある。生物に範囲を限ったとしても――しかしそのように限る理由はなにか――「生命の絶対尊重派」がいる。その人たちから、私がよしとした立場は批判され、否定されるだろう。しかし、その人たちに対して私は、まずその立場は不可能であり、実際に存在しないことを言う。
 まず、その立場は摂食がなされ殺生が行なわれている今ある世界を否定せざるをえず、それが実現すれば、世界は死滅することになる。さらに、人だけを対象とし、規範を遵守する主体を人だけに限ったとしても――しかしそのように限る理由はなにか、ないはずだと言った――あらゆる状態にある人の身体あるいはその部分の状態を維持しようとするだろうか。すると、そんなことまでは言っていないと反論されるのかもしれない。しかし、線引きを認めないとか、あらゆる生命を大切にしましょうという話をすなおにとればそうなる。現実にはそんなことはなされていない。だから、実際には線引きをしている。
 次に、その人たちが「かけがえのなさ」などと言う時、それを言う人たちは、さきに私が述べたことを認めているはずであり、実際には、言おうとすること、認めようとするものは、そう違わないはずだ。
 そして、この主題が語られる時、しばしば「二人称」が持ち出されるのだが、その論調をそのまま受け入れられない。ごく簡単にすれば、その二人称は、「私があなたを大切に思う限りにおいて、あなたは生きている」というふうに使われる。実際、腐乱しあるいは干からびていくその時になお大切に思うことがあるだろうし、その思いが尊重されるべきであるとも思う。ただ、私ではないあなたが存在しているということは、私のそのようなあなたへの思いと別にあなたが存在しているということである。私(たち)からの思いによってその存在を認めるというのであれば、それは、その存在が存在しているということではないのであり、またそれは、私が私でない何かを大切にするということでもない。むしろその時、私はその存在を領有してしまっているのだとも言える。
 死者は私(たち)に訪れることがあるだろう。それは私(たち)が何かを知らされ伝えられるその機制を考えれば不思議なことではない。私たちは不在の存在から様々を伝えられる。しかし、そうした事々は、私(たち)がその者が生きていると思う限りはその者が「この世」に生きているということとは別のことである。
 条件をいっさい置かないのか、それともそうでないのかによって立場は分かれる。ただそれは置かれる、既に置かれていると述べた。だから、私の立場は「生命の質」を言う人たちの立場とまったく別なのではない。根本的に異なる場所にいるのではない。私は、区別をするという点では、むしろ、絶対尊重――という人が仮にいるとして――と別の立場をとることになり、「質」だとか「線引き」だとか言う人たちの中にいる。
 しかし、実際にどこに線を引くかについては、「尊重派」の人たちとそう大きくは変わらない。他方、私と「生命の質」派の人たちとの違いは程度の違いであり、問題は程度問題なのだが、その程度の違いは大きい。程度問題は大切だと、あるいは程度問題こそが大切だと、私は考える。第2節で述べるのはそのことだ。
 『私的所有論』では第5章3節4「その人のもとにある世界」([1997→2013:325ff.])に記した。以下はほぼそこに述べたことそのままだが、いくらか表現を変えた部分がある(★01)。
 Ⅲ:私から発することなく私から到達しえない世界がその人に開けている。その人に私を超えてある世界がある。そのように私が思うことが、その人・他者を奪えないと思うことの大きな部分を占めていることは確かだと思う。
 そこにその人(だけ)の世界があるとは、自己意識があること等々と同じではない。自らを意識したり反省したりしなくても、何が自分に有利かどうか判断したりしていなくても、どのようにか、世界を感受していることがある。
 それにしても、これは、その存在にある「内容」を、最低限においてではあっても、想定しているということである。そこで、Ⅱ=「世界を有する」存在とする。第2章で、Ⅰ=「人から生まれた存在」が、命を奪うべきでない存在としての人であると述べた。と同時に、その存在にその存在だけの世界が開けていることが、奪いえない存在としての人としての他者であることを構成する重要な一部にはなっている。奪いえないと思うのは私(たち)であるしかない(★02)。しかしそのように思う私(たち)は、そこに私(たち)が及ばないその人(の世界)があると思うから、そう思うということだ。
 もし私たちがあることについて(例えば、殺してはならない範囲について)ある判断をしているのだとすれば(例えば、人は少なくとも殺さない範囲として特権化されるべきだとしているなら)、それはⅡの側にいることを意味するというものだった。私は、第1章に見たように、理性・自己意識を持ち出すことがはっきりとした立場として打ち出されているのに対して、Ⅱはそうではなく、しかも、考えてみれば、Ⅱがかなり基本的な価値として存在していると思うから、第2章で、これを言葉にしてみようとした。
 ただ、さらにⅢ=[世界がある]という契機があり、そしてそれは、全てが私たちが思うことであるというあり方の中にあっても特別の意味をもっていると考える。
 『私的所有論』第4章で、私でないものが世界に在ることを言い、それを他者と言い、そのことゆえにそれが在ることを認めるという価値があるのだと述べた。ただ、そのような意味で他者があるというだけでなく、より強く、人という他者があると思う時、そこにはたんに私でないものがあるというだけでなく、さらに人から生まれたという契機がある(本書第2章)だけでなく、そこにおいて世界があるという契機が確かに重要なものとして加わってはいるのだと思う。その人において世界があると思う時、より強く、奪ってはならないと思う。
 確かにここでも私がそのように思うのではあるが、ただたんにそう思うというのと少し違っている。他者の存在はより強い現実性として、凌駕することの不可能性として現われる。それもまた、私が見て感じているということの内部にあるとも言えよう。その世界にそのこともまた現象しているのだと言えば言えよう。しかし、けっして私には感じることができない世界がそこにあることを私たちは、そこで感じている。それは普通の言葉の意味では、事実として知っているということだ。その人の世界を直接には知りえないけれども、確かにその者に私の世界ではない世界があると私は思う。私においてしか私の世界が存在しないことと少なくとも同格のことがそこに存在していることを知っているということだ。
 このように言うことは、第1章に見た論理によって、例えば嬰児を無資格者とする議論から離れたところにある。次に、ⅡとⅢが指示する範囲は実質的にはほとんど重なっている。つまり、生まれて生き始めていることと、その子に世界が存在することはつながっている。けれども、Ⅱ:人が人の中から現われたことにおいて既に人であると思うことから、Ⅲ:その人において世界があることを差し引いた状態、空白という状態がありえないのではない。この場合には、他者において世界があると言えない。この時にも、私はその者を人、他者と思うことがあるだろう。ただその当人において空白である以上は、私だけがその他者のことを思っている、私が他者であると思うことだけが残っている、だからその限りで、その他者に即して何か思っていることとは違う、とは言えるだろう。
 この状態をどう考えるか。「脳死」について考えるのが困難なのはこのことに関係する。問題となっており、問題とすべき一切の事実問題、そしてその状態であることを確認できるかという理論的な問題を省き、また、測り難いことを測れるとする危うさとその危うさに周囲の者たちの様々な利害が絡む危うさをここで差し置き、もし仮に・・・、脳死という状態がその人において全くの空白であり、そこから回復することがない状態であるとしたらどうだろう。ある者は人工呼吸器等を止めることができると思う。問題はないと判断するのは私である。さらに、その臓器を利用するのは私(たち)であり、そのように利用したいと思うのは確かにこちらの都合である。
 だが他方で、そうと受け止めない者もまた、やはり私の思いとして、そのように思っているのである。死体であると、物体であると思えず、死んでいない(生命を奪うべきではない)存在だと考え、いわゆる三徴候死を待つのも私(たち)である。もちろん、前者は「科学的」な立場だから正しく、後者はそうでないなどということではまったくない。「科学」は状態についての情報を提供するだけであり、まず両者は等しく私たちの思いなのであり、この限りでは両者は等価であると言い得る。
 その上で、次に、この全くの空白にはその存在の独自の場という契機が欠けていると言いうる。だから、後者のように思うことが、何かその存在との「共同性」の上に成立していると考えるのは誤っている。端的にその存在との「共同」は不可能であり、むしろ、この思いは、私からの思いとしてしか存在しないのならば――何かのためにその存在を用いよう、何か不都合なことになるから死んだことにしようといった水準とは異なった水準で――、より「私(たち)中心」的な思いであると言いうるのではないか(★03)。
 そのことを認めた上でどのように考えるかである。一方で、ある人がその空白の状態にある存在を前にして、その生命を奪ってならないと思っている。この場合に、その人の思いが何かおかしなものだとは言えない。私たちがそのような世界に(も)生きていることは確かなのであるから。そしてもちろん、この空白の状態にいる存在の生存を奪えるという積極的な理由は現われてこない。Ⅲでないことは、その生存を止めてよい積極的な理由にはならない。ただ奪ってはならないことの理由を弱めるものではある。ヒトを殺さないこと(Ⅱ)を優先するか、より強い=狭いがやはり奪えないことを私たちに思わせる決定的な条件である、その人の世界があること(Ⅲ)を満たしていないことをどこまで考慮するか。いずれかに決する絶対的な答はない。それは、両者ともが私たちの現実のかなり深いところに根差しているからだと考える。
 脳死状態からの臓器移植といったここで主題としない事柄を外せば、ⅢからⅡの間、つまりその人の世界が終わる時から生物としての活動の終了までの間の時間が過ぎるのを私たちはただ待っていればよいのだから、この問いに対する答を未定にしておいたままでも、現実的な問題はそれほど起こらない。ただ、もう少しだけ考えを進めることはできる。脳死ということでなく、一切の生物的・生理的な生存が終わった後も、人はその存在を生きていると思い、破壊しないようにしようと思うことはできる。生きているように保存し続けることもできるかもしれない。しかし、このような場でよりはっきりと明らかになるのは、それがそのように保存しようとする私の思いだけに発していることである。既に生存を止めた存在にとって既に生きられ受容されるものでなくなっている身体をそのままに保存しようとすることは、かつてその身体を受容してそれとともにあった存在から離れ、それを私の側に置こうとする行いではないか。そのような権利が私にあると言えるだろうか。少なくとも、その人が、自らにとって世界の一切が終わった上での生存や、生存を終えた後での保存を放棄しようとするのであれば、私にとっての他者の意味合いではなく、他者があることそのものが尊重されなければならないという立場からは、その人の意志に従うべきであることになるだろう(★04)。

■註
★01 その項の全体を以下引用する。書籍においてはこの註は略される。△325等はそこまでが325頁であることを示している。この文章の中の註(☆17)の引用は略す。
 「[4]その人のもとにある世界
 では何か人に関わる「内容」を言う主張は何も言っていないのだろうか。そうではな△325 いと思う。B'私からは決して到達しえない世界が他者に開けている、その他者に私を超えてある世界がある、そのように私が思うことが、その他者を奪えないと思うことの大きな部分を占めていることは確かだと思う。そこにその人(だけ)の世界があるとは自己意識があること等々と同じではない。自らを意識したり反省したりしなくても、何が自分に有利かどうか判断したりしていなくても、どのようにか、世界を感受していることがある。それにしても、これは、その存在にある「内容」を、最低限においてではあっても、想定しているということである――そこでB'とする。A'人から生まれた存在が命を奪うべきでない存在としての人であると述べた。と同時に、その存在にその存在だけの世界が開けていることが、奪いえない存在としての人としての他者であることを構成する重要な一部にはなっている。
 線を引く時も引かない時も、どんな線を引く時も、それは必ず、私達の側の理由に発している。その存在が人である、すなわち殺してならない存在であると思うのも私であり、そうではないと思うのも私である。その限りでは同じである。これはいずれの立場に立つ場合にもわかっておく必要がある。資格を持ち出す人達はこのことがわかっていない。あるいは曖昧にしている。しかじかの資格をもたない存在は生きる権利がない、のではなくて、しかじかの資格をもたない存在を殺してもよいと私達はする、しようと△326 思うということである。ここまでは、資格を持ち出す人にも是非認めてもらわなければならない。ただ、このことを確認した上で、どちらにしても、これらのこと一切が人の内部でしかないとは言える。いずれにしても、それは私の他者に対する関係である。B資格を満たさないから死んでよいとするのも私達の思いであり、A'そういうわけにはいかないと思うのも私達の思いである。第4章からこの章にかけての論述の方法は、もし私達があることについて(例えば殺してはならない範囲について)ある判断をしているのだとすれば(例えば、人は少なくとも殺さない範囲として特権化されるべきだとしているなら)、それはA'の側にいることを意味するというものだった。私はBがはっきりとした立場として打ち出されているのに対して、A'はそうではなく、しかも、考えてみれば、A'がかなり基本的な価値として存在していると思うから、これを言葉にしてみようとした。
 ただ、さらにB'という契機があり、そしてそれは、全てが私達が思うことであるというあり方の中にあっても特別の意味をもっていると考える。第4章で、私でないものが世界にあるということを言い、それを他者と言い、そのことゆえにそれが在ることを認めるという価値があるのだと述べた。そのことを覆そうとは思わない。ただ、そのような意味で他者があるというだけでなく、より強く、人という他者があると思う時、そこには単に私でないものがあるというだけでなく、さらに人から生まれたという契機があ△327 るだけでなく、そこにおいて世界があるという契機が確かに重要なものとして加わってはいるのだと思う。その人において世界があると思う時、より強く、奪ってはならないと思う。確かにここでも私がそのように思うのではあるが、ただ単にそう思うというのと少し違っていて、他者の存在はより強い現実性として、凌駕することの不可能性として現われる。私が見て感じているということの内部にあるとも言えようその世界にそのこともまた現象しているのだと言えば言えようが、しかし、決して私には感じることができない世界がそこにあることを私達は、事実として知っている。その世界を直接に知りえないけれども、確かにその者に私の世界ではない世界があると私は思う。私においてしか私の世界が存在しないことと少なくとも同格のことがそこに存在しているのだということを知っている。
 このように言うことは、Bの論理から例えば嬰児を無資格者とする議論から離れたところにある。A'とB'が指示する範囲は実質的にはほとんど重なっている。生まれて生き始めていることと、その子に世界が存在することはつながっている。けれども、A'人が人の中に現われたことにおいて既に人であると思うことから、B'その人において世界があることを差し引いた状態、空白という状態がありえないのではない。この場合には、他者において世界があると言えない。この時にも、私はその者を人、他者と思うことが△328 あるだろう。ただその当人において空白である以上は、私だけがその他者のことを思っている、私が他者であると思うということだけが残っている、だからその限りで、その他者に即して何か思っていることとは違う、とは言えるだろうと思う。
 この状態をどう考えるか。「脳死」について考えるのが困難なのはこのことに関係する。問題となっており、問題とすべき一切の事実問題、そして事実を確認できるかという理論的な問題を省き、測り難いことを測れるとする危うさとその危うさに周囲の者達の様々な利害が絡む危うさをここで差し置き、もし仮に、脳死という状態がその人において全くの空白でありそこから回復することがない状態であるとしたらどうだろう。ある者は人工呼吸器等を止めることができると思う。問題はないと判断するのは私である。さらに、その臓器を利用するのは私(達)であり、そのように利用したいと思うのは確かにこちらの都合である。だが他方で、そうと受け止めない者もまた、やはり私の思いとして、そのように思っているのである。死体である、物体であると思えず、死んでいない(生命を奪うべきではない)存在だと考え、いわゆる三徴候死を待つのも私(達)である。もちろん、前者は「科学的」な立場だから正しく、後者はそうでないなどということではまったくない。「科学」は状態についての情報を提供するだけであり、まず両者は等しく私達の思いなのであり、この限りでは両者は等価であると言い得る。△329
 その上で、次に、この全くの空白にはその存在の独自の場という契機が欠けていると言いうる。だから、後者のように思うことが、何かその存在との「共同性」の上に成立していると考えるのは誤っている。端的にその存在との「共同」は不可能なことであり、むしろ、この思いは、私からの思いとしてしか存在しないのならば――何かのためにその存在を用いよう、何か不都合なことになるから死んだことにしようといった水準とは異なった水準で――、より「私(達)中心」的な思いであると言いうるのではないか☆17。
 そのことを認めた上でどのように考えるかである。一方で、ある人がその空白の状態にある存在を前にして、その生命を奪ってならないと思っている。この場合に、その人の思いが何かおかしなものだとは言えない。先に述べたことを認めてもらえるなら、私達がそのような世界に(も)生きていることは確かなのであるから。そしてもちろん、この空白の状態にいる存在の生存を奪えるという積極的な理由は現われてこない。B'でないことは、その生存を止めてよい積極的な理由にはならない。ただ奪ってはならないことの理由を弱めるものではある。A'を優先するか、より強い=狭いがやはり奪えないことを私達に思わせる決定的な条件であるB'を満たしていないことをどこまで考慮するか。いずれかに決する絶対的な答はない。それは、両者ともが私達の現実のかなり深いところに根差しているからだと考える。△330
 脳死状態からの臓器移植というここで主題としない事柄を外せば、B'からA'の間の時間が過ぎるのを私達はただ待っていればよいのだから、この問いに対する答を未定にしておいたままでも、現実的な問題はそう起こらない。ただ、もう少しだけ考えを進めることはできる。脳死ということでなく、一切の生物的・生理的な生存が終わった後も、人はその存在を生きていると思い、破壊しないようにしようと思うことはできる。生きているように保存し続けることもできるかもしれない。しかし、このような場でよりはっきりと明らかになるのは、それがそのように保存しようとする私の思いだけに発していることである。既に生存を止めた存在にとって既に生きられ受容されるものでなくなっている身体をそのままに保存しようとすることは、かつてその身体を受容してそれとともにあった存在から離れ、それを私の側に置こうとする行いではないか。そのような権利が私にあると言えるだろうか。
 少なくとも、その人が、自らにとって世界の一切が終わった上での生存や生存を終えた後での保存を放棄しようとするのであれば、私にとっての他者の意味合いではなく、他者があることそのものが尊重されなければならないという立場からは、その人の意志に従うべきであることになるだろう。
 本節で述べようとしたことを少し超えたところまで、いささか不用意に、話を進めて△331 しまった。けれども、こうした主題について考えるのであれば、最低、以上は押さえておくべきだと思う。第9章で「出生前診断」「選択的中絶」という、やはり少しも明るくない主題について考えることになるのだが、そこではここで述べたことと一部同じことを言い、また別のことを述べることになる。それを、いずれも生存の資格の問題であり同じ問題だと考えるのだとすれば、それは粗雑な思考であり、論理と称するものが、私達が思ったり悩んだりする現実――それも、論理を操ることを仕事をする人が論理と称するものよりは複雑ではあろうが、ある論理を備えている――に追い付いていないということだと考える。」(立岩[1997→2013])
★02 「線を引く時も引かない時も、どんな線を引く時も、それは必ず、私達の側の理由に発している。その存在が人である、すなわち殺してならない存在であると思うのも私であり、そうではないと思うのも私である。その限りでは同じである。これはいずれの立場に立つ場合にもわかっておく必要がある。資格を持ち出す人達はこのことがわかっていない。あるいは曖昧にしている。しかじかの資格をもたない存在は生きる権利がない、のではなくて、しかじかの資格をもたない存在を殺してもよいと私達はする、しようと思うということである。ここまでは、資格を持ち出す人にも是非認めてもらわなければならない。
 ただ、このことを確認した上で、どちらにしても、これらのこと一切が人の内部でしかないとは言える。いずれにしても、それは私の他者に対する関係である。B資格を満たさないから死んでよいとするのも私達の思いであり、A'そういうわけにはいかないと思うのも私達の思いである。」([1997→2013:326-327])
★03 ゆえに小松美彦の『死は共鳴する』(小松[1996])の主張をそのまま肯定しない。小松の論の検討・批判は、「死の決定について」([2000c])で行なった。この文章は大庭健(→◇頁)と鷲田清一の共編の本『所有のエチカ』(大庭・鷲田[2000])に収録されたもの。後に『唯の生』(立岩[2009a])に収録され、この度『良い死/唯の生』(立岩[2022])に収録される。なお、その批判は「共同性」に依拠する部分についてであり、他の多くの論点については、私は小松の主張に同意している。その後の小松の著作に小松[2000][2004a][2004b][2012]がある。
 その差異は、この社会に対抗する根拠として共同性を言う流れがあってきたことの捉え方を巡ってあるものだと思う。それを基本的に肯定的に受け入れ続けた人たちがいて、小松はその一人だと思う。それには十分な力があることを認めながら、私は違うように言おうと思って書いてきた。
 以下は小松についての個人的回顧。なお「民青」は「民主青年同盟」。日本共産党系の学生組織。
 「大学などない田舎にいたわけだから、誤解していたところ、間違った期待をしていたところもある。高校生のとき、大江健三郎の小説は読んでいた。彼は東大の文学部を卒業した人だ。なにか「そういう人」がたくさんいるような気持ちがしていたのだ。しかし、当たり前のことだが――そこらに大江健三郎のような人ばかりいたら、それはそれでたいへんである――そんなことはなく、普通だった。もっと言うと、説明は略すが、「嫌いなタイプ」の人たちもいて、どうもいけなかった。比べれば、湿った・湿気った(と私には聞こえた)演説を繰り返している民青の学生の方がよかったぐらいだ。そんなこともあり、いくらか違うかんじの人たち、そして「政治的嗜好」に似たところがある人たちとのつきあいの方が気持ちがよかった。例えば、小松美彦がいて、彼はそのころから妙な貫禄があった。後に彼は河合塾という予備校の小論文講師になり、予備校生を煽動していたのだが、それはとても彼には似合っているように思われ、後に大学の教師になり『死は共鳴する』(一九九六年)などという本を出したりするとは思わなかった。また、大学を終えた後技術系の翻訳で生計を立て、ダナ・ハラウェィという人の『猿と女とサイボーグ――自然の再発明』の翻訳(二〇〇〇年)を出すことになったりもする高橋さきのといった人もいた。」(立岩[2007-2017(1)]
★04 続きは以下。「こうした主題について考えるのであれば、最低、以上は押さえておくべきだと思う。第9章で「出生前診断」「選択的中絶」という、やはり少しも明るくない主題について考えることになるのだが、そこではここで述べたことと一部同じことを言い、また別のことを述べることになる。それを、いずれも生存の資格の問題であり同じ問題だと考えるのだとすれば、それは粗雑な思考であり、論理と称するものが、私達が思ったり悩んだりする現実――それも、論理を操ることを仕事をする人が論理と称するものよりは複雑ではあろうが、ある論理を備えている――に追い付いていないということだと考える。」(立岩[1997→2013:332])
 言いたかったこと、しかしここで明示していないことの一つは単純だ。つまり、死んでもらうことと産まないことの動機・利害が同じであっても、既に人が生きていて恐怖や苦痛がある場合と、そうでない場合とは、異なる。その本の第9章で考えられたことは書いたから、ということもあるが、その本以後私は、既に生きてしまった人たちが死のうとすること、安楽死や尊厳死と呼ばれることについて、夥しい数の文章を書くことになった。今度『良い死/唯の生』として刊行していただこうと準備している2008年の『良い死』と2009年の『唯の生』とでほぼ言うべきことを尽くした

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