お待たせしました。連載「人命の特別を言わず*言う」,第8回の公開です!

※ 今回で第2章を終わらせるつもりだったが、結局、本には収録しないとても長い註を置いて、もう1回分を次回に残すことにした。私としては何度も書いてきたことなのだが、それでも、繰り返すことにする。

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第2章 殺すことを認めたうえで人殺しを否定する


■2 私たちの事実だから/だが私たちを超えたものとする
 そして、このこと〔→前回「Ⅱ:人のもとに生まれ育つ人であることを受け止める人」〕と、第3章で述べること、Ⅲ:その存在から開けている世界がある限り、そのことを尊重せざるをえないという態度とはまったく別のものではない。というか、現実には二つの契機が連続して、合わさって存在している。人は様々なものを身体から分離し、排泄するのではあるが、その中で、生まれてくる人が、内部を有した存在、世界を有した存在として現われることを強く感じてしまう。そうなると、そう手荒には扱いにくい。それは人々の経験により多く合致しているとは言える。
 村瀬学の文章をかつて引用した(★26)。村瀬は第4章で言及する吉本隆明の影響を受けて書き始め、書き続けてきた人でもある。

 はじめに「人間」の定義があって、そういう「人間」の世話をしてきたのではなく、世話をすることによってはじめて生じる「内部」があったと理解すべきなのであろう。そこで生じる「内部」こそが「倫理」だったのだと私は思う。(村瀬学[1985→1991:184-185])

 この文章を批判するのはひとまず簡単だ。というか、それは第1章に紹介したような論の様式からすれば、論の形式をそなえていないと言われる。しかしこの文章は何かを述べていると思う。その存在に対する行ない、その存在についての経験があること、このことが、人が人であること、すなわちその存在を奪えない存在だと思うことに関係するようだということである。
 すると、世話をすることでその存在が人間であるという意識=殺さないという意識が生ずると言うが、世話をするという行ない自体が、その存在を人間=殺すべきでない存在と認めている上ではじめてなりたつはずだ、と言う者がいるだろう。
 しかし、すくなくとも現実には、規範があって、それを知りそれに従うという順序でだけことが起こるわけではない。そして、よいか悪いかわからないまま、というかそんなことを考えたりしないまま、関わっていって、そうした過程の後で、例えば手にかけられないと思うことはある。
 そして第二に、個別の関係においては、育てるという行為が育てるという決定に先行することがある。しかし、私が私とその直接の子とだけ生きているのではないという単純な事実があり、生の過程で様々な人の生と生への関わりに関わるという事実がある。また、関わってしまうというできごとがある。それが、育つ/育てることのほうぼうにあり、その累積がある。そうしたことのなかで、世話することがまた行なわれるということだ。
 こうしたことの「本体」が何であるのか。「本能」によってそのことを説明したい人はすればよい。どのようにしてその説明の妥当性が言えるのかという疑問はあるが、否定はしない。ただ、おおむね同類を殺さない、殺せないことを本能であると言えたとして、他方で、たまに、そして人間の場合にはとても頻繁に、殺すこともある。そちらは何なのか。「進化」のための淘汰であると言う人たちもいる。そんなことで進化するのかという問いもあるが、それはここでは措く。進化することもあるとしよう。そちらのほうに向かおうとする人間の傾性といったものも、「もともと」あると言って言えなくはない。それは「もともと」あるとも、進化した「後」に現れるものであるとも言える。いずれなのか決まらないだろう。そして、前者であるからよいとも、後者であるからよいとも言えない。
 そうすると、「結果」「効果」が問題にされる。あるいは「進化」といった言葉自体が、結果・帰結としてより望ましいことを意味するものとして使われる。そして私たちは、例えばその集団の生存率が上がるとか、平均して生存する時間が長くなるとかいったことがよいことであることを否定する必要はない。しかし、そのために払うもの、失われるものがどれほどかを考えればよい。殺さないことを選ぶならそのよいことが実現する速度が、もしかしたら遅くなるかもしれない。しかし、それを行なうのがよいかということだ。そんなことをする必要がない、しないほうがよいと思うことに結びつくできごとがある、そちらを選ぼうという事実があり、それを選ぶと、それが規範となる。
 事実から規範は生じないというのが常套句だ。そのことは私自身も幾度も言ってきた。ただそれは今述べたように、よしあしが定まっていない事実をもってきて、よいとかわるいとか言ってしまってはならない、もう言ってしまっているというつもりになってはならないという当たり前のことを言う時のことだ。殺してしまってよいと思えない(思えなくなる)という「事実」と、殺してならないという「規範」があることとはつながっている。それが社会的規範として認められることはまた別だが、そうされることもあり、実際ほぼそうされている。それに異論は、なんに対しても異論を言うことはできるのだから、言えるが、否定するべきでないと考える。
 さきに言ったのは、個別の一つの私の経験のなかに私を越えるところがあるということだった。そしてそれは一つの個別の関係だけのことではないとも述べた。個別の経験のなかに、また個別のことの集まりのもとに、むしろ個別性を越えることが起こっている。それを否定する事情や思いもまたいくらもあるが、そのような事情は基本的には排することにしよう。そこでその水準に規範を置こうということだ。
 なににせよ、みな私(たち)が思うことであり、思うことでしかない。これは否定のしようのないことだ。ただそのうえで、個々の存在に対してそのような気持ちになる、なることがある、ことと、その気持ちとは別に、しかじかしてはならない、とすることとは別のことだ。これは関係主義と普遍主義の問題だ。とくにこの国の人のなかには、「天賦人権」だとか「道徳律」だとか、そういうことを言いたくない人がいる。今引いた村瀬もそういう種類の人かもしれない。ただ、その気分はひとまずわかるが、私の思いと別に、というところに規範があると考えることは大切なことだと考える。そしてそれは具体的な個別の経験に現れるものでもある。このことを述べた(★27)。

■註                                 ★26 村瀬学は一九四九年京都府生まれ。同志社大学卒業。その最初の本は『初期心的現象の世界』(村瀬[1981])。この本の奥付には心身障害児通園施設職員とある。その後、同志社女子大学教員。引用した本とは別の本『「いのち」論のひろげ』では次のように言う。『私的所有論』で引用した。
 「…この両親にとっては、この子は「ゆり」と呼ぶことのなかにしか見出せない何者かなのである。「ゆり」と呼ぶこと以外ではけっして見えてこないものがある。
 そういうふうに言えば、そんな「ゆり」なんていう名前なんぞ、世間にはいっぱいあるじゃないか。人間にも植物にもつけられる名前が、何で一人の女の子の唯一の生を表し得るのか、という人もいるかもしれない。「品名」として見たらたしかにそうである。しかし「品名」だけをほじくってもわからないのである。「品名」はあるときに「名前」として意識され、そして「名前」は「姿(顔+身)」を呼びだすきっかけとして自覚されるときがくる。そのきっかけを作るのは「場所(位置)」なのである。
 『苦海浄土』には、「とかげ」のような手足を持つわが子に寄り添いつづける親の「場所(位置)」がある。その「場所」から呼ばれる「ゆり」という「名前」は、その場所からしか見えない「姿」をとらえていて、それは「無比の姿」として見出されているのである。
 つきつめると、「名前」というものには、個人的な命名行為というより、人間の姿(原型)を呼びだすための共同の行為としてあったものである、としか考えられない面がある。「人間の姿(原型)」を産む行為とでも言えばよいか。しかしそこには、その産む「場所」が問題であった。おそらく昔の人たちには、その場所を「共同の場所」として共有できる感性があったのではないかと思う。しかし、今日ではその場所は、一人一人の育ての親たちが個別的に意識する、個人的な場所になりつつあるように見える。が、私はそのようには単純には思うことはできない。「名前」をつけて「姿」を自覚する「場所」は、あくまで「共同の場所」でしか発生しない、そうとしか私には考えられないのである。というのも、「名前」をとおして感じとる「人間の姿(原型)」は、人間の共同体の活動のなかでしか自覚できないものだからである。」(村瀬[1995:35-36])
 村瀬[1996:132-133]もほぼ同文。「自分の名付けたものは「大事」にする。この「名づけ」のもつ利己的な共生力について」書かれた文章である。『苦海浄土』は石牟礼道子の著書(石牟礼[1969])。」(立岩[1997→2013:359-360])
★27 『唯の生』の一部と合わせて文庫化してもらおうと思っている『良い死』の第2章「自然な死、の代わりの自然の受領としての生」の第5節「思いを超えてあるとよいという思い」。その全体を、註(◇)は略し、引用する。△の後の数字はそこまでが『良い死』のその頁であることを示す。なお、本書刊行とほぼ同時期に文庫本も刊行されるので、この注は本書には収録されない。本書の文献表にも以下で引用・参照する文献は掲載されない。なお第6節は「多数性・可変性」、第7節は「肯定するものについて」。
 「1 普遍の不可能性?
 しかしいま述べたことは、ずいぶんと個別的なことのようでもある。ある時にある人がそんなことを思ったことがあるといっただけのことではないか。だが私はそうではないと考える。以下、すこし長くなるが、そのことを述べる。
 好き嫌いというものがどのぐらいのところに位置づいているのか。あるいは位置づけたらよいのか。本人の、あるいは別の人々の好き嫌いによって何ごとかが規定されてよいものだと考えるとしよう。すると好悪がもつ意味が△177 大きくなり、同時に、好かれたり嫌われたりすることにかかる負荷が大きくなる。それでよいのだろうか。このことについてすこし私たちは鈍感になってしまっているのかもしれない。
 例えば、リチャード・ローティという人がいる。二〇〇七年に亡くなった。『人権について――オックスフォード・アムネスティ・レクチャーズ』(Shute & Hurley eds.[1993=1998])という、幾人かの講演が収録されている本の中で、「人権、理性、感情」という話をしている。わりあいよく引かれることがあり、私も言及したことがある箇所をここでも引く。
 「道徳教育者の使命は[…]「どうして私は親戚でもない、不愉快な習慣を持つ、あかの他人のことを心配しなければならないのか」という、もっとしばしば発せられる問いに答えることだ、ということがわかるでしょう。[…]より妥当な答え方は、次のように始まる長い、悲しい、感情を揺さぶる種類の物語を語ることです。すなわち「家から遠く離れて、見知らぬ人のあいだにいる彼女の立場になってみると、現状はこのようなものなのだから」あるいは「彼女はあなたの義理の娘になる可能性もあるのだから」あるいは「彼女の母親が彼女のために嘆き悲しむだろうから。」」(Rorty[1993=1998 : 163-164])
 私はローティという人が考えていることをよく知らず、この文がその人の思想の全体にどのように位置づいているのか、その人がどこまで本気で言っているのかもわからない◇26。ただ、受けそうな話ではある。不変の普遍の実体として正義があると考えたって、そんなものはないのだし、そんなもので人は動きはしない。代わりに、身近な人との関わりに発する思いを基礎に置こう。そしてそれを延長させていくことができるなら、より広いところに、良いあり方は波及していくだろう。だからそのような思いを喚起することに努めるのがよい。これはわかりやすい、△178 そして説得的な話であるように思う。
「普遍的な正義」「真理」というものがあるのではない。それがあると言って何ごとかが可能になると思うのは幻想である。もっと身近なところから論を立てていく、というだけでなく、現実を組んでいくべきだ。このように言われる。「正義の倫理」に対して「ケアの倫理◇27」が言われ、それがわりあいすんなりと受容され流通する時にも、こんなことが想定されているところがあるように思う。そしてこのような捉え方は、このごろ「残酷さ」を避けるための営みとして政治的な営みを捉えようと言われる時にも働いているように思う(Shklar[1984][1989=1998]がよく引かれる。cf. 大川正彦[1999]、齋藤純一[2005]。さきにあげたローティの著作では Rorty[1989=2001])。他の様々についてはわからないが、しかし、残酷なこと、痛いことは皆がわかるはずだと、それをとにかく避けるのだと、それならできるだろう、それをしよう、そんなことを言うのである。そして私たちは、それならわかる、それはもっともだと思う。そして私もまた、「たんなる苦痛」をもっと見るべきだと言ってきたし、本章1節5で述べたのでもあるから、そうした陣営にいると思われるのかもしれない。
 誰かの悲しみを知り、それと同じ悲しみが別の人のところにもあることを知る。それでその別のところのことも無視してはならないと思う。たしかにそんなことはあるだろう。人を説得する方法としては有効だろうと思う。しかしよくわからないようにも私は思う。このことはきちんと考えねばならないと思う。
 それは何を言っているのだろう。まず、普遍的なものは「ない」と言っている。しかしこの場合に「ある」とか「ない」とかいう言葉が何を指しているのか、それが私にはわからないのだ。
 第一に、それは目の前にある湯呑茶碗が「ある」ようには「ない」。しかしそんなことは、誰から言われるまでもなく、誰でも知っている当然のことだ。その人たちも、そんなことを言いたいのではないはずだ。(ただ、ときにたんにそんなことを言っているように思えることがある。形而上学を批判する、実体主義を退けるといった言い方で言われ△179 ていることが、実際にはその程度のことでしかないことがしばしばある。)ではどんなことを言いたいのか。
 第二に、そこで存在しないとされるものは、すべての人が受け入れるという意味での普遍性だろうか。たしかに事実としてはそんなものはないかもしれない。ただここでの問題はそのことをどう考えるかである。わからないのは、この意味での普遍性が要求されているとし、そしてそれが不在であるとし、そして嘆いてしまうという行ないである。なぜ合意、全員一致が必要なのか、あったらよいとされるのか。実際には、多くの人が支持することは、とくに民主制の政体においては大切だろう。そのような決定機構が存在しないところでも、社会の作動には人々の意識や意向が関わり、影響するだろう。この意味では私たちは人間主義から脱することができない。しかしすべての人の同意は望めないだろうし、また考えていけば、それを望む必要もないはずだ。(にもかかわらず、合意が重要視されるのは、また偏重されるのは、規範の内容を言わず、あるいは言ってはならないという制約を自らに課した上で、誰からも文句のでない決まりならそれでよしとされるはずだという前提でものを考えようとするからだと、また考えるべきだと決めてかかっているからだと私は考えている。)
 では、第三に、ある規範や理念がすべての人に及ぶということ、この意味での普遍性か。先の引用はこの第三のものに関わりそうだ。このことについて考えると、たしかに、私の気持ちはそう広い範囲には及ばないだろうという気がする。及ぶのは、存在が実感できる人、既に関係のある人に限られるような気がする。この問いは私も気になってきたし、また、安楽死・尊厳死のことについてものを言うときにも問われてきたことだった。そのことを言われて、次のように答えた◇28。
 「――[…]おまえ死ぬなよっていうのは、他者一般の死みたいなところでは起こらないですね。まったく知らない人間に対してそういう感じは抱き得ないという感じがする。△180
 立岩 ほとんどそうでしょうね。
 ――私が知っていて、長年つき合ってきた人間が、目の前で死のうとしているというときに初めてやっぱりそうなると思うんです。
 立岩 その通りだと思います。大切なことを言われたと思うんですね。少なくとも顔ぐらい知っている人、たぶんそうだと思うんです。けれど、どうなんだろう。今、私はその人から遠い。しかし、もし近づいてしまったら、私はその人の死を平静には受け取れないだろうということはわかっているということがあると思うんですね。そのことをどう考えるか。そしてまた、近づかないですむように現実が組み上がっているということもある。まったく知らないですんでいる人たちと、日々死に接して摩耗している人たちと、その二種類しかいないように現実が作られてしまっているとしたら、それはどうかということ。そして、その存在の現われを受け止めずに済ませられるような、その存在を門前払いにしてしまえるような価値がこの社会にあるということをどう評価するかということがあると思います。」([1998e→2000h:74-75])
 ここで私はさきに引用したローティの発言とそう違わないことを言っているのかもしれないし、そうではないかもしれない。一つに距離というものが自然にあるのではないだろうと言っている。距離があることにし、知らないことにする、そんなことが多々あるではないかと言っている。「日々死に接して摩耗している人たち」とは、言うまでもなく、日々「死に逝く人」の「看取り」を行なっている(行なっていないかもしれない)医療者や看護者のことであり、そして「知らないですんでいる人たち」とはそれ以外の人々のことである。そしてもう一つ、ここでは明示的でないが、既に距離を越えて行くものがあることを知っていて、知っているのにそれを距離という自然にある(とされる)ものをもってくることによって、ないことにしてしまっているのではないかと言いたかったのかも△181 しれない。
 同じ本に収録された「遠離・遭遇――介助について」で、「承認」――これもまたあるところではよく使われる語である――を巡って次のように書いた。
 「好きではないあるいは憎悪したり軽蔑しているけれども認めてしまうといった位相、水準があるだろうということである。本当にそう思っているのか、わからないといえばわからないのだが、しかしどこかでそうであったらよいとは思ってはいて、そのように思うことの中に既に承認は訪れている。[…]
 おそらく権利は[…]具体的・個別的でありながら、その具体性のうちに普遍性へと向かう契機を含んでいる。権利についての不信は、それが天から降ってきたもの、与えられたものであるとされることにあるのだろう。その不信にはもっともなところがある。しかしやはり権利がただ人であることにおいて一律に与えられるというその普遍性は重要なことではあるのだろうと思う。人権の普遍性とは、まったく普通にある関係そのものにあるのではないかもしれないが、しかしその関係に内在していてそれを延長させていこうとする意志が関わっている。」(立岩[2000b→2000h:312-313])
 ここで私が気になっていたことの一つは、「ある」とはどんなことかということだった。この場合に「ある」ことと「あることを望む」こととがそれほど違うことなのかということだった。

 2 個別から語ることの流行△182
 他人のことが、あるいは自分のことが、好き/嫌いだから、その気持ちに沿って決めるということであってよいではないか。しかじかになった自分が嫌いだから、そうなったら死んでしまおう。とにかく私にはそう思えてしまう。こうした正直な、あるいは居直った言葉にどう答えたらよいだろう。このことについて考えている。
 第3節2で、それは自然な感情だと言われ、それに対して、そうでない、好悪等々は作られたものだ、時代や地域に相対的なものだと言っても、あまり納得してもらえないだろうと述べた。そして、気持ちわるいという気持ちを感じてはならないとは言えないだろう。それを禁圧すべきであるとされることの方がかえってよくないようにも思える。
 そしてそのような正直さは、この社会にあって、肯定されること、積極的に肯定されることがある。なにか抽象的な原理があるからでなく、実際に人が思い感じることからこそ連帯や協力は生じるとされる。そう言われるとそんな気もする。どのように考えたらよいか。
 まず、人の世のことは人の行ないによって形作られる。そしてその行ないには人の思いが関わっている。以上はそれとしていつでもまったく否定しようのないことだ。その限りにおいて、私たちは「人間的なもの」から抜けることはできない。しかし、間違えない方がよいのは、この自明なこと、いつもそうであったしこれからもそうであるほかないことと、今語られることとは異なるということである。今語られるのは、個々人の思い、感情から、関係のあり方、社会のあり方を立てていこうということである。実際の関係、実際の関係に発する実感をもとに据えていこうという行ないである。このようにして何かを語るのがすこし流行している。その事情はわからないでもない。わからないではないと思うのは、一つに、ただ抽象的な原理を言われ、教義を説かれても納得することはできないという感覚、不満があって、それはいくらかはもっともであると思えるからだ。これが正しいから従えと言われてしまうと、納得できない。かえって信用できなくなってしまう。そのように思うのはもっともなことかもしれ△183 ない。
 「ケアの倫理」などというものが語られるのもこんなことに関係しているところがあるのだろう。その心性が、なにやら天然自然のもの、本能のように語られることには批判がある。あるいはまた、それが特定の性に偏ったものとして、「女性的なもの」として想定されていることについても批判がある。それらの批判はもっともなものではあるが、そのような契機があること、そしてそれは肯定されてよいものであること、このことは認めるとしよう。
 ただ、それにしても難しい場面があるように思われるし、そのことは指摘される。つまり、具体的な関係に生起する感情からその人に対する行ないが起動するとしよう。しかしそうした関係がなかったり薄かったりする人がいるだろう。すると、それらの人には何もなされないことになるのではないか。また、今私はしかじかが人に気にいられてそれでうまいぐあいにいっているのだが、それはいつまで続くのだろう。そんな心配もある。
 もちろんこれに対して、ケアする心性はそのように狭隘なものではない、などと言われもしようし、それもかなりの程度当たっているのだが、それでも不偏・普遍に対する懐疑から「ケアの倫理」等々といった話は始まっているのでもあるから、限界は認めざるをえない。それでさきに見たローティのような漸進主義も出てくる。つまりだんだんと人の輪を広げていこうなどと言われる。また教育の必要性が説かれる。人には類推の能力があるのだから、しみじみとした話をし、それで身近な人との間にたしかに存在することが確認された感情を、他の人にも差し向けられるように誘導していこうというのである。
 それはたぶん有効な手立てだと思う。この手立てを使うことに反対する理由はない。けれどもこの戦術がうまくいくいかないのとは別に、ここで押さえておくべきことは、このような道筋の話をするときには、あるいはこの種の議論の弱点を言うときには、既に、予め、気遣われるその範囲が世界の全体に及ぶことがよしとされているということである。そうあってほしいのだが、それはなかなか難しく、それで具体的なところから順々にやっていこう△184 という筋になっているのである。もちろんそんな拡張は不可能であり、また望みもしないという人もいるだろうが、そうでない人は、実現可能性は別として、それを期待しているということである。このことが何を意味しているかである。つまり、個々の関係にある心性を超えたものがあった方がよいと思っているということである。ならば最初からそう言えばよいではないか。それなのになぜその方向に進まないのだろう。普遍主義の何が批判されているのだろう。

 3 思いを超えてあるとよいという思いの実在
 プラトンやカントが持ち出されて「西洋形而上学」が批判される。そうした哲学者たちが何を言ったのか知らないし、その人たちの味方にならなければならない特段の事情も私にはない。ただ、批判する人たちは、批判する相手をなにか攻撃しやすいものにして、小さなものにして、それから攻撃しているように思えるところがある。
 批判者たちは、批判される相手が「普遍的な道徳原理なるもの」の実在を主張していると言い、しかしそんなものは実在しないのだと言う。だが、この場合に実在するとはどんなことなのか。もちろん、それは物がそこにあるように存在することではないだろう。このことは誰もが認めるはずのことだ。とするとどのような意味であるとかないとか言っているのだろう。もののようにあるのでないとすればどのようにあるのか。ある理念があればよいと思うのと、理念があることと、違うとは言えよう。しかし、いずれにしても、まずは人の思いとしてある。その人の行ないとして現実のことになる。それは、ものがある(と思う)こと、ものがあるとよいと思うこととが異なることであるようには、異ならない。そして、言葉は人に対するあり方として現実のことになる。むろんそれが実現しないこともある。しかし、その時でも遂行されねばならないこととして想念されてはいる。△185
 それ以上・以外のことを批判される側は言っているのだろうか。よくはわからないが、一つに考えられるのは、その態度、主張を後ろから支えて前に押す強さがあったらよいと思っているのかもしれない。実際、超越者への信仰は、世界の全体を見れば減じてはいない。ただ他方、そのことが疑わしさを招いてもいるということなのかもしれない。ことのよしあしは別として、見たことのないものは信じられないという思いをもつ人はいて、そのような人に対しては、経験の世界の外にあるものを持ち出すのは逆効果でもある。
 ただそれでも、そんな人たちにとっても、もう一つ、私が思っていたり私が思われたりするのと別に、私や他の人たちが生きて暮らせたらよいと思う。それは、やはり私が思ってはいるのではある。人間の感覚ではある。しかし、その感覚とは自分の感覚で決めないという感覚であり、個人の心情に還元しないという心情である。
 そしてこのことは、直接に、規範が誰にでも及ぶという意味での普遍性につながる。その前に、普遍性に、皆が思うという契機と皆に及ぶという契機と二つの契機があることさえ、ときに私たちは忘れるから、このことを確認しよう。そしてその一つめのものもまた、私が思うこと、私が思うのでしかないことの位置づけに関わってはいる。

 4 誰もが、について
 普遍性の一つは、信じたり是としたりする側の人の普遍性である。そしてそれに対する批判は、主張されるものは誰もが信じているのではない、是とするようなものではない、そんなものは存在しないという批判である。どこででも信じられていることではない、その意味で特殊なものだ、すべてがそうだと言うのだ。それに対して、一つに、実際には言われているよりは普遍的であると言う。一つに、普遍的であろうとなかろうとかまわないと言う。
 まず一つめ。批判者は、例えば人権といった理念が、ある時期以降の西欧の国々に生じた限られたものであると△186 いったことを言う。ただ、この点については、批判される側もそう違ったことは言ってこなかった。その人たちは、例えば、特定の時期・場所に出現したことを認め、しかし、やがて他の社会も進化してその場所に辿り着くはずといったことを言うのだ。つまり、時間軸に差異を配置し、終極を同じくすることによって普遍主義が確保される。両者は、問題になっている思想は西欧・近代の特殊なものであるといったお話をする点については同じである。やがて他も追いつくと考えるかそうは考えないか、またそれを正しいものと認めるか、そうでないか、態度を保留するかで異なるものの、事実認識においてはあまり違わない。
 しかしそんなことは信じる必要のないことだと思う。どんな社会で、誰が、このような私であるまま生きていけたらよいと思わないだろうか。人のそんな思いを認めたら損をする人たちはそう思わず言わないかもしれない。しかしそれは、言ったら得にならないから、その人たちが言わないのだと考えた方が理にかなっている。そんな人たちでない人たちも常にたくさんいて、その人たちは大きな声で言わないあるいは言えないかもしれないが、そう思っている。私がどんなであろうと、よく生きていられることがよいと思うことが、限られた地域や時間の中にだけしかないと考えなければならない根拠はない。そんな物語を信じる必要はない。
 ここで、さらにその「もと」があるかとかないとかいう議論をしても仕方がない。しかじかの知見によれば結局人間は利己的であることが、あるいは利己的な遺伝子のために利他的であることがわかったとしよう。しかし、だからそれでどうなのだろう、と思ったことはないだろうか。たしかに新たに得られたとされる知見や仮説はなにかおもしろそうではあって、なにかをもたらすかもしれないと思うことがないではない。何か今まで思いつかなかったことが現われるという可能性を否定しない。しかし知らなかったとしよう。すると、知らないことによって私たちは間違えるのだろうか。どうもそんなことがあるようには、私にはあまり思えない。そして私には、その知識によって基礎づけられるということもまたわからない。ここでは存在と当為とは別だといったことを――それはその△187 とおりだが――言いたいわけではない。何かを知ることが信じることを強めるということは、予め知ることをありがたがっている場合には有効かもしれない。しかしその有効性はそのような特殊な趣味をもっている人たちだけに限られる。
 次にもう一つのこと。いま述べたことが本当であるとして、それでも、すべての人がなにか同じことを信じたり肯定したりすることはない。その意味では、たしかに普遍的な価値は存在しない。しかし、このことは当然のことであり、仕方のないことだ。実際、神さまが一意に定めた掟があることを信じている人たちにしても、現実にみなが信じていることを想定してはいない。またそうでなければそれを信じるに足る理由がないなどとも思っていない。むろん、多くの人が受け入れたり、合意があったりすることは大切ではあるだろう。まず現実の問題として、人々が受け入れないものは実現したり維持されたりすることが難しい。そして、人の思いを否定するのがよくないとすると、その人の思いに反することを行なうことは好ましいことではない。行なおうとすることにその人も同調してもらえた方がよい。しかしこのいずれも、同意・合意を絶対化するものではない。とくに、既に現実の社会があり損得が配分されてしまっているなら、その現状で得をしている人はその状態を変えることに同意しないだろう。この場合に皆が反対しない案しか採用しないことは、今得をしている人を喜ばせることでしかない。この意味で、人はそれぞれだから比較しない、誰もが文句を言わないところが落ち着かせどころだという筋の話は、まったく反動的な話である。ときに、比較し、誰かを誰かより、何かを何かより優先せざるをえないことがある。それは、比較が可能か否かという問題への答としてではなく、それをすべきであるという要請によってなされる。いつも合意がなければならないと思うのは間違っている◇29。
 だから、ここで普遍主義を非難する人たちと一部同じで一部違うことを言うことになる。たしかに皆が同じことを信じている必要はなく、何かに皆が合意しなければならないわけでもない。しかし他方で、例えばどのように暮△188 らせればよいかについて、人々の思いにそう大きな違いはないはずだ。

 5 誰をも、について
 もう一つは価値や規範が誰にでも及ぶという意味での普遍性である。たしかに人に対する濃淡は違う。ほとんど実感しないことはたしかにある。近い人になら「死ぬな」と言いたい気持ちにわりあい簡単になるけれども、そうでない人ならそうではない。
 ただ、このことについても幾つかのことは言える。一つは、遠近と濃淡とが関わることは認めるとして、その距離を自然の距離と言えないことが多いことだ。例えば、関わりにならないのがよいから遠ざかることもある。遠ざけられることもある。このことは述べた。
 もう一つ。人に接し、知るのであれば、その人を大切にすることになるのか。このことについてあまり単純に純情にならない方がよい。慣れることに積極的な契機があることを後で述べるけれど、それとともに、死ぬことに慣れる人が死なせることにも慣れることもあるだろう。そして苦労が多く、それが蓄積された人は、その相手を恨み、殺そうとすることがあるだろうし、実際に殺すこともある。それでも近しい関係を称揚したい人は、そのような関わりは本当の関わりでないと言うのだろうが、すくなくともその関わりは事実存在する関わりではある。
 そして一つ。近い人に対する関係が特別なものではあること、それはよいことでもあり、また苦痛でもあること、両者は並存するのだが、さらに同時に、誰がどのような位置にいてどのような関わりをもっているとかもっていないとかと別にうまく生きていけたらよいと思うということがある。欲望の複数性についてはまたあとでも述べるけれども、これら複数が同時にあってすこしも不思議なことではない。△189
 さらにもう一つ、誰であってもよく遇されてよいという方に向かうことが、なにかリアルなことから離れた抽象的なことだとは言えない。それはまず私について言える。私がどのような私であるかによって、様々が左右されるし、ときには左右されたいとも思う。しかし、それはそれとして、そうした思いがあるのとともに、私がどんな私であるにせよ、よく生きられたらよいと思う。これはまったく具体的な現実的な思いだが、その思いは、誰でもが生きられるという普遍を指示する。そしてそのことは一人ひとりが有している属性を無視したり否定することではない。むしろそれを保存したり享受したりできる方に向かう◇30。また、自分がどう思っているというのと別に、他人が存在しているのはまったくの事実であり、自分の好き嫌いがそのままその人の存在を規定してしまうなら、その人はもう他人ではなくなってしまう。好きだとか嫌いだとか思うのはつまり私であり、そのことは否定できず、否定する必要もないとしても、他方で、同時に、その私は、それですべてを決めてはつまらないとか、うっとうしいとか、おこがましいとか思っている。それもまた私の現実的な思いである◇31。
 こうして、誰かのそのときどきの思いに左右されないものとして、自分自身や他の人々があってほしいと思う。むろんその上でも、恣意や好悪は残る。なくなることはない。それは仕方のないことでもあり、また享受されることでもある。ただ確認できるのは、一人ひとりに向かって個々に異なるあり方だけがリアルなものであり、どんな人であれどんな状態であれと思う方が観念的なものであるとは言えないということだ。自分がどんな者であったとしても、ここに、この社会にいさせてほしいと思うことも、また現実的で具体的な、ときにはまったく差し迫ったことである。両者ともに同じ人の欲望であり、いずれも具体的に現に存在する欲望である。このようにして、たしかに私たちが考え思っていることであり、思っていることでしかないのだが、そのことの中に、私の個々の思い、個々の関係から離れたところで、私が、人々が生きていられるとよいと思う思いがある。この意味での普遍性が、まったく具体的に現実的に要請されるのである。△190
 それ以外の何かが必要なのだろうか。それを押す強さ、あるいは強さのもとのようなものがあってほしいと思うのだろうか。あってほしいと思うのと、あると思うのと、後者の方が強い。誰がどうであろうとだいじょうぶであるように、もう決まっているのだと、神さまが決めたのだと思えた方がその規範は安定するし、日々思い煩わずにすんでよいかもしれない。強い信が得られ、気弱にならずにすむかもしれない。だから、自分がどう思うのかと別に、それはすでに命じられ決められたこととしてそこにあった方がよいのかもしれない。しかし、残念ながらであるのか、残念ながらでないのか、信じようにも信じることはできず、かえってそのような水準に訴えると、嘘のようだと思えてしまう。人々は、人々に押しつけたいものを人間の上の方に持ち上げるという仕掛けを知ってしまっているから、この所作はあまり効かないのかもしれない。とすれば、かえって人間界のこととして語った方がよいのかもしれない。あること、あるいはあるという言い方が、なにか天から降ってきたようで、どうも実感できない、嘘のように感じられるという人がいたら、人が、そのようであったらよいとどうやら思っている、そういうことのようだと答えるしかない。」(『良い死』pp.177-191)

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