連載「人命の特別を言わず*言う」,第7回の公開です!

※ 2月26日と27日、障害学国際セミナー 2022という催しがあった。ここしばらくはZoomでやるしかなかったのだが、その前は、各地域もちまわりで、このセミナー、もう長くやっている。日本と韓国から始まって、中国・台湾が加わってやっている。東アジアは東アジアなりにたいへんななかで、共通の主題でのやりとりを続けることは、その主題に関わるところでの進展というだけのためでないところで意義があるという思いが、とくにこの企画をずっと担当している長瀬修にある。私は「東アジアは介助で恊働できる」という報告をした。その録音記録も掲載してもらっている。よろしかったらどうぞ。
 3月10日と11日、フランスと日本との企画があって、私は今日(3月4日)、ずいぶん遅れてしまったのだが、「反能力主義運動の射程 / Anti-Ablism Movement, Its Range」と題した30分ほどの動画をフランスの主催者側にお送りした。この動画もご覧になれる。本連載の主題・内容にも関わる。
 どこで何を話したのか、なんでも忘れてしまう。せめて記録はとっておこうと思うし、それを聞いたり見たりできるようにしようと思う。「声の記録――生を辿り途を探す:身体×社会アーカイブの構築」は、多くの人へのインタビューの録音記録を文字化して公開したりしているもの等を一覧にしたページだが、そこに私自身のもので記録があることに気がついたもの、そして最近のものについてはできるだけ皆、記録を見聞きしてもらえるようにしたいと思っている。それもまたよろしくです。

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第2章 殺すことを認めたうえで人殺しを否定する

4 人の特別扱いについて                      ■1 Ⅱ:人のもとに生まれ育つ人であることを受け止める人
 食べるために殺すことは認めたが、人が人を殺すことはそういう殺しではない。そうした死については認めないとした。その範囲がヒトとなること、そして事実として、また規範として、殺さないが初期値とされることについて。他の種の生物についてもおおむね同じ種のものは殺さないようであり、そこには「本能」があると言われても、とくに否定はしない。ただ、生きている間の経験としても、殺しにくいというできごとはあると言えそうだ。それは食用に殺さないことの理由にもなり、実際にはおおいに殺しているが、基本は殺さないでおこう。
 『私的所有論』、第5章「線引き問題という問題」の第3節は「人間/非人間という境界」とした。そこでは、みながではないとしても、多くの人がヒト=人を特別に扱ってよいと思っているとして、思う前にそのように行動しているとして、それはどのようなところに発するのかと考えた。そこに述べたことを繰り返しながら、いくらかを足す。
 「種」では根拠が脆弱だ、とすると「性質」にしかないではないか、「生命倫理学」においてはそのように論が運ばれる。
 しかし、正当化の理由になるかどうか、それはまずは措くとして、境界はある。人は人から生まれる、人は人以外のものを生まない。人から生まれるものが人であり、そうでないものが人ではない。他にはどんな違いもないとしても、これだけの違いはある(★24)。
 まず、ひとりから生まれる者がいる。産む者がその生まれる過程を体験し、知るようになる。その者を実際にこの世に迎えるかについて、いくらかの手間がかけられ、なかったことにされることもままあるが、そんな場合でも、そこに、そのままなら子が現れるとは思われている。産む者はそれを次第に経験する。
 これはまずまったくその都度の個別のできごとではある。ただその都度のことは、個別に、しかし私の個別性を超えることとして起こる。つまり、身体の一部であるようなものが、私でない存在となる。そのことが経験される。
 そして普通には、性的交渉があって子が生まれることが、知られている。その相手が「仲間」であるかについてはときに疑義が生じたり、否定されたりするが、そんな場合でも、子の現れるに関わる存在であることは知られている。そしてこの場合に、そこに生まれる存在がまず、他の子とだいたい同じく、子であることは認識され知られている。相手が敵である等の理由で子が殺されることはあるが、それは例えば、生き続けたら災厄をもたらすかもしれない存在・人とされるからだ。
 そして、これらは、多くの場合に、周囲の者たちによっても知られ、経験されている。産んで、生まれた人がそうして生まれた人であることは、この過程を周囲は直接に間接に見ていて、知られている。その存在が子とされる。子を産むことにおいて、その過程を知ることにおいて、そして、その都度知るという過程が重なりあって、人々は子を知っている。そのように、そのことの重なりが知られる。周囲が経験する。関係から普遍のほうに行く道筋がここにはある。
 遺伝子のことなど何もわかっていないとしても、そうした知識とは別に、性、生殖という世界があることを人は知っている。おおむね同じものの間において生殖が成立していることは知られている。すると、生物としての交配の可能性/不可能性が事実として付随し、そこに生まれてくる者が、そこに関わった者たちの範囲が縁取られるということである。仮に異星人か誰かとの性交渉が可能になって、あるいは神様から授かって、子が生まれたとしたら、それは子として受け取られるだろう。
 以上はまず事実であるが、その事実の過程において、その事実は規範的な事実として作動する。つまりその存在が、殺せない存在として受け止められる過程がある。みなが一致していないとしても、そしてだんだんと、ということであるだろうが、その生存を止めるには、理由・事情がいるという程度のことにおいて、その者は生きることが想定されている。それは私、また私たちが思うという事実ではあるが、その事実にはそうせざるをえないという程度の規範性は作動している。私(たち)が決めることのできないことが現れるというように経験される。その規範を否定するのには事情や理由が付され、次に、その妥当性が問われるという順番になっている。
 それは、近さの感覚と別のものではないとしても、それだけではない。むしろ近くにあることによって、別の存在であることを感じる。そしてそのことは、遠くにいる人も、近くにいる子たちと同じく遇するべきことを指示する。これは今述べた、生まれたり育ったりということに関わり、事実でしかないともいえようが、事実ではある。
 いくらも例外的なことがあるとしても、基本はそうなっている。そのことはまず尊重されるべきだとされる。それが基本的な規範としてあり、それが承認される。それ以上のことを言う必要があるのかということだ。それであえて言葉を加えるなら、こうして、人々のなかにそう簡単に殺せないように思う過程がある時に、その思いは尊重されるべきだという規範があるということだ。さらに加えれば、その上で、それでも殺したり、殺すのが仕方がないという時には、その事情のほうを考え、その事情をなくしたり軽くする手立てがないものかと考えるべきだ、そうされているということだ。
 「そんなことはない」と主張することは、どんな主張も行なうことができるのだから、できる。そして、とくに技術の進展があって、この世に現させるのかどうかという選別が、述べてきた過程の手前に置かれることはあるのだから、時間的な順序の問題ではない。答は決まらないと言い続けることは、いつも可能なように、可能だ。しかし、ここに基本的な規範がある、そのうえでの選択についてはその後に議論されるものだと、なお主張することはできるし、そのほうが妥当だと考える。
 また、私が世話するものは人間以外にも猫や犬といろいろとあるはずで、そうするとそれらは皆、人間=殺してはならないものということになるではないか、と言う者もいるだろう。たしかに育てるものは他にもある。そして育てていると情が出てきて、殺せないし、殺されたら復讐するかもしれないし、手術につれていったり、葬式をしたりする。そういう存在が他の人によって害されてはならないとは言えるだろう。ただ人が産んで、人が生まれて育てているのと、人が産んだのではないのと、まったく単純素朴な違いもまた認識されており、両者の間に差別をする。それは認められてよいと思われている。
 そして、犬も犬を、猫も猫を、産み育てる、世話をすることを指摘する者もいるかもしれない。たしかに、犬も子犬を育てるし、猫も子猫を育てる。犬が犬の子を育てているのをみると、感情が動かされたりはする。ただ、ここでその経験をしている人は、人-ヒトの集合に属する。その集合の内部で起こることと、それとまったく同様のできごとがその隣で起こっていることとは区別される。その区別の事実については同意されるだろう。そして、「せめて」、さきに述べたような事情のもとにある集合内については、その「初期値」としては「保全」することが認められてよいだろう。
 ある存在が他者Bであるという経験が現われるのは私においてだと、私においてでしかないと述べた。子は、私が関わっていながら、私を超えるように現われる。その子に対する私の関わりとは、私を越えるように現われる、独立してあることになることを予感しつつ、あるいはそのことを感じながら、そのことに私が関わっているというようなあり方である。
 その存在に対してだけ向けられたものではないとしても、そのような現われ方にそのようにAが関われるのは、また事実関わっているのは、人の、というよりA(達)の子の場合だけである。AからBが生まれる、BがAのもとに現われる。そしてAがBの生存を受け止める。そのAにおいて、Bが生まれることとBが他者であることとは等しい事態ではないにしても、つながってはいる。
 そのように経験するAを、殺す存在と殺さない存在との境界について争う相手として、私達は認めている。AのBに対する感覚、Bが生存者として、殺せない存在として現われることを受け止めているという関わりがあることを認めている。倫理を云々するのは私達でしかないというその私達の中に、Bに対するAの関わり方があり、そのような関わり方をしているAがいる。この時に、私達はBを殺せない存在として認める、認めざるをえないものとして認めると言えないだろうか。
 このように見た場合に、人において子が現われることと、猫の子が猫のもとに現われること、この二つの事態は、その人、その人を含む私達において異なっている。他の生物に対する感覚と決定的に異なるとは言えないかもしれない。しかし違いはある。それは犬を殺せないという感覚とは違っている。
 そのことの「本体」が何であるのか。それはわからない。「本能」によってそのことを説明したい人はすればよいが、そのような問題設定自体にそう意味があるとは私には思えない。
 短く繰り返す。人は人を産む。人は人から生まれる。生まれるものがどんな存在であっても、さしあたり現在、人が人から生まれることは事実である。殺し難いものとして現われてくる過程がそこに、その都度ある、その反復には外延があって、境界がある。それはまず事実である。しかしその事実は既に「べき」を含む事実である。あるいは、その事実が尊重されるべきだという規範があると言ってよい。
 法哲学者の井上達夫(★25)の文章から。

 生存資格無用論…の立場を貫徹させるならば、あらゆる生命を平等に尊重しなければならないことになるが、実際にはこの立場にたつ人々も、ヒトの生命とヒト以外の生物の生命とを差別的に取り扱っている。(井上[1987:49ー50])

 井上はこの差別を正当化するために、ヒトのみがもつ重要な特質をあげるならいったん否定した生存資格の観念を復活させることになり、他方で、ヒトという種の同一性に訴えかけることにも問題があるとする。

 例えば、染色体異常の障害者に対してきわめて残酷なヒトの生物学的定義が与えられる恐れはないか。…さらに、この立場は人類エゴイズムの謗りを免れない。(井上[1987:50])

 出されているのは同じ問いであり、そして井上自身による答は与えられていない。私が本章に記した「答」は、「人類エゴイズムの謗りを免れない」ものではあるけれども、ダウン症等の染色体異常の人が人の範疇から除かれることにはならない。言うまでもなく、ダウン症のヒトもヒトから生まれたからである。

■註                               ★24 『私的所有論 第2版』、「ごく単純な基本・確かに不確かな境界――第2版補章・1」、第2節「人に纏わる境界」、の2「殺生について」。その註10より。
 「「仲間」は、基本的には、殺さないということはあっただろう。あるいはそういうものを仲間と呼んだ。そこから「人類」までにはずいぶんの懸隔がある。その結びつきというか越え方が実際のところどうであったのか、私は知らない。ただ最初から「人類」という範囲が獲得されていないとしても、それは本章で述べたことを否定するものではない。
 そして他方、かつて、人間でない様々な範疇があって、それが今日に至るまで次第に拡大されてきたといつも考える必要もない。人間主義者・博愛主義者・民主主義者たちにおいて、いつも(人間としての)考慮の対象にならない人間たちの範疇があったことはよく指摘される。その通りなのではあるだろう。ただその際、いくらか慎重であった方がよいということだ。例えば、「一人前」の人間とされる/されないことと、人間とされる/されないこととは同じでない。たしかに「市民」(その他)から除外されていたとして、それは人=ヒトでないとみなされていたということと同じではない。」(立岩[1997→2013:806])
 その続きが本書第1章註01。「そして同時に、人は人を殺すこともある」と続く。
★25 井上と加藤秀一の論文が『生殖技術とジェンダー――フェミニズムの主張3』(江原由美子編[1996])に収録されている。加藤の論文には、法哲学者の井上達夫の一九八七年の論文(井上[1987])への批判があるのだが、この井上論文もこの本には収録され、さらにそのうえで、井上の「胎児・女性・リベラリズム――生命倫理の基礎再考」(井上[1996])、加藤の「「女性の自己決定権の擁護」再論」(加藤[1996])が掲載されている。十人弱ぐらいの著者が分担して書きましたといった種類の本は、たんに十個弱の文章が並んでいますといったことが多いのだが、この本――あるいは江原が編者となったこの「フェミニズムの主張」というシリーズ――では、珍しく議論が議論として成立している。


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