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うつす、うつる、うつってしまう

 川端康成の『名人』には「うつす」と「うつる」と「うつってしまう」が出てきます。

 頼まれて「うつす」ことになった写真に「うつる」ものを見て、「うつってしまう」を感じたときの気持ちが文字にされているのです。「みる・みえる」について考えさせてくれる刺激的な記述に満ちています。

 しかし、私は写真の感情が心にしみた。感情は写される名人の死顔にあるのだろうか。いかにも死顔に感情は現われているけれども、その死人はもう感情を持っていない。そう思うと、私にはこの写真が生でも死でもないように見えて来た。生きて眠るかのようにうつってもいる。しかし、そういう意味ではなく、これを死顔の写真として見ても、生でも死でもないものがここにある感じだ。生きた顔のままうつっているからだろうか。この顔から名人の生きていたことがいろいろ思い出されるからだろうか。あるいは、死顔そのものではなくて、死顔の写真だからだろうか。死顔そのものよりも、死顔の写真の方が、明らかに細かく死顔の見られるのも妙なことだった。私にはこの写真がなにか見てはならない秘密の象徴かとも思われた。
(川端康成『名人』(新潮文庫)pp.29-30)

 なお、『名人』については以下の記事に書きましたので、よろしければお読みください。


写す・写る


 写真を撮る場合には、何かを写そうとして撮るはずですが、写すつもりのものが写るとは限らないし、また写すつもりだったとおりに写るわけでもありません。また予期せぬものが写ってしまうこともよくあります。

 そう考えると、写真を写すという行為はままならないもの、つまり思いどおりにならないものだと言えそうです。

 写す、写る、写らない、写ってしまう

 これは「見る」についても言えそうです。

 見る、見える、見えない、見えてしまう

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 見る、見える、見えない、見えてしまう

「見えない」と「見えてしまう」とは具体的にはどういうことなのかを考えてみます。

 見えない:見損なう、見落とす
 見えてしまう:見間違える、幻視(他の人は見えないというのに自分だけに見える・見える気がする)

 上のように言い換えると、心当たりがあるのではないでしょうか。幻視となると穏やかではありませんが、意外とよくあることにも思えてきます。

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「見る・見える」という行為には「見ない・見えない・思いがけないものが見えてしまう」が含まれているということでしょうか。

 人は自分にとって都合のいいものだけを見るという言葉はよく見聞きします。さもなければ人間なんてやっていられないのかもしれません。

 いずれにせよ、「写す・写る・写ってしまう」と「写さない・写らない・写っていない」とは表裏一体であって、それはやはり表裏一体である「見る・見える・見えてしまう」と「見ない・見えない・見ていない」とが基盤にあるからだという気がします。

 こういうのは錯覚やまぼろしや主観という言葉で綺麗にまとめられるたぐいの話ではなくて、自分が自分だと思っているものにはあちこちに穴が開いているからなのかもしれません。たぶんすかすかなのです。

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 もう少し話を広げてみます。

 写す、写る、写らない、写ってしまう
 文字を写す、文字が写る、文字が写らない、文字が写ってしまう

 文字を書き写す、つまり書写や筆写や写経や写本のことです。「文字が写らない」と「文字が写ってしまう」は、「写し間違える」とか「書き損じる」場合が考えられます。

 長時間書き写したり、眠かったり疲れていると「写し間違い」や「書き損じ」が起こっても不思議はありません。

「写す・写る」ときには「写さない・写らない・思いがけないものが写ってしまう」もまた起こるようです。写本には異同が付きものだと言います。

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 文字を書く、文章を書く
 文字を写す

 そもそも文字を書いたり、文章を書くことは、かつて習い覚えてた文字をそっくりそのまま書き写すことではないでしょうか。

 文字を書くという行為は学習の成果なのです。文字とは誰もが生まれたときに既に自分の外にあったものですから、それを何度も真似てなぞって、学び覚えない限り、習得できません。

 だから、文字は複製として存在します。誰もが複製をなぞり真似て覚え、覚えたあとも複製をなぞりながら使うのです。

 複製、同じ、同一、一本化された「たった一つのもの」
 みんなのものでありながら、誰のものでもない(それなのに独り占めしようとする人や人たちがあとを絶たない)

 とはいえ、人はその複製をしょっちゅう写し間違えます。写し間違えないために、人は道具や器械や機械やシステムを作って助けてもらっているのです。

 文字の読み書きには時間と労力を要します。私もずいぶん苦労しましたし、未だに読み書きを覚えている最中だという自覚があります。読み書きの習得に卒業なんてないのです。

 しかも忘れます。年を取るとどんどん忘れるので覚えなおさなければなりません。

「書く」が、すかすかしてまばらな、いとなみに思えてきます。

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 文字を写す、文字が写る、文字が写らない、文字が写ってしまう
 文字を書く、文章を書く

 写本、写経、印刷、ファックス、ワープロ、パソコンのワープロソフト、スマホのワープロソフトやアプリ

 文字の書き方、写し方、読み方、表示の仕方も大きく変化してきました。ネット上では文字と文章(文書)の投稿・配信・拡散・複製・保存が同時にしかも瞬時に行なわれるようになっています。

 文字を映す、文字が映る、文字が映らない、文字が映ってしまう
 文字を入力する、文章を入力する

 文字はいまや、キーボードのキーを叩いたりキーボードの影みたいなものに触れることで入力し、モニター画面にその映り具合を見ながら映し見るものになっています。

 現にこの文章はそうやって書かれているのであり、そうやって読まれて(見られて)いるはずです。

 紙に写っている文字、つまり書かれたり印刷された文字は紙に付いています(ときには憑いてもいるようです)。処分しないかぎりは消えません。

 画面に映っている文字は、枠のある画面からつぎつぎと消えていきます。したがって読むことは、消えていく文字を相手にしての追いかけっこになります。言い換えると、映っている文字は影と同じで「ない」のです。

 画面に映っている文字はどこかに「ある」にもかかわらず、どこにも「ない」とも言えます。「書いた言葉はどこに行く」

「ない」文字、影の文字――。新たな意味での「無文字」社会の出現なのかもしれません。
(拙文「「ない」文字の時代(かける、かかる・02)」より)

映す・映る

 
 動画を撮る場合には、何かを映そう(撮ろう)として撮るはずですが、映す(撮る)つもりのものがモニターや画面に映るとは限らないし、また映す(撮る)つもりだったとおりにモニターや画面に映るわけでもありません。また予期せぬものが映ってしまうこともよくあります。

 そう考えると、動画を映す(撮る)という行為はままならないもの、つまり思いどおりにならないものだと言えそうです。

 これが映画やテレビの番組になると、俳優やスタッフがたくさんいますから、監督や製作する立場の人の意思が反映されたものになるとは考えられません(映画で長々と流れるクレジットは映画の一部です)。妥協なしに作品は作れないだろうと想像します。

 そう考えると、映画にかぎらず、動画を撮る(映す)という行為はままならないもの、つまり思いどおりにならないものだと言えそうです。

 映す、映る、映らない、映ってしまう
 撮る、撮れない、撮れてしまう

 文字と文章もそうであるにちがいありません。文字の使用とは、みんなでまったく同じものを共有する仕組みですから、自分の思いどおりにならなくて当然です。

 文字と文章にも、写したつもりでも写らない、映っているはずなのに映らないものがあり、逆に期せずして写ってしまったり映ってしまうものがあります。主導権は読者にあるとも言えますが、何にもまして文字のほうにあるのです。

 人の作る道具(器械・機械・システム)においては、主導権はたいてい人の側にはありません。人が合わせるしかないのです。相手が相手ですから、慣らすよりも人が慣れるしかない。

 だから人はだんだん道具に似ていきます。人間の道具化、道具の人間化。「【レトリック詞集】人間の「人間もどき」化、「人間もどき」の人間化」

 人は文字を書いているのではなく、文字に書かされているのです。
(拙文「「読む」と「書く」のアンバランス(薄っぺらいもの・07)」より)

 作文まで機械任せにしはじめたのは、文字が手に負えない証左にほかなりません。

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 写真を撮る、映画を撮る、動画を撮る

「撮」という漢字が気になったので、漢和辞典(漢字源・学研)で調べてみました。興味深い部分を抜きだします。

・「つまむ、とる、つまみ」という意味がある。
・解字によると、「親指・人さし指・中指の三本でごく少量をつまみとること」らしい。

 要するに「映す・写す」(さらには「移す」)ために、人間は「撮る=摘まむ=撮む」ことによって道具や器械や機械を操作している。便利と言えば便利ですが、横着と言えばこれほどの横着はないでしょう。

 個人的にいちばん興味深いのは「親指・人さし指・中指の三本でごく少量をつまみとること」という記述です。焼香に似ていてどきりとします。

 カメラにしろ、再生機器にしろ、パソコンにしろ、スマホにしろ、三本の指でつまんだり、そのどれかで叩いたり、撫でたりして操作する場合が多い気がします。

 つまむ、つまみ、つまみとる、とる

 録画する、録音する
 録画を撮る、ビデオを撮る
 音をとる(録る)

 音声も「とる」とは言いますが、その表記についてはばらつきがあるようです。

 いずれにせよ、「とる」が気になります。

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 とる、取る、採る、捕る、執る、撮る、獲る、穫る、摂る、録る、盗る

 相手や対象を「手玉にとる」という魂胆を感じます。「うばう」とか、思うままに「あやつる」、場合によっては「もてあそぶ」というイメージでしょうか。

 そう考えると、とられたくない気持ちが起こります。誰だって、何だって嫌でしょう。でも、いざとなったら、とるか、とられるしかないようです。

 とる、とられる
 とってしまう、とられてしまう

 どこの地域か忘れましたが、日本以外のところの話で、写真を撮られることは魂を取られる、つまり奪い取られることだと考える人たちがいるとのことです。

 たましいをとる
 たましいがとられる

 日本語の「うつる・うつす」でも、魂や心が主体になったり対象になる用法があるのと似ている気がします。

 たましいがうつる
 たましいをうつす

「とる・とられる」と「うつす・うつる」は呪術と深くかかわっているようです。だから、大切な人を撮った(写した)写真を踏むことができないし、踏まれれば腹が立つのでしょう。

 たましいのうつり
 たましいのうつし

移す・移る


 移り香、心移り、移り気、気移り、移り病、火移り、目移り、文字移り

 人や物や生き物が移動するとか、人や物や生き物を移動させる以外に「移す・移る」が用いられることがあります。

 遷都、遷宮、遷移

「遷す・遷る」および「遷」となると、用法は限られてくるようです。

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 形態模写、声帯模写
 擬態、擬声、擬音
 比喩、たとえ
 類似、相似

 仕草、動作、音声
 病、あくび、癖、習わし
 形・型、かた・かたち
 ありよう、ありさま
 気、き・け、気配、気持ち、気分、天気、気象、気候

 たましい・魂・魄、たま・魂・魄・霊、たま・玉・珠・球・環
 こころ・心
 おもい、思い、想い、念い

「うつす・うつる」を広く取ると、その主体や対象も広くなります。同時に「写・映・移・遷」による分けも線引きも曖昧になります。

 その境目(さかいめ)、移り目(うつりめ)が曖昧になるほど、私には快いしリアルなのですが、その一方で、くっきりはっきりさせたいという気持ちも分かります。

 かげ
 うつす・うつる
 とる・とられる

 こうした和語・大和言葉のさかいの不明な多義性と、それに当てた漢字・漢語の明晰さのあいだを行き来していると、気が遠くなります。もちろんいい意味です。

 目の前にある、または思いの中にある、たった一つのものに、一本化された「たった一つのもの」を当てる――。そんな言い回しを私はよくするのですが、どちらの「たったひとつ」も夢であるような気がします。

 夢では何もかもが肯定されます。目が覚めたときの思いの中では矛盾したり相反するように感じられることが、あっけらかんと起こっている。ある。それが夢です。

 おかしいじゃないか、なんて薄々感じながらも、それがそうなって「いる」し、「ある」のです。

 その理不尽と不条理を意識したとたん、夢から覚めます。目覚めてそこにあるのは、道理と条理に縛られるうつつという名の夢の世界です。

     *

 かげ
 うつす・うつる
 とる・とられる 

 このように文字にすると、その文字(かな・仮名・仮字)が文字になる前の「何か」の「いる」と「ある」のおもかげが感じられる気がします。

 おもかげ・面影、おも・面・表・思・重・主、かげ・影・陰・景・翳

 仮名・仮字を真名・真字にうつすと、そのささやかでこまやかな面立ちが、濃密という意味でのこまやかさとしてうつるから不思議です。淡いと濃いが矛盾しないのですから、このうつりとうつしは夢としか思えません。

 うつる、うつす、うつり、うつし
 たましいのうつり、たましいのうつし

 おもかげ――私にとっては「なつかしいかお」という感じの言葉です。顔ですから表情があります。表情ですから常にうつり変ります。おそらく見えてはいないのです。

 ※俤は国字だそうです。そう言われると、そんなおもかげを見てしまうのは私が暗示にかかりやすいからでしょう。

     *

 うつってしまう、うつしてしまう、みてしまう、みえてしまう、とってしまう、とられてしまう

 たとえば、うつせみがうつせみに転じてしまう。あなたがあなたにうつってしまう。

 うつせみ、虚蝉・空蝉、現身・現人、あなた、彼方、貴方
 うつせみのあなたに ⇒ 「figureというタイトルの詩(辞書を読む・02)」

 してしまう――へりや、はしや、ふちにいて、それる、ずれる、はずれる、たがう、もれる感じ――。そのあやうくて掬いきれない感じが好きです。それこそが救いなのです。

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