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【コラム】Velviaの使いどころ

「とっておき」が故に使うタイミングを逃してしまう。そんな経験はないだろうか?

「とっておきのカバン」「とっておきの洋服」。気合を入れて購入したはいいものの、本来の用途で使われることがほとんどないまま数年が経過する…。

今、ぼくにとって写真用フイルム「Velvia」がそのジレンマに陥っている。「Velvia」は富士フイルムから販売されている、発色の良さに定評のあるリバーサルフイルムの一種だ。

1年前くらいだったか。某家電量販店のポイントが貯まっていたので、特にやることもなかった休日、ぼくは何となく以前から気になっていた「Velvia」を買うことに決めた。

写真用フイルムといえば、最近は原材料費の高騰や需要減少に伴い、もはや一般市民が手軽に買える金額ではなくなっている。
そんな事情もあり、ポイントで買った「Velvia」はぼくのなかで、特別などこかに行ったときに使うポジションに落ち着いてしまった。

ところがどうだろう。ぼくの暮らしには、特別な瞬間というものはなかなか訪れず、写真は日々撮り続けているのに、「Velvia」の出番だけは一向に訪れないのであった。

日常的なシーンはカラーネガフイルムや、デジタルカメラで事足りてしまうのが実情だ。(写真1_カラーネガで撮影)

「勿体無い」とVelvia

日本的な世界観として、「ハレとケ」というものがある。「ハレ」は非日常、「ケ」が日常というのが最もシンプルな解釈の仕方だろう。

ぼくは、「Velvia」を「ハレ」を捉えるためのフイルムにしたかった。だけど、人生の大部分を占めるのは「ケ」であり、ぼくの写真の大半もまた「ケ」を捉えたものなのであった。

見返してもやっぱり「ケ」づくしの写真たち。(写真2_カラーネガで撮影)

つまるところ、Velviaに対してぼくは「この素晴らしい発色のフイルムでただの日常を撮るのは勿体無い」と感じていた訳である。

ええい、深く考えずとにかくカメラにVeviaを詰めてしまえ…、と思わないこともない。ただ、何となくその日は何も特別なこと(=Veiviaで撮るにふさわしい夕焼けとか、その他諸々…)が起こらないような気がして躊躇ってしまう。

Google検索した付け焼き刃の知識によると、「勿体無い」は仏教由来のことばで、「そのモノ本来の価値が失われることが惜しい」という意味があるとのこと。

では、Velviaの本来の価値ってなんだろう。綺麗な色の写真を記録すること?いや、その前にまず写真用感材としての役割を果たすことではないか。

ぼくは、この発色の良い36枚撮りの感材に対して、とことんまで使いどころを見極めているつもりだった。それがかえって、「勿体無い」事態を引き起こしていたのである。

中庸であることの有用性

なんの気なしに使えることが「自在に操る」ことへの第一歩だ(写真3_カラーネガで撮影)

ここまで考えを整理して気がついたのは、使用頻度の高い道具については、中庸であることが何よりの有用性なのではないかということだ。

普通のフイルム、普通のデジタルカメラ。中庸に写ることで、ぼく自身の個性がそこに投影される。

そして、何より使いどころなんて考えず、自然に手に取れるような道具たち。それがぼくにとっては一番便利で、頼れる道具だ。

ぼくがVeiviaを買うことは、もうない

きっと、思い描いていた「Velviaの使いどころ」なんて幻想なのだろう。多分、ぼくがVelviaをこれから新しく買うことはもうないし、この価値観をもとに、カメラやフイルム以外のモノ選びもしていくだろう。

だけど、いつかVelviaでしか撮れない何かが目の前に現れるような予感が、心のどこかでいつまでも燻り続けている。

それは明日かもしれないし、30年後かもしれない。願わくば、自分が死ぬまでにそんな幻想を捉えるのが、ぼくのささやかな夢の一つになった。


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