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幸福な矛盾

春分の日、東京に季節外れの雪が降った。
それは歴代でも三番目に早く、昨年より九日も早い桜の開花宣言を告げてから三日後のこと。

季節外れは「桜」か「雪」か。

もはや「季節」という境界線が、そもそも自然に反しているのかもしれない。
五分咲きの桜を霞めて降る雪を眺めながら、「これが今年の終雪になるのかな」とぼんやり思った。

終雪(しゅうせつ)とは春を迎えてから、その冬最後の降雪(雪)のこと。終雪は気象台が観測・発表するが、初雪とは異なり一般的にはほとんど使われない。同意語には名残雪(なごりゆき)、忘れ雪(わすれゆき)、雪の果て(ゆきのはて)、涅槃雪(ねはんゆき)の言葉がある。


今年の初雪(私にとっての)は幻想的だった。
札幌の奥地、白銀の世界とはこのことかと思うほど、あの日は見渡す限りがその色に染まっていた。

東京で大人になった私には雪が「特別」で、前髪にピタリとくっついたその結晶があまりに綺麗で高揚した。
指で触れたら当たり前に溶けてしまったけれど、その熱さえ愛おしく思って泣きそうになった。 


初めてのことはいつだって強く意識する。記憶の中にも鮮明に色付いて残り続ける。
けれど幾重にも繰り返すうちに、それはだんだんと「特別」から「日常」に変わり、「ある」ものが「なく」なり、ふと気付く。

ー あれが最後だったのか。
そんな風にしてようやく「さよなら」を認識することがある。

最後かどうかは分からない (いつかどこかで再会するかもしれないし、確固たる意思を持って連絡を取ればきっと会える) けれど、今のところ、おそらくはあれが最後になるのだろうという人たちとか。

子どもの頃は卒業式というさよならの儀式があったけれど、大人になると暫しの「またね」と永遠の「さよなら」が同義語になることがあって、時が経ってからでないとその瞬間が最後だったとは気づかない。

だから、どんな時もいつかくる終わりを無意識に覚悟してきた。そうでないと、後から認識する不完全なさよならを受け入れることができない。いつかくる終わりが怖くて、愛おしい始まりを避けてしまったことさえある。

それくらい、あまりに刺激的な経験を立て続けに味わうと、この先に用意されている全ての感動を前倒しにしている気がする。

ー幸福の質と量は反比例。極上と希少は対になるならば、せめてその過程は少しずつ、できるだけ長く味わいたいの。

いつだったか、そんなことを口にした私に「大丈夫、開けたらまた次の扉が現れ続けるから」と背中を押してくれた人がいた。だから扉は開け続けるのみだよ、と続けたその人は、まあ戻ることもできないけどね、と笑っていたっけ。

その揺るぎない強さに惹かれながら、終わらない終わりもどこかにはあるのかもしれないと幸福な矛盾を祈ったことを思い出す。

始めと終わりを繰り返して、たとえ特別が日常に変わっても、その日常こそが特別なものになることをいつまでも覚えていたい。



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