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出雲族と徐福族〜まつろわぬ民族の真実

日本の古代史は「古事記」「日本書紀」(記紀)に負うところが多いですが、これらの史記は奈良時代の舎人親王はじめ官僚たちが、時の権力者や関係者に忖度しながら天皇の正統性を国内外に示すために編纂したもの。つまり、不都合な真実は神話の中に隠蔽しつつ、当たり障りなく纏め上げたため必ずしも史実を忠実に伝えているとは言い難い。その内容を記紀以外の一次資料と併せて比較検証し、忖度のベールを慎重に剥がしていくことで初めて真実の歴史に近づけるのです。

寺社仏閣の入口に掲げられた由緒書の縁起も同様です。神として祀られているのは、いにしえの時代にその土地に君臨した権力者や有力豪族の先祖。とりわけ戦国時代の寺院はテロ支援国家並の特権武装勢力。古くから日本には成敗した敵の御霊が怨霊となるのを怖れ神として祀る風習がありました。寺院の本地垂迹神や神社の摂社や末社にこそ物言わぬ真実の歴史が封じ込められていたりします。表に掲げられた由緒書の表面的な能書きや御託宣、取ってつけたような御利益を有難がって読むのではなく、その行間に籠められた真実の歴史を読み下す嗅覚が大切です。

神話や由緒書を読み解くには、それらがどんな現実の出来事や戦記に基づいているのかをさまざまな傍証から見極める目が必要です。歴史は「勝者の歴史(彼の物語)=His Story→History(歴史)」と言われますが、よくある〝歴史の謎〟とは単に勝者の不都合な事実に忖度して誰も追求してこなかっただけのこと。伝記や歴史小説のようにいいとこ取りの美談に脚色された「彼(勝者)の物語」を鵜呑みにせず、科学的、客観的な検証で敗者の物語を掘り起こすのです。例えば日本の国内事情とは一線を引く外国の史書(漢書や東夷伝など)には忖度なしにどう記載されているのか。和国の使者による虚偽の申し出や異国の官吏や史家の勘違いは差し引き、その記述が日本各地の風土記や旧家の古文書などと矛盾なく一致していれば、それこそが神話や民話(昔話)、縁起の奥に潜む古代の真相と言えるでしょう。

古代日本の歴史を紐解くにあたっては、まずインドにあったクナト王国(クナ国)からのドラヴィダ族の渡来を知る必要があります。出雲旧家の伝承には「出雲族は今から4000年以上前に、鼻の長い動物(=象)の国から日本列島に渡来した」とあります。クナ国はインド中央部のマディヤ・プラデーシュ州のグナ地方にあったインダス文明の国家。BC2000年頃のメガラヤン寒冷期にアーリア人の南下による圧迫で離散したクナト王族のドラヴィダ人たちは、バイカル湖、アムール川を下り樺太経由で日本列島に到着し、日本海沿いに出雲まで到達しました。

彼らは八つの支流(八岐大蛇伝説のモデル)に分かれ川沿いの定住地が確保しやすく、良質な砂鉄が豊富に取れる「黒い川」と呼ばれた斐伊川周辺に定住しました(斐伊川は全国の氷川神社の名前のルーツ)。インダス文明から持ち込んだ野ダタラという製鉄法で農耕器具などの鉄器や武器を作り、陸稲作という農業革命で食糧の安定供給をもたらしました。出雲の地に恵みと鉄器文明をもたらしたクナト国からの渡来人たちを、原住民である縄文人たちはまるで神のように崇め尊重しました。これが日本初の統一王朝「出雲王国」誕生の礎となります。

※現代に伝わる出雲のたたら製鉄

古代日本史を押さえるもう一つのポイントが、出雲王国誕生から約480年後のBC200年頃にあった、大陸からの徐福集団の渡来です。当時大陸では支那を初めて統一した秦王朝末期の混乱期。徐福に率いられたユダヤ人の童男、童女、工人を含む大船団が、2度(3度説も)に渡りのべ5000人を超える集団で山東省から日本海を渡り出雲の隣の石見国(2度目は筑紫国)に渡来したのです。徐福は始皇帝に滅ぼされた斉の王家の一族で、泰山で北斗七星を拝む同じ道教だったため始皇帝(ユダヤ人の子孫と言われる)に信頼され多額の資金援助を受けました。当時の列島の人口は約20万人ほどなので、今の日本の人口で換算すると約3百万人の一大勢力が首都の隣の神奈川辺りに一気に移住してきたようなものです。

当時の出雲王国では丸太船が主流でしたから、大陸最新鋭の構造船が石見の海岸に現れた様子は、まさに幕末の黒船来航に等しいインパクト。出雲族は縄文時代の日本にインダス文明からの母系家族制度や祭政一致の政治形態をもたらしましたが、徐福集団はそこに弥生時代の機能的な吉野ヶ里式土器といった近代文明と、大陸で鍛え上げられた軍事力を持込みました。後に物部氏と称する彼らは、秦国から渡来し養蚕や絹織物など機織りをもたらしたため「秦(はた)氏」と呼ばれました。

出雲王国は王家と周辺豪族の血統を守る(縁結び)ために、毎年神在月に同盟国と合同会議を開催する緩い結びつきの共和制連合王国でした。出雲王国は陰陽五行説の中でもその起源が商(殷)の時代まで遡る十干十二支の考えに基づく60年周期で、大王(大国主)と副王(事代主)の役職を東西の2王家「富家(=向家)と神門家(=郷戸家)」が交代で担うことにより480年もの長期安定政権を維持していました(伊勢神宮の遷宮は20年ですが出雲大社の遷宮は現在も60年ごとです)。そこへ渡来してきた徐福は大陸の先端技術や武力を背景に、出雲王家(西出雲国王の高照姫=稲田姫のモデル)と血縁関係を結び政治の中枢へ進出しました。そして、当初の徐福の目的どおり、時の大王(出雲王国8代目大王八千矛)と副王を暗殺し政権転覆を謀ったのでした。

※ 出雲王国の大王と副王が拉致され枯死したと伝わる猪目洞窟

ところが、八岐大蛇(=出雲族)を成敗し鉄の剣(斐伊川の製鉄文明)を奪った素戔嗚尊(=徐福族)は、神話では都合よく大国主命の父親に収まっているのです。そして時代は下り、宗教戦争を挟んだ二度の出雲戦争(神武東征のモデル)の後、徐福の息子(五十猛)と西出雲分家宗像家(宗像三女神のモデルの一人市杵島姫)の皇女(穂屋姫)との子供で、徐福の孫にあたる海村雲(あまのむらくも=神武天皇のモデル)は、大和地方に進出して初代大和朝廷の大王に就任しました。徐福の子孫たちは大王、副王暗殺事件を「国譲り神話」に置き換え、また徐福の孫の村雲を「天孫降臨(天=徐福、孫=村雲)」、三種の神器「天叢雲(叢雲=村雲)之剣」の神話として語り継いだのでした。

ちなみに徐福の渡来がBC200年頃というのは、海外の史書の記述と国内の複数の風土記や民間伝承と一致するので史実と目されます。それまで出雲王朝は約480年続いていたため、古代出雲王国の成立はドラヴィダ族の渡来から1500年ほど後のおよそBC600年前後ということになります。この頃大陸では寒冷化(ホーマー極小期)が引き起こした春秋戦国の戦乱期。その余波で列島に流入した出雲族の血縁民族(斉藤成也教授の遺伝子研究によれば日本列島渡来第Ⅲ波前期)が出雲族を纏め上げ王国を設立したと思われますが、記紀の編纂にあたり神武天皇の正統性を内外に示すため、大和朝廷の建国を出雲王国の成立年に上書きしたことで「万世一系(皇紀2600年)」という神話が出来上がりました。東西の出雲王家による60年に一度の8回の政権交代を無理矢理8人の天皇として記述したため、神話では在位が百年を越えるような長寿の天皇がざらに出てきます。

徐福の血縁の海村雲の子孫は海部氏、天野氏、尾張氏として高貴な血統を守り、一方出雲王家の子孫も毛利氏、浅野氏、長宗我部氏など戦国大名の名家として血脈を繋ぎました。戦国時代だけの派手な合戦絵巻や国盗り物語ばかりに目を奪われていては、太古より連綿と続く戦国武将の関係性や日本人のルーツは見えてきません。後の時代に至るまで政界の中枢で権力を握り続けるには、先祖代々受け継いだそれなりの理由があるのです。大陸の外れの絶海の島国よりも遥かに文明の発展した広大なユーラシア大陸。世界の海を股にかけしのぎを削った一族が、海外の先端技術(稲作、製鉄、軍事力など)と、宗教(塞の神、道教、仏教など)にモノを言わせ民を従え莫大な富を築いたのです。政界、財界、宗教界、芸能界…今も昔も連綿と世襲継承される高貴な血統が不動のドンとして君臨するのです。

奈良時代の官僚により編纂された万世一系という天皇の正統性は、先進国支那の正史「三国志」において魏王朝の正当性を主張した陳寿の手法を拝借したにすぎません。現在の我が国の官僚による海苔弁だらけの国会答弁のような奈良時代の官制の古文書にばかり頼るのではなく、もっと生き生きとした現実的な一次資料に基づいた客観的で科学的な検証が必要です。古代史上における出雲族と徐福族の渡来と抗争の歴史を直視し真摯に向き合うことは、日本史の真実を見極める上で不可欠かつ重要な意味を持つはずです。

(左上)出雲族富家の「龍燐枠銅剣交差紋」(右上)徐福族の吉野ヶ里式土器 (下)出雲文明(王国)発祥の「黒い川」斐伊川

徐福族の子孫の物部一族は、出雲王朝との血縁を最大限利用しながら2度の出雲戦争と宗教戦争を経たのちに大和王朝を樹立したわけですが、それは世界史に目をやった時には、国を追われ流浪の民となったユダヤ民族が、世界各地の王朝と血縁を結ぶことで民族の血統を守りながらその国の特権階級として生き延びた歴史と重なります。古今東西、高貴な血統を繋ぐための異国間での国際結婚による混血はごくありふれた政治手法です(某国皇室の王女が半ば駆け落ちのように海外に嫁いだのも、実は隣国の皇太子の血脈を繋ぐためという欧州の報道もあるほどです)。それを勝者の理屈と武勇伝と成功物語で化粧直しし民衆に流布したものが世界各地に残る神話でありその国の歴史なのです。

徐福族に追われた正統出雲の後継者に大彦命(おおひこのみこと)という人物がいました。彼もまた勝者の歴史によって脚色された神話の中では単なる皇族の一人として系譜に組み込まれていますが、その実像は出雲王国の血統を引く磯城王朝の皇太子として徐福族の道教思想に基づく銅鏡祭祀に対抗し、出雲に伝わるインド由来の朝日遥拝と幸の神(サイノカミ)信仰に基づく銅鐸祭祀を守るべく、東へ東へと拠点を移しながら最後まで徐福族の支配に抵抗した〝まつろわぬ〟出雲王国の末裔なのです。大彦は記紀では神武天皇と対立した長髄彦や、ヤマト朝廷第8代大王孝元天皇の第1皇子として描かれていますが、真実の歴史は長髄彦と孝元天皇は同一人物で、ヤマト政権における出雲王朝の血脈(磯城王朝)の大王である国玖流(クニクル)のことで、大彦はその出雲王家の血を引く第1皇子なのです。

徐福族の子孫たちは出雲の隣の伯耆(ほうき)国にも侵攻しました。現在の鳥取県伯耆町には福島や福居、福岡、福里という地名がありますが、徐福族は占領した地名に「福」の字を使いました。徐福族に追われた大彦やその子孫たちは出雲から北陸や伊賀方面へ、さらに諏訪から静岡を経由して関東へと広がるなかで伊賀忍者や東国武士として血脈を繋いだ者もいました。出雲族の散家である大彦一族たちは、アイヌ民族など土着の勢力とも平和的に緩やかな連合体を形成しながら一大勢力となり、最終的に東北一帯に〝第二の出雲王国〟を築くに至りました。

大彦族の通ったあとには敢(あへ)国、阿武山、安倍川、安比高原などの地名が残っており、大彦はアベ一族の祖と言われます。東日本に作った新王国のことを、先祖が朝日を遥拝した三輪山の朝日信仰にちなんで、日が高く昇る東の国という意味の「日高見国」と名づけました。アベ一族の日高見国が西の大和朝廷とは別ルートで海外貿易をおこなう独立国だったことは広く国外には知られていました。大陸の五大十国時代の史書「旧唐書」にも「日本列島には和国と併立して日のほとり(東国)に日之本国がある」と日高見国の存在が明記されています。

※インド由来の朝日遥拝の聖地三輪山を御神体とする大神神社

出雲の斐伊川のような砂鉄川を支流に持つ「北上川」の語源も〝日高見川〟から来ています。また、東北地方の「鳥海山」は本来〝トミ山〟と読まれたのですが、これも出雲王家の富家から来ています。常陸国の〝ヒタチ〟も日が立つが語源でこれも朝日信仰に由来した地名です。物部族に追われた大彦勢力は船で常陸国に至り鹿島を都として鹿島神宮を建て、出雲の龍蛇神である雷神を祭神として祖先を祀りました(鹿島神宮の〝不都合な祭神〟は後の時代の藤原氏により武甕槌神に変更されました)。このように日高見国の痕跡は東日本の至るところに見られるのです。

※「日高見川」が語源の北上川

大彦一族の信仰に「アラハバキ信仰」があります。出雲から北陸に伝わるサイノカミ信仰において、荒神谷遺跡の名称にも使われている「アラ(荒)」とは〝龍蛇神〟を意味します。「ハバ(羽々)」は古語で〝大蛇〟のことなので「ハバキ(羽々木)」とは「蛇の巻きつく神木」(旧約聖書の知恵の樹と蛇のよう)を表す言葉です。人間は太古の昔より恵みを与えるもの(太陽、稲穂など)か、その逆に災いや怖れをもたらすもの(雷、怨霊など)を神として祀ります。この龍蛇神とはもともとインド人にとって恐怖の対象だったガンジス川に棲息する鰐のインドガビアルとインドコブラを合体させ神格化したものでした。

出雲大社の神迎祭ではコブラに見立てた背黒ウミヘビの剥製が龍蛇神の御神体として使われます。「因幡の白兎伝説」もインド民族由来のため日本に生息しないワニが登場しますが、出雲族はワニの代わりに日本近海に生息していたサメをワニに見立てました。山陰地方や広島県、兵庫県の一部の方言では今でもサメのことをワニと呼びます。出雲族が出雲の隣に作った伯耆国の「ホウキ」はハバキが変化した言葉ですが、アラハバキ信仰は大彦族の移動にともない出雲地方から東北地方を北上し津軽まで持ち込まれたのでした。

出雲王国を追われた〝まつろわぬ〟大彦一族は大和朝廷に従わない日高見国として対立したため、蝦夷(えみし)と呼ばれ征伐の対象となります。この大和朝廷と日高見国の闘争から生まれたのが「ヤマトタケル伝説」であり、百済系一族坂上田村麻呂の「アテルイ(阿弖流為)討伐」であり、江戸時代まで続く征夷大将軍や鬼門封じの風習です。『日本は島国の単一民族国家で歴史上唯一外国からの侵略の元寇からも神風に守られた』などという話は古代史を無視した大河ドラマか歴史小説のような空想時代劇に過ぎません。

元寇を追い払った〝神風〟の正体は、北条政権の命により、大彦一族の末裔でアベ一族の安東水軍らによる海上ゲリラ戦の働きの賜物でした。時の政府や支配層に忖度した「隠された歴史」ではなく、埋もれた一次資料に光を当てた「真実の歴史」さえ正しく教えていれば、かの太平洋戦争においても将来ある多くの若者たちの尊い命が「神風特攻」などという官製の偽りの正義によって犠牲になることもなかったかもしれません。古代史とは墨絵のような単調な神話ではなく、大陸や半島から何度も渡来した異民族が入り乱れた、新旧部族の宗教戦争あり日本海貿易での文化交流ありといった躍動感あふれる生々しい天然色の歴史なのです。

隠された敗者の歴史を紐解くのに役立ちそうなもう一つの語り部に「家紋」があります。鎌倉時代の史書「愚管抄」によれば、家紋の起源は平安時代中期に白河天皇の外祖父が自分の牛車の目印に「巴紋」を使ったのが始まりだそうです。巴紋は太古の幸の神信仰に繋がる子孫繁栄の勾玉を縁起の良い三柱の神になぞらえて三つ並べたお目でたい家紋です。この家紋の風習はすぐにほかの貴族たちにも広がり、後の武家社会では戦の旗印などに用いられ定着しました。よって、桃山時代に秀吉が乱発した桐紋の亜種のような武家由来の家紋ではなく、中世の平安貴族御用達の家紋の血筋を辿れば、古代大和朝廷や出雲王国の神話の世界まで遡れる可能性があります。

武士ながら桓武天皇の高貴な血筋を引く東国武士の平将門の家紋は九曜紋でした。将門といえば朝廷に反旗を翻し西の天皇に対抗して東の新皇を名乗った〝まつろわぬ〟異端のもののふ。その次男の将国はのちに京都に上り陰陽師・安倍晴明として活躍したという説があります。権力に従わず民の人望厚く自ら新皇を名乗った将門や、一条天皇の生母の諒闇に自粛を破って年末行事の追儺を民衆のために私邸で断行した晴明の気性など、将門の血筋は物部徐福族に従わず出雲の血統を守り抜いたアベ一族の祖、大彦の気性に通じるものがあります。将門の次男がアベ姓を名乗り、出雲王家が拠り所としていた陰陽五行に通じる陰陽道を極めたというのが、将門の血統が古代出雲王家に繋がっていることの証左ではないでしょうか。

ちなみに九曜紋の九曜とは、インドの天文学や占星術で扱う9つの天体とそれらを神格化した神のことでこちらもインド由来。9つの天体とは木火土金水(陰陽五行)の五つの惑星に太陽と月を合わせた七曜にさらに羅睺(らごう) と 計都(けいと)という日食と月食を示す架空の天体を加えた9つですが、将門は北斗七星(七曜)の化身である妙見菩薩を信仰していました。また、支那では九曜は散開星団スバル(昴)(=プレアデス星団)のことで、昴は〝統(す)べる〟星という意味、つまり高貴な王家の象徴です。九曜紋の真ん中の一番大きな丸は出雲王家が遥拝した朝日信仰の太陽。大彦も将門も晴明もその血統を遡れば、大宇宙に繋がる高貴な王だったのかもしれません。

アナトリア半島中央部を表す古い表現「ハッティの地」に居住していた先住民族がハッティ人。彼らは周辺民族とは系統の違う独自の言語「膠着語」を話し、豊穣と大地の神である地母神を祀りました。膠着語とは単語に助詞や助動詞などを付着させその単語の文法関係を形成する言語で、トルコ語、フィンランド語、ハンガリー語、ウィグル語、タミル語、ドラヴィダ語、ツングース語、朝鮮語、そして日本語がこれにあたります。ハッティ人たちが鉄の民の騎馬民族(ヒッタイト)と融合してユーラシア大陸を東へ駆け抜け、地母神信仰と鉄器と騎馬を携えて日本に至ったことが、膠着語の伝播の痕跡としてユーラシア大陸にしっかりと刻まれているのです。

※(左)トルコ アンカラのアナトリア文明博物館所蔵の「地母神像」 (中)長野県茅野市出土の「縄文のヴィーナス像」 (右)アラハバキ信仰の「土女神像」(出雲の旧家ではこの土女神像はアベ族が作ったと伝わる)

フィンランドなど膠着語を話す北欧民族の衣装に見られるエスニック、フォークロアの柄は極東アイヌの民族衣装にも見られます。また、北欧のタトゥー文化は世界各地の原住民族やアイヌにも見られる文化です。民族が混淆したあとの江戸時代の文化では入れ墨は犯罪者への刻印として使われましたが、日本人のルーツである縄文人たちは誇り高い民族の証として顔や身体以外にも縄文土器や土偶の紋様にタトゥーを刻みました。タトゥー文化もまた勝者と敗者の物語りの語り部になるかもしれません。

日本列島固有の民族や、狭い島国限定の神話や歴史などないのです。そこにあるのは世界の海やユーラシア大陸を縦横に駆け巡った多種多様な民族が玉石混淆したダイバーシティの物語なのです。勝者の歴史の陰に隠された〝まつろわぬ民族〟の真相に迫り日本民族の真のルーツを知るためには、これまで我々が洗脳されてきた既存の限定的な日本史の価値観や先入観を手放し、まっさらな目で世界の古代史を俯瞰する必要がありそうです…


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