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チームメイトのお陰で優勝投手に……(鳴門高校OB 藤中壮太インタビュー)

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直近の実績のある鳴門高校へ

――野球を始めたきっかけについて教えてください
 野球を始めたのは小学2年生の時でした。父が非常に野球好きで、家族が元々阪神タイガースのファンだったこともあり、小さい時から甲子園球場に何度も足を運んでいました。その影響もあり、近所の野球チームがあったこともあり、自分から「野球がしたい」と親に伝えたのがきっかけです。

――鳴門高校への進学を決めた理由を教えてください
 私が鳴門を選んだのは、県内で直近10年の成績を見ると甲子園に出ているのは鳴門がほとんどで、個人の目標が甲子園に出場することだったので、甲子園に一番近いのは鳴門ではないかと思いました。
 実家は鳴門高校から離れていたのですが、両親や祖父母に話を通した結果、鳴門高校に進学することを決めました。

冬場はハードなメニューで鍛え、夏こそ甲子園に

――甲子園を目標としていた当時の練習に対する思いなどを教えてください
 入学してすぐの夏の大会で甲子園を決めて、その翌年も1個上の先輩たちに甲子園に連れて行ってもらって、自分自身もレギュラーという形で試合に出ていました。1回戦では思うような結果が出ましたが、2回戦では思うような結果が残せませんでした。
 その年から同級生が4人くらい試合に出ていて、いざ自分たちの代になった時に、試合に出ていたメンバーは甲子園に忘れてきたものがあるし、ベンチを外れた同級生たちは「自分たちも甲子園に出たい」という思いが強かったので、甲子園だけを目標にしてやっていました。
 鳴門の練習はランニングとかも多く、結構キツい量でした。それでもその練習を乗り越えられたのは、仲間の存在と、どうしても甲子園に行かなければならないという思いがあったからでした。徳島県では鳴門高校が先陣を切っていかないという思いがあったので、どれだけキツい練習があっても、甲子園のために皆で支え合いながら乗り越えてきました。

――当時の印象的なエピソードなどがあれば教えてください 
 鳴門高校の普段の練習では守備をあまりするイメージがなくて、主にバッティング、実戦形式で守備をするという練習をしていました。
 しかし選抜出場を逃し、どうしても夏に甲子園に行かなければならないということで、冬はハードな練習でした。月曜日は自主練ということでそこまでハードではなかったのですが、火曜日は300メートル走のタイムを計測して、60秒を切るということを10本やっていました。しかも前半の5本は、足と手にそれぞれ1kgのアンクルを付けて走っていました。水曜日はポリタンクに20kgの水を入れて、それを両手で抱えて200メートル走で35秒切るというメニューを12本やっていました。
 木曜日は300メートルシャトルランといって、10,20,30,40,50メートルの箇所にコーンを置いて、50メートルのコーンまで行って戻ってくる、40メートルのコーンまで行って戻ってくる、次は30メートル……というメニューを12本やっていました。前半の6本は両手両足にアンクルを付けてやっていました。
 金曜日は100メートルインターバルというものをやっていて、100メートルを14秒で走って、46秒ジョグで帰ってくるというメニューを2,30本やっていました。
 平日のメニュー内容だけでもキツいのですが、土曜日は鳴門市にある妙見神社までの道のり2,3キロを走っていって、急角度の階段でダッシュ10本。更に距離を変えたり、平坦な場所でダッシュをして、グラウンドまで再び走って帰るという内容でした。
 日曜日は近くの海まで2,3キロ走っていって、2時間くらい砂浜でひたすらダッシュとランジなどの補強をして、へとへとになりながらまた2,3キロを走って帰りました。その時も両手両足にはアンクルを付けていて、片道30分で帰ってこいと言われていました。
 冬はそんな感じで本当にキツかったです。

祖父からの反対もあった鳴門進学

――学校とご実家が離れているというお話がありましたが、寮生活でしたか?
 鳴門は寮がないので、家を借りて下宿というような形でした。僕の場合は親が1日1日来てくれて、支えてもらいました。中にはもちろん一人暮らしをしていたメンバーや、実家から通うメンバーもいました。

――下宿生活で印象に残っていることはありますか?
 僕の場合は親がしっかりしていて、地元から鳴門まで下道で2時間くらい離れているのですが、「そこに行く覚悟があるのなら、練習がどれだけキツくても洗濯はしっかりする。飯は作っておくけど、食器や弁当箱は洗う」というようなことは言われていたので、練習がキツくてもそういったことはしっかりやっていました。
 また僕の場合は帰ってくると親が寝ていて話すことがなかったので、僕と親父でコミュニケーションを取るためにノートを使っていました。「今日はこういう練習をして、こういうところがアカンかった」「こういうところは昨日に比べたら良かった」ということをノートに書いて、親父もノートにコメントを残してから仕事に行ったりということをしていました。親父は朝が早く、夜は僕が遅いので、コミュニケーションをとるためにそういったことをしていたのが印象的でした。

――おじい様が池田高校の4番打者だったということですが、おじい様とのエピソードなどあれば教えてください
 今でもよく覚えている出来事があります。じいちゃんは有名な蔦監督のもとで池田高校が甲子園に初出場した時の4番で、甲子園でも活躍していました。じいちゃんとしては池田高校に行ってほしい思いがあったらしく、地元にも近かったということもあり、最初は少しだけ池田高校に行こうかという思いもよぎりました。ただ真剣に考えるうちに、池田高校では甲子園に行くのが少し難しいかもしれないという考えになりました。
 そこでじいちゃんに「鳴門に行きたい」と伝えました。伝えたところ、まぁ反対されましたね。寮がないということも知っていて、下宿からしないといけないし、何事も一人でしないといけない。それに加えて厳しい練習があり、親元を離れているから頼ることもできないということを言われました。
 じいちゃんは生活面で「実家じゃなかったらキツいところもあるぞ」と最初は反対していたのですが、僕も何度かじいちゃんの家に通って自分の気持ちを伝えたところ、「じゃあ行ってこい」と応援してくれました。じいちゃんが甲子園に出た時にタイムリーを打っていたので、「それを超えられるように頑張る」と約束して鳴門に進みました。
 最終的には同意してくれましたが、反対を押し切って甲子園に出て、2年生の夏に満塁のチャンスで走者一掃の二塁打を打ってじいちゃんを超えられたと思います。あの出来事があったから、今では「鳴門に行って良かったな」と言ってくれますが、当時は反対されていましたね。

今後のプレーや結果を生み出すのは自分自身

――甲子園中止の第一報を知った時はどういった感情でしたか?
 鳴門高校の場合は休校していて、各々が実家で自主トレをしていました。5月20日に全てが決まるということは知っていて、中止が決まった時は、野球部のグループLINEでキャプテンが「中止が決まったな」と送っていたことを覚えています。
 落ち込んだことは落ち込んだのですが、県の独自大会が開催されるんじゃないかということは頭にあったので、だったら笑って終わろうという話になりました。甲子園がなくなったところで自分たちのすることに変わりはないし、することをちゃんとして最後に笑って皆で終わろうという意見でまとまりました。
 泣き崩れたり、甲子園がないから野球はもういいというメンバーは一人もいなくて、県の優勝という目標を新たに掲げたので、非常に落ち込んだということはありませんでした。

――そういった中での監督の言葉で印象に残っている言葉はありますか?
 6月に練習が再開し、8月に独自大会が開催されるということになって、「これまでの過程がそこでのプレーに出るぞ」ということを仰っていました。その言葉に部員全員が納得して、「甲子園中止が決まったからって野球を辞めたやつは、試合に出たとしても絶対にどこかでミスをするし、どこかでそういう性格が出る」ということを言っていて、最後に「今後のプレーや結果を生み出すのは自分やぞ」と言っていたのは覚えています。

「カバーし返すぞ!」と言ってくれた仲間たち

――先程のお話しにもありましたが、各都道府県で独自大会開催の動きが進み、徳島県でも開催されると聞いたときの心境を教えてください
 自分自身は夏の大会から初めてピッチャーをするという話になっていたのですが、個人の話をするなら「僕が全部投げ切って、優勝する」という感情でした。チーム全体としては、「優勝して最後に笑って終わろう」ということを言っていました。甲子園がないことを悲しめるのは優勝校だけという考えがチームであったので、「その優勝校になって、甲子園がないことを一番悲しもうじゃないか、そして笑って終わろうじゃないか」ということを話し合いました。

――独自大会計5試合の中で印象に残っている試合はありますか?
 キャプテンのくじ運も悪かったので、準々決勝からの3試合が僕の中ではイメージに残っています。
 僕らの代は優勝候補に挙げられていたのは鳴門ではなく、鳴門渦潮や生光学園でした。準々決勝で鳴門渦潮、準決勝で生光学園と対戦しました。結果としては僕が2試合連続で完封できたのですが、絶対に勝ちたいという気持ちで守備や打撃で援護してくれたので、その2試合で優勝候補を倒せたのは嬉しかったです。

 チームとしては絶対に決勝だと思うのですが、決勝戦は僕が結構打たれてしまって、9回が始まる時点で3-6で徳島商業に負けていました。負けている中でも、キャプテンが笑ってプレーしようと言っていて、雰囲気良くやっていたら9回表に4点取って逆転することができました。優勝まであとアウト3つということでしたが、その試合は僕が7回で降板していて、8回はリリーフに託してサードに回っていました。ただ逆転した後に監督が「最終回、お前で行くぞ」と言ってくれて、もう一回肩を作り直して、皆のお陰で優勝投手になることができました。
 あの試合は正直僕のせいで負けると思っていたので、「決勝まで上がって、俺のせいで負けてしまうんだ」と思っていました。ただキャプテンを筆頭に、「今まで藤中が助けてくれたんだから、カバーし返すぞ!」と叫んでくれたのを結構覚えていて、それで4点取って負けを消してくれた上で優勝投手にしてくれたというのが嬉しかったし、チームとしても凄い試合だったと思います。

――決勝戦に勝利し、マウンドで優勝を迎えた瞬間はどういった心境でしたか?
 まずは、決勝の試合を通してチームメイトに「ありがとう」という言葉しか出てこなかったです。「逆転してくれてありがとう」と言うと共に泣いていました。マウンドに集まっていたときに皆泣いていて、泣きながら優勝を喜び合ったことは覚えています。

――昨年秋に甲子園で開催予定だった準硬式の東西日本一決定戦で藤中さんもメンバーに選ばれましたが、高校を卒業して大学生になって甲子園に行ったということについてはどうでしたか?
 めちゃくちゃ嬉しかったですね。まずそこに僕の名前を選んでくれたということに非常に感謝しましたし、試合は中止となってしまいましたが甲子園の試合での先発投手に選んでくださりました。そこに関しては、高校時代も大学に入ってからも何回も先発をしていますが、甲子園での先発は特別でした。
 もう足を踏み入れることはないと思っていた甲子園に大学生として出場し、ピッチャーという昔とは違う形で戻れることはめちゃくちゃ嬉しかったです。

全員が甲子園に行ったという記念を

――この「あの夏を取り戻せ」というプロジェクトについて聞いたときはどう思いましたか?
 親父がこのプロジェクトを見つけてくれて、参加条件を満たしているなということになって、即座に高校の時のグループに送りました。すると全員が行きたいと言ってくれて、キャプテンが「代表はできん」と言ったので、僕が変わり代表をして、参加することになりました。

――このプロジェクトでの目標について教えてください
 僕の代は甲子園に出ているのが4人くらいで、残りの10人くらいは出ていないのですが、最後の大会で優勝したにもかかわらず甲子園の土を踏めなかったということで、甲子園の土を踏んで、皆で写真を撮れたらと思います。全員で行ったという記念を残したいです。

――最後に応援してくださってる方々へ意気込みをお願いします
 この度、あの夏を取り戻せプロジェクトを企画してくれた方々には本当に感謝しています。そして、先日から開催されておりますクラウドファンディングで数多くの方から支えてもらっていることにも感謝しています。
 僕たち鳴門高校は甲子園に出場するために、日々苦しい練習にも耐えてきましたので、今回甲子園に出場できるかもしれないという希望を抱いて今も生活しております。出場した際には鳴門高校らしい元気ある、はつらつとしたプレーや姿で、支えてくれる皆様に「こういうプロジェクトがあってよかった」と思ってもらえるよう、姿と行動でお見せしますので、今後ともご声援、ご指導のほどよろしくお願いします。
 頑張ります!


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