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【選手で自分の機嫌を取る】行為が怖いと思った話

はじめに

先日、女子プロレスラーのジャングル叫女が、このようなツイートを残した。


「選手から『いいね』されたい」

そんな話は、1年前の今ぐらいの時期にも耳にした記憶がある。


ただ、今回そのような話が出た時に感じたのは、どこか、胸のすくような思いだった。

白状してしまうと、選手の反応で自分の機嫌を取ろうとしているようにしか見えない一部の人の行動に、私は心底うんざりしていたからである。


『自分の機嫌を第三者で取る』怖さ

『自分の機嫌は自分で取る』という言葉がある。

残念なことに、私はこれが出来ていない方だという自覚がある。


それでも、私の中ではやらないと決めていることがある。
"自分から安易に他者への通知が行くようツイートする"ことだ。
(写真のアカウントタグ付け、自分から選手関係者へのリプライetc)

正直、これは別に違反行為でも無い。
ただ、これを良いことに、距離感を見誤ったりする人をそれなりに見てきて怖かったので、私はやらないというだけである。


私自身、選手や関係者から反応を頂くことそのものを否定している訳ではない。
寧ろ、貰ったら非常に嬉しい気持ちになるものだ。
だから、これは【自戒】のニュアンスに近い。


ただ楽しいから写真を撮ったり、ただ楽しいからツイートしていたりすることも、目的の軸が相手の反応ありきになってしまう事は非常に怖い。

『いいね』や反応を貰いたいが為に、写真と相手のアカウントを紐付けて、わざわざ相手に通知が届く形でツイートするのがデフォルトになってしまうと、元の道には戻れない感覚がある。


例えば、noteや写真を投稿するにしても、選手のアカウント名を@マーク付でツイートすれば、きっと反応は伸びるし読まれもするだろう。
でも、これはドーピングのようなものだ。

私は、こういう行動を怖いと思うようになってしまった。
レスラーによって反応の有無は様々だし、何なら自分から通知が行くようツイートしなくてもハッシュタグや選手名で関係者がエゴサーチしてくれるし、それで偶然見つけていただけたならラッキーだろう。


選手に直接記事や写真を伝えたり、相手の威光を借りたりしてまで多くの人に見られたい・読まれたいという気持ちなんて、あまりにも烏滸がましくて、恥ずかしくて、そういう意気地も自信も私には無い。
「たまたま御本人に見ていただけたら嬉しいな」くらいなスタンスでいると、反応が貰えない静寂にも怯えずに済む。

そんなラッキーやファンサービスが、義務や強要、同意を伴うものになってしまえば、本質は見失われ、歪んでしまうだろう。


選手や関係者の反応を貰えないと、自分の評価軸が持てない。
選手や関係者の反応を、自分の評価軸に置いてしまう。

選手が反応してくれない事に怒り嘆き悲しむのは、自分の機嫌を第三者で取ろうとしている裏返しではないだろうか?


他者評価ありきで趣味を量ってしまう危うさ

こうした私の考えは、他人に対する【嫉妬】や【やっかみ】だと言ってしまえば、それまでなのかもしれない。
ただ、そうした選手関係者等に囚われすぎて距離感を失ってしまう様が、私にはどうにも怖さを感じてならないのだ。

選手からの『いいね』とか、選手に写真を使って欲しいとか、何もかもの評価や思いを他人軸に全振りしている、みたいな。
割とそれは、良い歳を重ねた人でも陥りがちな事のように思う。

そういう様を見ていて、時々私は距離感というものを考えさせられてしまう。
ただ単に、私自身「がっついてる人が怖い」と感じているだけなのかもしれないけれど…。


カメラで写真を撮っていても、そう。
選手本人のアカウントに写真の通知が行くようにツイートしてる人なんか、見ていてとても羨ましい。

ただ、選手からの反応に軸足を置きすぎてしまうと、自分自身の楽しい事より『いいね』の有無に振り回されたり、それで反応が貰えない事に悲しんだり、不必要な感情に支配されてしまう。


結局のところ、上記のような違和感は【距離感のバグ】に収斂していくのかもしれない。

有名人に対して気軽にメンションを飛ばせる時代ではあるが、そうした人の行動も、他者からは気軽に判断されてしまう時代でもある。
良くも悪くも、選手に認知されたいか否か、好きだからかなんて、行動と文体でそれとなく把握されてしまう実感が私にはある。


趣味は、自分が対象を好きだから続けられるものであって、他者評価に軸を移せば継続など儘ならない。
まさに、「好きこそものの上手なれ」である。


まとめ~ラッキーを当たり前に捉えてはいけない~

そもそも、選手から『いいね』だなんて、"そうそうラッキーな事象"だと私は考えている。

だからこそ、反応をいただいた時は嬉しいし、そうでなかったとしても落ち込んだり悩んだりはしない。
というより、落ち込むマインドにすらならない。

落ち込む理由は、相手に何かを期待している気持ちが、どこかにあるのだろうと私は考えているから。


なので、【好きなことを語っていたら、たまたま関係者から反応があった】というラッキーを、わざわざメンションを飛ばしてまで必死に取りに行く事に対して、私は何とも言えない違和感を覚えてしまうのだ。


ラッキーを当たり前にしてしまうと、いざラッキーが起こった時の有り難みまで、失われてしまうような気がしている。

ラッキーは、たまたま起きるからラッキーなのである。

最近、後楽園ホールの夜興行終わりに行った居酒屋。
たまたまなタイミングで入ったら美味しかった。
これも、ラッキー!

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