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『明日カノ』と『自由からの逃走』

 『明日カノ』の登場人物の一人である優愛は、窮屈な地元を嫌っていた。   
 彼女は言う。

この間遊びに行った東京では
この町ではありえないほどたくさんの人が居て
皆自由に生きているように見えた

番外編「Stairway to Heaven」より

 なぜ彼女の目には、東京人が「自由」に生きているように映ったのか。
 網野善彦は書いている。もし、「自由」に近い言葉を中世の日本語の中から探し出すとしたら、それは「無縁」ではないかと。

 東京人は、古臭い地縁や血縁から「無縁」であるがゆえに「自由」なのだ。
 網野が、『無縁・公界・楽』で描き出した職人や芸能民のように、おのれの努力と才能だけでうまく世渡りができる人にとっては、「自由(=無縁)」でいることほど良いこともないだろう。
 だが、平凡な一般人にとっては、やがて自由が牢獄のようなものに感じられてくるに違いない。

 東京に渡った優愛が、間もなくしてホストクラブにハマり込んでいくのも、「自由」の重圧に耐えかねた結果と捉えられないこともない。
 「キモいオヤジ」に体を売って得たお金を、すすんでホストに貢ぐ女性たちは、まさに現代の奴隷と形容するほかはないが、案外、奴隷でいる方が幸せなのかもしれない。——「自由」がもたらす永遠の孤独に耐えるよりは。

 『自由からの逃走』(E・フロム)という選択肢は、今や誰にとっても身近なものになった。ならばいっそのこと、多少不自由ではあるが、地縁や血縁が正常に機能していた江戸時代のような社会に回帰していくべきなのか?
 哲学者の内山節(『共同体の基礎理論』)をはじめ、実際にそういうことを主張する論者も存在するが、いささかなりとも歴史学を修めた身として反論させてもらう。それは不可能だ。

 歴史は繰り返さない。繰り返さないから歴史なのだ。

 だが、どれほどの困難があろうと、誰もが持続可能な幸福を掴める社会の創造が指向されなければならないのは事実だ。
 私もまた、布衣(ほい)の身でありながら、そういう社会を実現するにはどうすれば良いのかと、延々と答えの出ない問を自分の中で繰り返している。
 思い上がった言い方かもしれないが、それが、歴史学を学び、その上で実社会に飛び出した自分の使命だと信じている。

 もうこれ以上、優愛や、私に『明日カノ』を薦めてくれたあの子のように、本来ならそれなりの幸福に恵まれるべき人たちが、現代社会の「生きづらさ」に窒息し、破滅していくところなんか、見たくはない。

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