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伊勢遺跡はこんなに面白い!④

私が伊勢遺跡の存在を初めて知ったのは、2001(平成13)年12月です。
12月7日付けの新聞に「環状に大型建物、最古のれんがも 滋賀・伊勢遺跡」(朝日)との見出しが躍っていました。
この記事に興味を持った私は、翌2002(平成14)年の8月に、夏休みを利用して伊勢遺跡を訪ねました。
それから何度か現地を訪れ、さまざまな資料を集めているうちに、伊勢遺跡が邪馬台国ではないかと考えるようになりました。

しかし、その理屈を組み立てるため「ああでもない、こうでもない」と考えているうちに、大きな壁にぶつかりました。
邪馬台国とヤマト王権との関係が、従来の定説〈邪馬台国が発展・進化してヤマト王権に移行した〉では、どうしても解けなかったからです。
「古事記」や「日本書紀」に邪馬台国や卑弥呼の名前が載っていない理由や、神武東征をはじめとする日本神話が作り話であるという“学界の常識”についても、納得できる説明をしている人は見当たりませんでした。

そこで僭越ながら私なりに自分の頭で考えて、ひとつの答えを出しました。
《卑弥呼の時代の邪馬台国は、伊勢遺跡だった。
 纏向に遷ったのは、卑弥呼の死後のことである。
 そして邪馬台国とヤマト王権とは、実はつながっていない。
 むしろ逆で、邪馬台国は九州から来た磐余彦(神武天皇)によって平定さ  れた。
 つまり「神武東征」とはヤマト王権樹立につながる史実であると同時に、邪馬台国滅亡の事象でもある。》
という結論です。

この仮説を元にして、私は2003年8月にホームページを立ち上げました。
タイトルは「邪馬台国発見日記」です。(※現在は終了)
開始してすぐに様々な方からメッセージをいただくようになり、それに励まされて(調子に乗って)原稿用紙100枚ほどの「論考」をホームページ上で発表しました。
それにも一定の反響をいただいたことから、(さらに調子に乗って)書籍化することを思い立ち、伊勢遺跡のお膝元である滋賀県のサンライズ出版さんにご連絡したところ、ご快諾をいただきました。

そうして2010年2月に上梓したのが『邪馬台国近江説』↓です。

まったくの偶然ですが、同時期に同じタイトルの本を出された方もいて(内容はかなり異なっていますが)、そのことがさらに話題を呼ぶという幸運にも恵まれました。
おかげで私も滋賀県庁での記者会見をはじめ、新聞やテレビなどの取材を受け、また地元の青年会議所主催の講演に招かれるなどしました。

しかし――
自分では気づかなかったのですが、その頃すでに双極性障害を発症していたのです。
前妻との調停離婚と、それに伴うゴタゴタの影響もあり、心身に不調を来していた私は、当時携わっていた編集の現場を離れざるをえなくなりました。
その後も精神科通院・カウンセリング・自助グループ参加・障碍者三級認定……。

10年以上通院・リハビリを続け、現在の妻の支えのお陰で、近年ようやく精神的な安定も得られるようになりました。
そして昨年8月からは新しい仕事も始めました。紙媒体での経験を活かし、Webサイトの記事製作の進行管理をやらせていただいています。
すべてリモート作業なのがむしろ私には幸いして、1年経った今も順調に仕事を続けることができています。

noteを始めるきっかけも、妻の勧めがあったからです。
リハビリも兼ねて、昨年からこれまでやってきたことの整理のつもりでnoteに綴ってきました。
しかし前著の出版時には気づかなかった事実や、新たな情報に接するうちに、邪馬台国探求の情熱はまだ尽きていないと思うようになりました。
その意味で、今書いているのは「邪馬台国伊勢遺跡説 2.0」(またの名を「シン・ヤマタイコク」w)です。
(※前著のタイトルでは畿内説のひとつと思われがちなので、今後はストレートに「邪馬台国伊勢遺跡説」と言い続けます)
〈邪馬台国発見!〉への道のりはまだ遠そうですが、一人でも多くの方に関心を持っていただき、一緒に考えていただければ幸いです。

――最後のほうは伊勢遺跡からだいぶズレてしまいました……。
ともあれ、最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!
そして、今後とも(気晴らしで書いている小説も含め)、どうぞよろしくお願いいたします。 
                          (この章終わり)


★見出しの写真は、みんなのフォトギャラリーから、motokidsさんの作品を使わせていただきました。ありがとうございます。







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