見出し画像

【主婦勉!】江戸の鬼門・裏鬼門について知りたい

前回日吉大社を調べた時に、
東京赤坂の日枝神社(日吉大社と同系列)が
江戸城の裏鬼門を守っているという
話を書いた。

一度この”江戸の鬼門・裏鬼門”について
真面目に調べてみたいと
常々思っていたので、
これを機にやってみようと思う。
ほぼ寺の話になると思うので、
神社と関係なくてすみません。
江戸の鬼門・裏鬼門に加え、
徳川家の信心、天海なども一緒に
まとめられたらと思っている。

そもそもだけれど、
日吉大社、がかつて守護していた
天台宗比叡山延暦寺、は、
京の都から見て鬼門方向に建っていて、

日吉大社、延暦寺ともに、
京都の鬼門を守る社寺として
位置づけられていた。

そして時は流れて、
徳川家康が本格的に江戸の町を作ることになり、
そこで町づくりの宗教的ブレーンとして
活躍(暗躍?)したのが謎多き天台宗の僧、
南光坊天海である。
そしてその彼が参考にした...というか、
もはやまんま真似た?のが
この比叡山である。

南光坊天海とは

天海の前半生ははっきりしていない。
どこかのタイミングで延暦寺で修行し、
天台宗を(たぶん)極めて、
その後武田信玄の側にいたりなんだりを経て、
今の川越にある通称”川越大師”で
天海と名乗りはじめたらしい。
※諸説あります。

で、このあたりからどうやら
家康と接触し、
用いられはじめたというのが
定説のようだ。
徳川家康が豊臣家を滅ぼした大阪の陣、
が始まるきっかけとなった、
あの有名な「方広寺鐘銘事件」、

「鐘に”国家安康”って書いてるけど、
これ家康の名前引き裂いてるよね!?
これ、わざとでしょ!?
家康滅びちまえって思ってんだよね!?」って
豊臣方に超絶めんどくさい難癖つけて
まんまと戦に持ち込んで豊臣家を滅ぼした
あの事件も、天海の入れ知恵だと言われてます。
※諸説あります。
ちなみに方広寺も天台宗のお寺です。

で、この後
家康の命により天海は
日光山(輪王寺)の貫主になるんだが、
なぜ家康は日光にこだわったのか。
日光は日光でまた説明しないといけない。

日光について

日光はもともと、
日光の山々を信仰する
山岳信仰、修験道の霊場だったそうだ。

”日光山の開祖”とされている
勝道上人という僧が、
四本竜寺(今の輪王寺)や、
二荒山神社の建立に関わったと
言われているらしい。
僧が神社?ってなるけれど、
恐らくこの時代は神仏習合していたと思うので、
そういうこともあるんでしょう。
(あまり本題と関係ないので適当です。
すみません!)

「日光」という地名は、
男体山の古称「二荒山」の「フタラ」を
「ニコウ」と読んで「日光」という字を
当てた、という説が有力なんだそうだ。

ちなみに「二荒山」という名前についてだが、
奈良時代あたりでは、二荒山は
観音菩薩のお住まいと言われている、
補陀落(ふだらく)観音浄土とされていて、
「補陀落山」と呼ばれていたらしい。

ふだらくさん→ふたらくさん
→ふたらっさん、ふたらさん。二荒山。
完成です。
さらにこれを音読して
ニッコーさん→日光山。
完全に完成です。おめでとうございます。

全然知らなかったので
由来を聞いてちょっと感動している。笑
これも諸説ある話だとは思うけれども。

そんなわけで、
もともと日光には輪王寺と二荒山神社が
あった訳だけれど、
平安時代に、円仁という
天台宗の高僧がやってきて
法華堂やら三仏堂やらを創建したことで、
輪王寺は天台宗寺院となっていったそうだ。
って、それまで違ってたの?
って話なんだけどまたややこしくなるので
今回はスルーします。

で時代は変わって江戸時代、
1613年に家康の命により、
天海はここ輪王寺の貫主になり、
秀吉時代に、秀吉の制裁というか、
いやがらせ?で、一時衰退していた輪王寺を
再興させることになる。

天海が輪王寺の貫主になった3年後に
家康は亡くなるのだが、
家康はまず今の静岡にある
久能山に自分を埋葬し、
1年経ったら日光に勧請せよ、
という遺言をのこした。

勧請せよってことは、
自分の霊魂を日光で祀れよってことかな?
なので、実際亡くなった後、
久能山東照宮に埋葬されて、
1年経ったのちに日光に勧請された。
この時ご遺体も一緒に日光に移ったかどうかは
定かではないようだ。

これをもって、もともと日光にあった
輪王寺、二荒山神社に
日光東照宮が加わり、
現在の日光二社一寺が完成する。
この時はまだ簡素な建物だったが、
おじいちゃん(家康)大好き!
な、3代家光によって、
今のような絢爛豪華な造りに
生まれ変わったそうだ。

日光は江戸から見ると真北の方角にあり、
その真北に輝く不動の星である北極星は
古くから(特に中国において)
”宇宙を主宰する神”とされていたそうだ。

ちなみに久能山東照宮の
北東約50km先には富士山があり、
更にその富士山を経由した直線上にあるのが、
日光東照宮である。
久能山東照宮では、北東に向かって
参拝する形になるそうなので、
ひいては東照宮に頭を垂れているのと
同じことになるらしい。すげー

そしてこの
久能山東照宮―富士山からその先を行く
ラインと、
江戸から真北に伸ばした2つのラインが
交差する場所に日光東照宮があるんだそうだ。
(下の図ご参照)


画像1

そしてこの日光という
スーパースピリチュアルスポットで、
家康は”東照大権現”
(東=江戸、を照らす神)となったのだ。

大権現ということは、
ざっくりいうと
仏や菩薩が仮の姿で現れた状態で
家康=東照大権現の本地仏(本当の姿)は
薬師如来だそうです。
本地仏とか仮の姿とかについては
神仏習合的な話で、
ここで説明するには長すぎるので、
わからない場合はすっ飛ばしで無問題!

でも、あれ?
家康=薬師如来なの?
日光=補陀落って、
観音菩薩じゃなかったの?
っていう謎がまたここでも出てくるっていうね。
薬師如来は東方浄瑠璃浄土の仏だから、
東方=江戸ってことでそうなったのかな。
ああ、もうほんと神仏習合わかんない!

いやー、しかし
地図もロクにないこんな時代に、
どうやってこういうの作ってくんだろうね。
ほんとすごい。もはや怖い。
神の手だよもう。

って、江戸の鬼門の話じゃなくなってる!

という訳で話をもどすと、
江戸の町設計を(たぶん風水的な面で)任された
天海は、まず鬼門を抑えることにした。

江戸の鬼門

京の都の鬼門には比叡山延暦寺がある。
なので、江戸の鬼門には、
”東の比叡山”となるべく
東叡山寛永寺を建立。
宗派はもちろん天台宗。
今の上野の東京国立博物館の近くですね。

今もそこそこ大きいお寺だけれど、
かつては今の上野の不忍池あたりも
全て寛永寺の敷地で、
不忍池はそれこそ、
比叡山における琵琶湖に見立てられていて、
琵琶湖にある竹生島になぞらえて、
弁天島が築かれたりした。

鬼門があるということは
裏鬼門も当然ある訳で、
それが三田の増上寺だ。
もとは今の紀尾井町あたりにあった
光明寺が前身だという。

増上寺はしかし天台宗ではない。
ここは浄土宗だ。
ご本尊は阿弥陀仏。

徳川家、というより松平家は、
家康よりもずっと前の
三河の地方武士だった頃から
浄土宗を篤く信仰していたそうで、
家康の位牌が納められている
愛知県岡崎市にある大樹寺は、
家康の先祖が創建に関わっているそうだ。

で、町をつくるために江戸にやってきた家康が、
たまたま増上寺の上人と対面したことが
きっかけで、
ここが徳川家の菩提寺になったそうだ。
あと増上寺の基礎を作ったとされる僧の弟子に、
家康の祖先がいたとかもあったようで
まぁ何らかそういうつながりも
あったってことなんでしょう。

ちなみにこの寛永寺と増上寺には
歴代徳川将軍のお墓があります。
といっても全員ではなく、
家康と3代家光は日光に、
最後の将軍慶喜のは谷中霊園にあります。

増上寺に埋葬されている
将軍家のお墓は戦後全部発掘されていて、
この時発掘されたご遺体や遺品は
学術調査され、その調査結果は
報告論文集として本になっている。
タイトルは
『増上寺 徳川将軍墓とその遺品・遺体』。

めちゃデカい&かなり専門的な本なので、
ご興味ある方は
図書館などで見るのがベストかと。
掘り起こされた将軍の
ご遺体や骨の写真なんかもたくさんあって
普通に圧倒されます。
私も何度かこれ見に図書館行きました。

で、鬼門・裏鬼門のもう1セットが
浅草寺&日枝神社。
日枝神社については前回説明した通りだが、
もう一つが浅草寺。

浅草寺

浅草寺が家康と関わりがあったなんて、
全然知らなかった。
”いつ行ってもおみくじで凶しか出ない寺”だと
思っていた笑

今は聖観音宗の本山だそうだが、
戦前までは天台宗の寺だったそうだ。
そんな訳で、
家康が江戸にやってきた頃は
天海の進言もあったようで、
幕府の祈願所として篤く保護されたという。

5代綱吉の時には、
浅草寺の別当だった上人が
いろいろやらかしたかなんかで、
退寺という憂き目に遭い、
それ以来浅草寺は
寛永寺の支配下に組み込まれたらしい。

この鬼門・裏鬼門ラインには、
他に神田明神とかもあって、
まぁとにかく江戸に鬼が入らないように
がっちがちに固めたんだなということが
よくわかる。

天海=明智光秀説

ちなみにこんな最強風水都市を作った天海、
前の大河『麒麟が来る』の最終回でも
ちょっと話題になりましたが、
実は明智光秀なんじゃないか説があります。

その界隈の学者たちには普通に否定されてるし、
まぁたぶん違うんでしょうけれど、
一応理由としては、
・日光に”明智平”という場所がある
・3代家光の乳母、あの春日局は
 光秀の重臣の子である
・4代家綱の乳母もまた、
 光秀の重臣の孫が採用されている
・天海の墓所が、光秀の居城があった、
 近江坂本にあること
などなどいろいろあって、
あの”かごめかごめ”も、
実は光秀のことをうたってるんじゃないか
という説もあったりする。

私は『麒麟が来る』で描かれていたように、
光秀と家康には何かしらの仲間意識的関係が
あったんじゃないかと思っているし、
小栗栖で殺されたとされる光秀は
実は生存してた説も
あり得るだろうなと思っているので、
光秀が秀吉の死の前後で家康とまた再開し
ブレーンとして活躍したって話は
あってもおかしくないというか、
むしろあってほしいくらいに思っている。

寛永寺と増上寺のその後

ちなみに寛永寺は幕末、
上野戦争の舞台となり、
存亡の危機に陥っている。

大政奉還、王政復古の大号令を経て、
鳥羽伏見の戦いの時に
大阪城を抜け出して江戸に戻ってきた
徳川慶喜(15代将軍)は、
新政府から自分に対する
追討令が出されたことを知り、
恭順することを決め、
江戸城の無血開城を勝海舟に任せ
寛永寺で謹慎するにいたる。
※ざーっくり歴史ですみません。

寛永寺には、"彰義隊"と呼ばれる
有志の幕臣達が集まって
慶喜を警護していたが、
その後慶喜が水戸に移ることになり、
彰義隊は寛永寺に残ってしまった。
そこに新政府軍がやってきて
彰義隊と衝突したのが上野戦争だ。
戦いは半日で決したという。
(もちろん新政府軍の勝利。)

その時寛永寺のほとんどの伽藍は焼け落ち、
領地は没収。のちに大部分が上野公園になった。
また数年後に寛永寺に戻ってきた領地は
最盛期の時の1/10ほどだったという。

一方増上寺の方も明治以降規模が縮小し、
その大半は芝公園となった。
徳川家の豪華な霊廟は残ったが、
それも太平洋戦争の空襲によってほぼ焼け落ち、
しばらくはそのまま放置されていたらしい。

それが今の形になったのが、
前回の東京オリンピックの時。
海外からくるたくさんの人を泊める
宿泊施設が必要になり、
寺の隣に
プリンスホテルが建てられることになった。

それをきっかけに
増上寺の土地が整備されることになり
その際にお墓の発掘調査も行われて
ご遺体はすべて火葬され、
今の形に改葬したんだそうだ。
(それがさっきの話です)

という訳で長くなってしまったけれど、
江戸の鬼門・裏鬼門にまつわる
エトセトラでしたー。

※いろいろ全部諸説あると思います。
※あくまで何者でもない素人主婦の
ちょい調べですので、
間違っているところもあると思います。
ざっとこんな感じかな程度でお楽しみください。


この記事が参加している募集

最近の学び