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【ショートショート】銀座の泡

   僕は決めた。ピアノの先生を恋人にしようと。先生が車の免許を取得したというので、その合格祝いという建て前で、食事デートに誘った。
  銀座のど真ん中、シャネルビルの最上階に君臨するミシュラン星付きフレンチレストラン。シャネルと言えば、作曲家・ストラヴィンスキーの恋人として有名だ。そう、験担ぎも兼ねて、今日の成功を祈るのだ!
 店に1時間も早く着いてしまった。頭の中は何を話そうかの回路で一杯、風景は目に入らず、辺りを行ったり来たり時間を潰した。


 いざ出陣じゃ。流石、ミシュラン。ウエィターはエレガントに僕を待合室へ誘った。
「食前シャンパンはいかがなさいますか」
 何て気が利いているのだろう。僕のソワソワした目つきで悟ったのか、彼女の到着前にシャンパンで胸騒ぎを取り除いてくれようとしているのだ。トゥルルル…。グラスに注ぎ込まれたシャンパンからきめ細やかなペルルが立ち上がり、ペルルはすぐに僕の頬っぺをリンゴのように赤く染めた。
 間もなく、彼女が少し緊張ともはにかみとも区別がつかない面持ちで現れた。春を感じさせる桜色のスカート姿は優艶、恍惚として、心の中ではよだれが出た。
「車の免許取得、おめでとうございます!」
「ありがとうございます。実はその後しばらく名古屋に行ってました」
「名古屋? コンサート出演ですか?」 
「あっ、いや…。婚約しまして彼が名古屋におり、その引越しの準備です…」
 シュワワワワ…下賤のバブが、シャンパンで満たされた高貴なお風呂にダイビング、一瞬の化学反応で個体としての生命を失った。   
 しかしそれはないじゃろ…。まさかただの食事目当てで来たんか?ちばけるな。腹の中のラタトゥイユは激怒で煮え繰り返った。
 プレゼントとして用意したルキアのピンクゴールド色の時計、デザートプレートの「おめでとう」の書き込み、全て水の泡となった。お会計23万円也。でーれーたけーな。
 帰りの丸の内線の車内で景色の見えない真っ黒な窓の外をぽかんと見つめていた。

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