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小さな勇気をつくっていく ーー東畑開人さんのツイートから、勇気を出すためのコツを考えた




この文章を書き始めた理由 ーー心を守るための理論と、勇気をだして挑戦するための理論



私が今回この文章を書きだしたのは、東畑開人先生がXにて「勇気」について様々な古き良き知恵を共有されていたこと、そして、ほかならぬ私が今
勇気を出して物事にチャレンジし続けることについて個人的な悩みを持っていたからだ。

私は、個人的に東畑さんの本を愛読させていただいていた。

特に『なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない』については、心がすり減った時に良く読み返していた。

しかし、以前より自分が人生を進めていく中で、『なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない』は、あくまでその中心は液状化し、人々が自由と引き換えに孤立する社会の中で心はどこに行ったのか、自由な世界の中で人がどのようなつながりをみつけ、心を守り/時にぶつかっていくか、その人間らしさを見つめた一冊だった。

この一冊は、これまで読んできた心理学の本の中でも、傷つくこと/モヤモヤすることが、時には人との繋がりを作ることを唱えている。心の守り方は複数あり、その中には自分を傷つけることもあるが、人が人と成長するための大事な傷つきもあることを説く。

いやなことがあった時に「それをシャットアウトすべし」という考え方も多く広まる世の中にあって、この考え方は私にとって大きな発見だった。


一方で、個人的な課題も残っていた。
現実において、勝負ごとやリスクのある事に手を出す時、どのように
メンタルを持っていけばいいのか私にはまだうまく理論が作れていなかった。
私は昔より、どちらかというと慎重派で、本をよく読んだり歌を歌っていると「本を書かないんですか?」とか「歌ってみたをださないんですか?」と聞かれることが多かった。そして、それらのことを勇気が出ずに断ってしまうことが多かったように思える。
そうした行動は、確かに安全策として身を守ることができたが、一方で自分を大きく成長させる機会を自ら失っていた。

加えて、理論的な問題点としていわゆる「熟達論」と東畑さんの心理学の接続をどのように行えばいいかわからないことだった。
ここでいう熟達論とは、為末大『熟達論』、読書猿『独学大全』、ジョッシュ・ウェイツキン『習得への情熱―チェスから武術へ―』のような本のことである。
これらの本は、人がどのように学び、物事に習熟していくかにフォーカスを当てており、その中でも名著中の名著である。しかし、これらの本には①いかに休むか②技法を習熟する中で、自らの心とどう対話していくか、どう他者の手を借りるか と言った点がなかったため、私はまだ勇気をもってこれらの技法にどっぷりつかり、他者に歌などの技芸を披露する勇気を持てていなかった。これらの本は人に頼るケアと自立を促すセラピーでいう、セラピー側の極致の本だったのだ。

その時に、東畑先生がXで投稿されていた勇気に関する論考が、きっかけになって、こうした「勇気」の出し方について私自身も考えてみたいと思った。
心を守るための理論と、心を奮い立たせて挑戦するための理論。
この二つはどう両立させることができるだろうか。


課題点2つ

①いわゆる根性主義とどう折り合いをつけるか


まず、「勇気」に関する事項で気になるのは、根性主義との兼ね合いである。
大乱闘スマッシュブラザーズのプロデューサーとして有名な桜井政博氏は、仕事の姿勢として、何故かやる気が出ない時も「とりあえずやる」姿勢を重要視している。これは、読書猿『独学大全』では「2ミニッツスターター」でも紹介されているように、とりあえず課題を着手することで人間はやめられなくなるという効果を狙ったものであると思われる。

この理屈はわかるとして、もう一つ私には気になることがある。それはYouTubeの動画を2年前にすべて取り終わっていた桜井さんを含め、トップに立つ人たちがなぜそこまでのバイタリティをもって作業を進めることができるのかである。私の身辺にも1日に何十ページも書く漫画家のように、一見無茶な日程の作業を当たり前の顔してやる人が、いわゆる「天才」と呼ばれているパターンを何回か見てきた。これをひとえに人に強要すると、ただのスパルタになってしまうだろう。

こうした、毎日ゾーンに入っているような状態に入るためには「勇気」という言葉で、東畑さんが言われている行動力を毎日継続できるようになる必要がある。
そしてその環境構築は、桜井さんが言われているような「とりあえずやれ」の言葉だけでは足りないように直感している。

②人間関係の中の勇気 ーー人を傷つけるのが怖い


不幸で居続けることは怠慢だし、幸せになろうとしないのは卑怯だよ

化物語・斧乃木余接

やって後悔する方がいいなんてことを言うのは「やってしまった後悔」の味を知らない、第三者の台詞だ。だけど、一番いいのは、やって後悔しないことだ。

化物語・神原駿河


物事を習熟する中で私が悩んでいたのが、何かを習熟する過程で人を傷つけることがありえることだ。
引用した二つの文章は化物語でも強烈な印象を持つ言葉である。
これらの言葉は、キャラクターの勇敢さを体現する言葉であると同時に、
現実で使うと、特に気持ちが落ちている人に対しては致命傷を与える可能性がある。

こうした言葉は、個人が自分を奮い立たせるために使うのは良い。
一方で、私自身がこうした言葉に従って行動したときに、人を傷つけてしまったことがあり、それがどこか自分の能力を作っていく足かせになっていた。

「勇気」を出すときの、ある種の「無判断性」が人を傷つけていないか。
そういう風な怯えがこの数年の私にはまとわりついていた。
しかし、すべての人に伝わる言葉はないから、勇気は有効なのである。



今考えた答え

(1)身体感覚と過程を無視しない

勇気と蛮勇を隔てるものは、実際の問題を分析する以外には
上手く説明ができないだろう。ただひとつポイントと思われるのは、
身体感覚を無視しないことである。

違和感がある物事、直感的にやってよいかわからない事項が混ざっている
場合、その感覚は違和感として現れる場合が多いだろう。

結果的に、思い切って行動を起こす場合でも、その違和感自体は頭の中に
残して物事を始めるのが肝要だと、まずは主観的に私には思われた。また、当然体調を崩している状態で、ずっと勇気を出さなくていけない状態はあまりよくない。


(2)勇気を出せる環境を整える

斎藤環『イルカと否定神学――対話ごときでなぜ回復が起こるのか』では、オープンダイアローグという対話を行うことで、治療を意図しない形で会話をしてなぜ精神病が治るのかを説明している。
このオープンダイアローグでは以下の7つの視点が大事とされている。

(1):即時対応
(2):社会的ネットワークの視点をもつ
(3):柔軟性と機動性
(4):責任
(5):心理的連続性
(6):不確実性に耐える
(7):対話

この文章で考えているのは、日常における勇気である。ただ、オープンダイアローグの説明を見ていると、安心して本音を喋れる場所や、雑談でしょうもないことまで話を交わすことができる仲間の重要性を感じてきた。

前述の桜井さんや絵描きの方の場合、当然作品を一人で作っているわけではない。人を「才能」で見る場合、人はその才能をその個人に宿るものと考えがちだが、それだけの物事を起こすための勇気は「周りの人の支え」という側面が無視できないほど大きいと感じた。

物事の初心者のころであれば、大乱闘スマッシュブラザーズほどのゲームを作ることも想像ができない。すれば、そんな無謀に挑もうとするときにも、少しずつ技量をためてそれだけのことをする勇気が出るのを待つ「待ち」の努力の時があるのかもしれない。



最後に 暴走をはじめてみよう

斎藤環は、オープンダイアローグは「なぜ」という言葉を使うのをやめ、直線的な因果性でものごとを考えるのをやめた時に始まるという。
しかも、それでも対話を続けることをできるのは「否定神学」(言葉が不完全だからこそ、人は対話できる)的な言語の性格が原因だと述べている。

そう、日常の対話の中にも、東畑さんが引用したティリッヒの「勇気」は
潜伏しているのだ。そうした小さな勇気を見つけたら、直線的に、論理的に考えるのではなく、ちょっと手放してノリで物事を考えてみるのがよいと思う。「ノリ」や「流れ」という言葉で語られるものほど神秘的なものはない。

勇気は少しの意地悪から始まる。
その意地悪を、理性でとどめないで続けてみることにこそ、
人間の人間らしさがあるように感じた。

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