見出し画像

東京生まれのアラサーが宮古島に移住して気づいた自分のすき。

宮古島に移住して1年ちょっと。半年ぶりに東京に帰省して気づいたことを赴くままに綴る。失ったからこそわかる自分のすき。


【1】四季がすき。

東京に帰省したのは3月中旬。ちょうど東京は三寒四温で、春を彩る花たちが少しずつ咲き始めていた。到着したときはつぼみだった桜が、発つ頃にはほぼ満開になって春の訪れを知らせていた。東京にいたら当たり前のこの光景がとても愛おしく感じた。宮古島は気温差はあれど基本季節は夏で、亜熱帯地域なので1年中南国のお花が咲いている。

季節は小さい頃から変わらずずっと夏が一番すきだったし、ずっと夏だったらいいのになんて東京に住んでいたときは思っていたけど、いざ常夏の場所に住んだら四季が恋しくなっていた。1年中、半袖短パンぎょさんで過ごせるのはストレスフリーだし、ハイビスカスやひまわり、プルメリアなど南国のお花がすきなのも変わらないのだけど、そよかぜにのって春の香りや雰囲気がひろがるこの感覚もすきだなあと。思えば、東京に住んでいる時は無意識に、春は桜をみにお花見に、夏はひまわり畑に、秋はいちょう並木に、冬は雪山を滑りに、季節のものを味わうために出かける場所を決めていたことに気づく。

夏が好きだと思うのはきっと他の季節があるからだ。おわってしまうからこそ尊くて、おわらないでだいすきな季節あと少しだけ。なんて毎年思うことがすきを加速させているのかもしれない。次は金木犀の香りを辿って東京に帰りたいな。

【2】湯がすき。

この頃の帰省や旅行のもっぱらの楽しみは湯に浸かること。今住んでいる場所には湯船がないのでシャワー生活、宮古島には銭湯がないので、気軽に湯につかりにいく場所もない。東京にいるときは銭湯なんてほぼ行ったことなかったし、湯船も冬は毎日はいるけど夏はシャワーでいいやなんてタイプだったのでこんなに自分が湯を求めることになるとは思ってもみなかった。でも振り返ってみれば、旅先のお宿ではいる大浴場は小さいころから好きだったし、アラサーになってからというもの温泉旅にでかけることも多くなっていたことに気づく。

宮古島にきてからというものの、仕事でつかれたとき、なんだかモヤモヤしているとき、ふと湯につかってリセットしたいと思うことが多くなった。そんなときに行ける場所の選択肢が多い東京はやっぱり便利だなあと。次に住むところはちゃんと湯船があるか、近くに銭湯(できたらサウナ付き)があることはマストの確認事項にしようと思う。

【3】都会がすき。

そしてこれが自分的に一番大きな気づきだった。東京生まれ東京育ち、学生時代は新宿を拠点に副都心に通い、社会人はサラリーマンの聖地である新橋に勤めていたので、常に人の多い都会で生活してきた。そのため毎日、満員電車や、繁華街の押し寄せる人の波にもまれ、人の多さに嫌気がさしていた。人が少なく自然に囲まれた場所に住んでこのストレスや日々の疲れから解放さたいと思ったのも島に移住した1つの理由だった。

たしかに人が少なく、通勤も車でどこにいくにも数十分もあればゆけるのは、本当にストレスフリーになったなと感じる。でも一方で、島は小さい分、どこにいってもだれかしら知り合いにあうし、どこにいてもだれかにみられている。東京の希薄な人間関係があまりすきでなかったわたしはこの環境がうらやましいなと思っていたし、現に、ガソスタにいったら居酒屋の常連さんが働いててサービスしてくれたり、いつもランドリーにいるおばあがジュースおごってくれたり、そんな温かさに心打たれる瞬間は生活の中にちりばめられている。

でもこの距離感の近さが逆に自分にとって、窮屈で自由を奪われているように感じることがある。1人で誰も知らない新しいお店を開拓してしっぽり飲みたいときだってあるし、ビーチや公園で突然に1人で踊りたくなるときもある。東京はお店が数えきれないくらいあるから、どこかで知り合いに会うなんてことは稀だし、人が多いからお店の人も自分のことなんていちいち覚えてなんていない。それがなんだか悲しいと東京にいるときは感じていたけど、だれも自分のことをみていないからこそ、自分の思うままにいられたんだなと気づく。自分がどこで何をしてようと、だれも自分が何してるかになんて興味がない無関心だ。だから自由でいられる。温かい人間関係に憧れはあるものの、わたしはこの方が居心地がよくて生きやすいんだと気づいた。

それに飽きっぽくて新しいもの好きのわたしは、ラーメン屋やケーキ屋の選択肢が片手に数えるしかない島の生活は、1年もいればお店もスポットも大体行ききってしまった。都会にいれば行きたいお店や場所なんて無限にでてきて、数年いた場所でさえ回りきれてないところがほとんどだった。好奇心旺盛で、定期的に新しい刺激を求めてしまうわたしにとっては、やっぱり都会の選択肢が溢れている状態が性に合っているんだと思う。

すきに気づくこともすき。

それが当たり前の生活をしていると自分が無意識にすきなものに気付けない。失ってはじめて大切さに気づくなんてことはよくいうけれど、人は失わないとその存在にすら気付けないのかもしれない。わたしはこうやって今までとまったく違う環境に飛び込むことで、自分のすきやきらいがわかっていく過程がすきなのだなということに、この帰省で改めて気づいた。旅がすきだったり、知らない街歩きがすきなのもこれから派生しているんだと思う。知らない場所にいったり、住んでみたりすることで、いままでと違うことに触れて、自分が感じる感覚、そして戻ってみてまた自分が感じる感覚に触れて、知らなかった自分に気づくことがすきだ。きっとわたしはこの感覚を求めてこれからもいろんなところへ行くんだろう。
さあ今度はどこに住もうかな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?