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「どこの家にも、三味線はなくても〝こと〟はある」

夜中に鳴る携帯が怖い日が続いてました。数時間おきに目が覚めるって、やっぱり体にものすごい負担がかかるのを改めて実感します。いつか体を壊した時は、こんな状態で家事も子育ても家のことは全て引き受けていたのだから、かかる負荷が症状にも出てくるわけだなと納得。今、いろんな面で助けてくれる家族や友人がいてくれるのは本当にありがたいです。
 
 

私の父は、就職で鹿児島から上京。祖父の「長男だから大学に行って欲しい」を振り切って、どこか遠くにと選んだのが皇宮警察でした。
 

現在の上皇后ご夫妻の護衛官を勤めていた45歳の時に事故により頚椎を損傷、神経障害から四肢が不自由になり、発汗作用が失われるなどの諸症状を請け負う体になりました。


頚椎は7つの骨があって、一番上から1番、首の下にあるのが7番目の骨。「首の骨を折ったら死ぬ」とは聞いたことがある人が多いと思うけれど、簡単に言えば、7番の骨に傷がつけば足に障害が出る可能性が、1番だと脳に関わるので即死があり得る、といったもの。父は3番と4番に損傷を負いました。
 

看護婦長をしていた父の姉は一報を受けて電話口で泣き崩れ、医者からは「一生寝たきりを覚悟するように」と言われましたが、父も母も弟も私も、みんなが素人だったことで「え、そんなのやってみなきゃわかんなくない?」というテンションのまま過ごし、社会復帰を目指してリハビリに励むことに。
 

その父を母は毎日見舞い、当時学生や社会人になりたてだった私と弟とでは、いろんなことを分担する生活に。転院を重ねてはそこを追いかけて、途中母が癌を患った時は、父は修善寺、母は名古屋と、新幹線で両方を見舞い、帰りに温泉入って帰ってくる、なんてこともありました。人生で初めてグリーン車に乗って、フットレストがあるってこんなにも楽なんだと知ったのもこの頃。

 
動かなかった手や足が動くようになり、頭にボルトを埋め込んで首を牽引していた装置が外れ、寝たきりだったのが少しずつ起き上がれるようになり、ものが掴めるようになり、自助具を使って自分でご飯が食べられるようになり、立ち上がれるようになった父は、全ての医者、看護師、療法士の方々を驚かせて退院します。
 
 

入院中、確か23歳くらいの若い男の子がいました。中庭を前にして車椅子に座ったまま動かないで、リハビリにもあまり前向きじゃなかった様子。スノーボードで落下して腰を強打、脊髄損傷から半身不随と診断を受けたとのこと。初めてお会いした時は、一生車椅子だと言われ絶望していた頃だったかと記憶。
 


当時、何かで知ったことに、神経を損傷して一瞬で体が不自由になった人に起こることとして段階があること、それは「自分の状態を理解せず否定する」から始まって幾らかを経て「認めて受け入れる」そして最終的には「〝諦める〟の境地に行く」といったものがありました。

諦める、かぁ。。。と思いました。
 

それが頭にあったので、23歳の彼の気持ちの落ち込みようにはかけてあげる言葉がなくて、挨拶はするものの、何を話したらいいか、当時の私はわからなかった。
 
 
いつか、父と話をしたようで〝一生このままだ〟と言われたもの同士で繋がるものがあったのかもしれない。
 

それから数年後、父が自分の足で車椅子を漕いで退院する時に、その彼が杖をついて歩いて来て、笑顔でお礼を伝えに来てくれた時は、その場にいた、みんなが、泣いた。
 

ありがとう、と、よかったね、と、言葉にはならないいろんな思いがそこに流れていたのを覚えています。気持ちが元気で前向きで、笑顔でいることは、それだけで幸せをもたらしてくれるのだと、もしかしたらはっきり感じた出来事はそれが人生で最初だったかもしれない。
 
 

すっかり忘れていた。
 
こんなに素敵な話を、実はここ10年以上、すっかり忘れていた私。
 


ふと思い出すきっかけがあって、そうだった、そういえばこんなことあったね、となった時、真っ先に感じたのは「父上すごいじゃん!」。


そう。父はすごかったし、わがままとは紙一重な行動力と、枠にとらわれない一面を持っている人だったのを思い出しました。
 

自分の意見はなかなか変えないし、自分の価値観以外は認めないし、自分に甘く人に厳しい(悪口だなこれ、、笑)と思っていた父には、対極にも感じられるこんな一面もあった。忘れてしまっていました。
 

出来事を思い出してみると、その当時の自分がどんどん浮き彫りになってくるもの。
 

あんなに仕事が大好きで生き生きしていた父が、死ぬことしか考えてないと言った時の絶望感や、何にもしてあげられない無力感や、言葉にはならない重く暗くモヤモヤした混沌とした気持ちが出てきて、しんどくなりながらも、
 

とにかく目の前のことをこなすことに集中することで、父がよくなることと時間が過ぎるのを待っていて、常に何かをやることはいい時間潰しになっていた感じを思い出します。


泣きたいのに泣けない、と思っていたけれど、一度泣いてしまったら、もう立ち上がれない、何にもできなくなって、余計にいろんな人に迷惑をかけてしまうと、当時の私は思っていて、


それほどにショックを受けていたのだと、やっと自覚できるようになった今だから、思い出せたのだとわかりました。
 

当時の私は、思考でなんとか折り合いをつけて気持ちは後回し、のやり方で生きていて、それが故に体を壊したところから、気持ちを大事にすることの大切さを知るのだけど、
 

今更なことでも改めて思い出してみて思うのは、


その当時では受け止めきれなくて向き合えないほどのことが、生きていれば起こりうる
 ということ。
 

そして、気持ちと向き合う、自分と向き合うのは、後からでも、いつからでもできる ということ。
 

大切なのは、その時のどんな自分でもOKにする、ということだと思ったのでした。



だって、とにかく大変な渦中にいるというだけで、もうその人は精一杯頑張っている。それだけですごいこと。そんな自分を、それでいいと認めてあげられないのなんて、可哀想すぎるよね。


 
感情に飲まれようが、思考過多になろうが、それが自分。それでいい。自分より誰かを優先するのも、それも自分。無理をしても、しなくても、それを自分がわかって、自分で選んでいることならどれも正解。その時は、その時くらいは、それでいいのだと、今、改めて感じているところです。
 
 


昨今父に抱いていた印象の一つは〝窮屈〟さ、でした。でもこれは、自分の一部を父のごくごく一部のそこに投影していただけ。〝窮屈〟を握りしめていたのは、他でもなく、私でした。
 

心を小さく窮屈にして、その中にいろんな気持ちを溜め込んだ。窮屈が辛くて、誰かここから出して欲しい。この窮屈なんとかして欲しい。自分でもどうにかしたいけど、どうしたらいいのかわからない。とにかく辛い。
 
 
とにかく思考に頼ってばかりいた当時の自分に足りなかったのは

「誰かにこうして欲しい」でも
「どうしたらいいかわからない」でもない

「自分がこうしたい」という気持ちでした。

 
当時は押しこめるしかなかったほどの辛い出来事には、細かい細かいこれが潜んでいるように思います。
 

ちょっとでも無理をしてたり、
言いたくないこと言ってたり、
やりたくないことやってたり、
 

何枚ものベールに隠されて、その薄い1枚1枚の間にあるようないつかの自分を、今の自分が見つけてあげられて

 
「ああ、そうだったんだ、、あの時の私、そうだったんだ、、、」


と、他でもない自分が、自分を、わかって、受け止めてあげる。
 

押し込めていた気持ちに気づいて〝その想い、出していいよ〟と、ただそれだけが出来た時、辛かった出来事が違うように見えて「乗り越えた」に変わる。
 

「思い出す」って、結構日頃、何気なく、普通に起きていることでもあるけれど、実は、癒しにつながるとっても大きなすごいチャンスだったりするのだと、思いました。
 
 


こんなことを思うようになったきっかけは、数日前、父の生死にかかる状態に接したから。


ドラマで見るような広いICUで、多くのモニターに囲まれて管に繋がれている姿には涙が出たし「お父さんのこんな姿みたくない」と思って「とにかく、生きて欲しい」と、心のうちにはそれしかなかったのだけど、それは、数日前の私であり、20年前の自分でもありました。
 


本音に気づくお手伝いをして、リアルサウンドの大切さを伝えるセラピストをしているわけですが、〝リアルサウンド〟って、エゴも忖度も視線も全て取っ払ったものでしかないのだと、今の私は感じます。
 

私の心の奥にある想いを引っ張り出してくれた父は、やっぱりすごい人。それを支え続けてきた母と2人、最高の両親です。
 


頚椎損傷の体になってから20年。いつかはこんな時が来るのかもしれないと覚悟はしていたし、これまでよく生きてきた、とも言えるのかもしれない。
 

けれど、私はやっぱり生きて欲しい。

 
父はずっと一生懸命生きていて、私はその姿をずっとみてきてた。

今、私がセラピーをしているのも、気取らず不器用でも一生懸命に取り組んで生きるを頑張っている人を応援したいから。今の私は、父から継がれたものなのだと感じてます。



いくつかの症状が重なっていて、一時は多臓器不全と言われ、いろんな機材や処置を施して現状維持以下だと言われていた状態も、今は上向きに変わってきたとのお見立て。でも、最終的には父本来の力だと。

仕方がないとはいえ、散々薬を投与したとしても、それだけではコントロールできないのが人の体なのだと痛感させられています。臓器が元気になる薬とか、ありそうだなと素人は思ってしまうけれど、やはり生きる力はその人に託されているという点では、自然療法に携わる者として納得する部分でもあり。

 

親孝行はしたいと思っても、させてもらえなければできないもの。いままでも出来ることはやってきた。でも、私は、今、また、できることをしたい。
 

まだまだ生きる姿をみさせてもらうことで、受け取りたいものがたくさんあるし、伝えたいこともたくさんある。


とはいえ、父の人生は父のもの。医療では施しきれないことはあって、この生をどう過ごすのかを決めるのも父の魂。


まだまだ予断を許さない感じですが、このまま元気になって一般病棟に戻って退院できたら、、と思えるほどになれたところで、思いをツラツラと綴っている今。


彼の魂へ、それを応援する私たちへも、応援のお気持ちを寄せてもらえたら嬉しいです。


 
上京した父の姉が最近聞いたこととしてこの一言を教えてくれました。

「どこの家にも、三味線はなくても〝こと〟はある」

どの家庭にも、表に出てようが出てなかろうが、いろんなことがあるもの。〝琴〟と〝事〟がかかっているとのこと。
 

大変な渦中にいる人もまた、私だけではないはず。色々あるけれど、みんなの人生が、魂が、よきに全うされますように。


できたら、深い悲しみに触れることなく、乗り越えられますように。辛い時が、いつかの笑い話に変わる時が少しでも早くに来ますように。
 


トップの写真は、数日前、主人のクライアント様が奥様へとくださったお花。命があるものに触れると元気が出ますね。心も体も疲れていた時に自然の恵みをいただけたのが嬉しかったです。早速実家へも持参して母へおすそ分けさせていただきました。ありがとうございました。


明日も、全ての方に、よき目覚めが訪れますように。


サポートにいただいたお代は、トリートメント時の精油代などに使わせていただいて、癒される方へのパワーへつなげます。お気持ちを大切に受け取ります。ありがとうございます(*^^*)