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【福島モノローグ】「自分ごと」と「他人ごと」の間に

東日本大震災から10年が経過した。
3月11日に、自分がどこにいて、何をしていたか。それはまだ、思い出せる。東京・千代田区、神保町の交差点に立ち、ちょうど信号が変わるのを待っていた。徒歩で4時間かけて、当時住んでいた都内北区の自宅に戻り、テレビで見た津波の映像、原子力発電所の映像もぼんやり覚えている。ただ、記憶は時が経つにつれて、しだいに薄れるものであることは経験している。

阪神淡路大震災の時、テレビの映像で見た光景を思い出せるか?

と問われると、私は明確に答えられない。自分の身に降りかかった出来事や、その時、どんなことを考えていたかは「自分ごと」だから記憶にも残り、似たような記憶を持つ人の話を聞いて、共感しやすい。

しかし、自分が経験したことのない出来事は「他人ごと」で、それを経験した人から、その出来事や、その時の気持ちを語られても、「自分ごと」と比べると「距離」がある。
「もしも、自分だったら」という想像をしてみても、それはやはり想像に過ぎない気がする。


「福島モノローグ」は、東日本大震災で被災した福島の人の語りをまとめた1冊だ。
本書に登場する人の中には、どこの、誰なのか。氏名が表されない人もいる。
ただ、あの時、どこに居て、どうしたか。住まいや、日々の暮らし、仕事、家族、周囲の人との関わりについて、ページをめくるにつれ、その人の語り「モノローグ」に、直接、耳を傾けているような気持ちになる。

「自分」と「他人」の間には、「自分の身近にいる人々」「自分に関わりがある人々」が居る。
語りを聞くということは、本書の登場人物たちを、自分と他人の間に位置付けることになる。

彼らが経験したことは、私にとって「自分ごと」ではないが、「他人ごと」でもなく、少し身近な人々のこととして、受けとめることができるような気がしてくる。

著者である、いとうせいこうは、本書ではその気配を消している。
語る人の前に居ることは間違いないのだが、本書の中で、著者は声を発しない。

被災地の人々、彼らを、読者に近い存在にしようとしている。彼らの声がよりリアルに読者に届くことを願ってつくられた1冊だと思う。

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