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「なにもできない」に価値はあるか?

精神科の医師で、トラウマやジェンダーなどを研究している宮地尚子さんの著書「傷を愛せるか 増補新版」(ちくま文庫)の中に、「なにもできなくても」と題したエッセイが収められている。

親しい女友だちが最愛のパートナーを病気で喪った。
宮地さんは、その女友だちに対して、どんな慰めを言っても、手を握っても、そうしたことが薄っぺらに感じられ、どう接したらいいか分からなかった。「何もできない」まま、ただ、その女友だちを見ていた。しかし、ある時、ふと「何もできなくても、見ているだけでいい。そこにいるだけでいい」と腑に落ちたという。

宮地さんは、何もできなくても、ただ、傍らで見ている存在の自分自身に価値を見出したのかもしれない。

このエピソードを読んで、障害者の就労について書かれた文章を思い出した。著者や施設名などは忘れてしまったが、重度の身体障害があり、製品を作ったり、接客をすることが「できない」人について書かれたものだった。
ベッドに横になっているその人も、他の従業員と一緒に職場(作業場)に移動する。他の従業員が何かを作っている場に、その寝たきりの人も居て、仕事の時間を共に過ごす。その人にとって、そこに居る、存在することが仕事(役割)であり、その存在感の発揮が職場の空気をつくっており、貢献しているという話だったと記憶している。

「なにもできない」と口にする時、それは実際に何もできないのではなく、
「できる」ことを見つけられていないだけなのかもしれない。
今、ここに居ることを「居ることができる」と捉えれば、価値がある。

「どう生きるか?」という問いを考える時、「何ができるか?」と考えてしまうけれど、
一方で、とりあえず健康で生き続けられたら、それでいいと思ったりもする。

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