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ぬいぐるみ論 #駄論

子どものときから変わらないポリシー(信念)は誰にでもあるはず。
非科学的だろうと、妄想じみていても、私(あなた)にとっては大切な意味をもつ感覚。
それについて、仕事場での体験から思うことがあったので残しておく。

先に今回考察できたことを述べておくなら

“ぬいぐるみ遊び = 遊んでいる私自身の【喪失体験】と向き合うこと”

興味を持っていただけたら一読してみてほしい。


1.私の過去について

今回語るに先んじて、筆者(私)について言っておくべきことがある。
それは、以下のことだ。

普通の人よりも“感受性”が高いと自負している

私の過去について語っておくと、

保育園の頃、外遊びより粘土やブロックなど創作遊びを好んでいた。
小1の時、映画『ドラえもん のび太のワンニャン時空伝』で感動し涙を流す。
小2の時、ドラマ『佐賀のがばいばあちゃん』のラストで号泣。
小3の時、昨年から県の絵画コンクールによく出てた。
小4の時、クラシック曲(ラモー『ガボット』)で涙し、給食どころではなかった。
小5の時、邦楽で泣く。(スキマスイッチ『ボクノート』)

他の人に聴いた限りだが、感動して泣くことがなかなか早かったらしい。

芸術や作品から、他人の活動に感動を覚える
(=間接的な感動)
およそ13歳頃に経験するそれらの感動を、早い段階で経験していた。

(以下の論文を参考)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsre/23/Supplement/23_ps18/_pdf/-char/ja


2.私とぬいぐるみ

そんな私には、幼稚園の頃から大切にしている物がある。

それが「ぬいぐるみ」だ。

実家には、大きい・小さい含めて6体あり。
今の住処には、クマさんとうさまるがいらっしゃる。

彼らの居場所は、特にベッドの上である。
4歳からぬいぐるみと、お布団で寝て過ごしていたので、今ではいないと寝付きが悪い体になっていた(合宿や遠征の時とかね)。

小学低学年の頃だったろうか。
夜中に目を覚まし、トイレから戻るとベッドからぬいぐるみが1体消えていたことがあった。

それは父の職場におけるマスコットキャラクター?のぬいぐるみだ。
人生で初めて手にしたぬいぐるみでもある。大切な存在だった。


いないとわかった途端の私から眠気はどこかへ消え、不安と焦燥に駆られながらベット周りを探す。
10分、20分、30分近く経った頃に諦めて、涙ぐみながらお布団に戻ってみた。

だけど、やっぱりいないと不安になって、また探した。
すすり泣いて真夜中に嗚咽をあげながら、ベッドをウロウロしている私に母親が目を覚ましたのは言うまでも無い。
(結局、手すりの隙間の奥に挟まっていただけだったのだが...)

ここまで情緒不安に至ったのは、別のぬいぐるみとの思い出(トラウマ)があったためでもある。

乳幼児だった頃、両親が買って置いてくれた犬のぬいぐるみがあった。
当時の私には、背中に乗れちゃうくらい大きすぎるサイズだった

居間でごはんを食べるときも、わざわざ運び出して、寄り添いながら食べていた。
ずっと側に置いていた、側に置いていたかった。
いつからか“ロビン”と呼んでいた。

小学生になる頃だったか。
ベットからロビンは消えていた。

あのサイズのぬいぐるみ、探して見つからないはずがないのに。
家のどこにもいなかった。
母親に聞けば

「置く場所がなくなったから、もう捨てたよ」

私はあの時に、【喪失(死別)体験】したのだ。
今思い出しても、キリキリと締め付けられる感覚が離れることはない。

もう会えない。

ほんとうに忘れられない、私に刻み込まれている。

幼いころから、ぬいぐるみに対する気持ちは変わらない。
一貫して「大切な同居人」だ。
“モノ”だと思ったことはない

言葉こそないし、動き出したりもしないが、喜んだり悲しんだり・痛みを感じたり・目線を向けてきたり、我々と同じ感覚を持っている存在として訴えかけてくる

それが私にとってのぬいぐるみだ。


3.ぬいぐるみ遊びの衝撃

ぬいぐるみにまつわる職場での体験とは以下のことだ。

小学生が自由時間に遊び、それを見守るのがそこでの仕事のひとつ。
各々が積み木やパズルなど、好みのもので過ごしている。

ぬいぐるみで遊ぶ子どもたちのグループがあった(低学年の女子3人程度と、同年男子が1人)

使っていたのは、抱えるくらいの大きさのぬいぐるみ。動物と恐竜のデザインだ、あとミニオン。

さて、皆さんは“ぬいぐるみでどう遊ぶ?”

聞いておいてなんだが、私はぬいぐるみで遊んだことがない。
いつも側に置いたり、コミュニケーションの仲人役につかったりと。
遊具として用いた経験が無いのだ。


故におどろいた。
そのグループは、ぬいぐるみをブンブン振り回していた。
ぬいぐるみで殴り合っていた(枕投げ?)。
明らかに“モノ”になっていた

一緒に混じって遊ぶ気には、もちろんならなかった。

ぬいぐるみが痛そうでしょうがなかったからだ。

痛覚の有無ではなく、振り回されたあとの彼らを見ると、ヨレヨレになった手足とくすんだプラスチックの黒目が訴えかけてくる。
表情はもれなく、笑顔のままだったが、それが更に痛々しく感じた。

確かに年代の施設だから、ぬいぐるみも古びていると言えよう。
月一にクリーニングはしてるが、所々に黒く煤けたようになっている。

だがやはり、ボロっちいからといって乱暴する気にはなれない。
ここで生じた私の強い抵抗と、子どもたちとの間にあるギャップに注目をした。


4.洞察① 遊びについて

洞察する。

ぬいぐるみによって彼らは、少なからず同学年同士で愉しんでいた。
笑顔で「やったな~」「このー」と話も弾んでいた。
ここに“(悪意のない)素直な行動”が見てとれるだろう。

遊び(play)とは本来、この“素直”な感情体験を基礎にして発生する。

知能を有する動物(ヒトを含む)が、生活的・生存上の実利の有無を問わず、心を満足させることを主たる目的として行うもので、充足感やストレスの解消、安らぎや高揚などといった様々な利益をもたらす。
ただし、それに加わらない他者にとってその行動がどう作用するかは問わないのであり、たとえ他者への悪意に基づく行動であっても当人が遊びと認識するのであれば、当人に限ってそれは遊びとなる。
(Wikipedia より引用)

「どのように遊ぶか」は本人から湧いてくるもので、個人的な感覚だ。
他者が混じってくるとそれは、“素直”ד素直”のコミュニケーションに変わる。

対人関係の発達はこれをきっかけに経験、活発化していく。
「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)」というのは歴史家・ホイジンガ(Johan Huizinga)の有名な言葉。
人が生物的&社会的に発達していくうえで遊びは貢献している。

・遊びは個人的な感覚を実体化させる
・コミュニケーションを発生させる

対人関係の基礎といえる活動だ。

遊び → 素直な行動=個人的なもの
(個人の遊び)×(個人の遊び) → 素直な個人同士のコミュニケーション

遊びで生じるコミュニケーションは、“何遊びであるか”と相関を持つ。
大きくは「集団遊び」と「一人遊び」に区別する。


集団遊びにはルールの規制が必需。
他人同士の遊びは、ルールを守ることを無条件に肯定しなければ進められない。

→何を遊んでいるか、ではなくどう遊んでいるか。
(ex.球遊び、ボードゲーム、集団遊び、ごっこ遊び)

こうしたものは「社会性」を育むコミュニケーションが行われ、自分<他人に視点を向けられたものだ。
だから常に、自分がどう振る舞っているのかを客観視している状態にある。

一人で行う遊びにおいて育まれるコミュニケーションは「自立性」である。
ここに客観視は必要とされない。

遊んでいる間、内面で沸き立つ思考と感情に終始向き合うことが、この遊びの維持には求められるからだ。

他人と自分の考えや感情を区別して捉え、それを反芻し理解する一連のリハーサルを修練する“認知感覚教育”といえる。
(ex.創作、鑑賞(読み聞かせ等)、読書、空想、パズル)


ぬいぐるみ遊びはどちらに属すのか。

集団遊びにおいては、自分以外(他者)のためにルールが求められている。
ぬいぐるみ遊びにおいてはそれがない。
ぬいぐるみが他者を代理するからだ。
言葉や動作によるコミュニケーションは発生せず、内面の感情と空想に委ねている点では一人遊びといえる。

しかし、振り回して遊んでいた子どもたちが一人遊びだったといわれると違和感がある。
また、“モノ”ではなく大切な同居人として向き合ってきた、死別体験さえ覚える私にとってのぬいぐるみも、区分先が異なるようだ。
ので、区別する対象を変えてみる。


5.洞察②  ぬいぐるみに何を映すか(投影)

子どもたちと、私のギャップそれ自体を考える。
やはり注目すべきは、ぬいぐるみを“モノ”とするか、“コミュニケーション相手”とするかだろう。

客観的に捉えて、ぬいぐるみは“モノ”である。
布・生地を糸で縫い合わせ、中に綿を詰めこみ、形を整えた製造物だ。
これは前提として揺るがない。

問題はこの無機物に、「他者」を投影してしまうかどうかだ。

《2.私とぬいぐるみ》で記したとおり、ぬいぐるみは「大切な同居人」だ。
それは、友達より生活空間を共有しており、家族よりも親密な仲をもち、ペットよりも同類の時間に生きている。
私の中で(部屋においても)、ぬいぐるみはそれ自体がいのちをもっている。

なぜ、私にとってぬいぐるみは“モノ”でないのか。
ぬいぐるみ遊びは、無機物の擬人化を可能にする点で「一人遊び(=空想)に部類される。

そこには

自身の内面(感情と思考)に向き合う
 → 自己理解を深める体験

他者にも同様に向きあうリハーサル
 → 他者と自分の認識区別

が含まれている。

常に関心を向けているのは、ぬいぐるみではなく本人自身(内面)だ。



だからぬいぐるみは、遊んでいる人がどう思うかに遊びの内容を依存している。
ある人にとっては、振り回す道具になるし、ごっこ遊びの一員にもなる。

子どもたちと私のぬいぐるみギャップに一つ答えを見出すと、

私=ぬいぐるみ(相手)と共有した「一人遊び」
子ども=ぬいぐるみ(道具)を用いた「集団遊び」


私が結果的に、ぬいぐるみを遊び相手の他者に捉えているためだった。
ぬいぐるみは私の内面を反映した、もう一人の存在(無意識の私)としていのちを持っていたのだ。

子どもたちは、グループ内でぬいぐるみを振り回し、ボコボコに叩きあっていた。
彼らの遊び相手は同じ子どもたちであり、ぬいぐるみはそこに介入していない。「一人遊び」としてのぬいぐるみ遊びは機能不全をおこし、ぬいぐるみ不在の「集団遊び」だった。



6.考察&まとめ

なぜ小学生のグループにおいては、ぬいぐるみが他者の役割を果たさなかったのか。

それについて「親との時間」から考察する。

本来、小学生は放課後に家へと帰っていられるものだ。
だが彼らは、共働き等により一時的に施設保育を課せられている。
それが本人達の安全と、親御さんの安心につながることに異論は無い。

だが「親との時間を代理・剥奪している」ことも言えよう。

親とは、子どもが出くわすコミュニティの中で唯一、“客観的にも日常語(=非敬語)を許容できる大人”との関係なのだ。

学校の教師や地域住民、習い事などにおいて子どもは日常の言葉を抑圧され、礼儀正しい大人の言葉=敬語でのコミュニケーションを強制させられる。自身の内面よりも、客観的な正確さを重視されてしまう。

使い慣れていない言葉では、自分の内面を直接的に表すものを探すだけでも一苦労。
単語が見つかっても、文法にも気を配らなくてはならないため非常にぎこちなく、お互いの間には理解不良の会話が生じてしまう。


親との間においては、このぎこちなさを排除して内面の言葉を伝えることが可能。
客観性は必要ではない、自身の内面が優位。


親との時間を剥奪するということは、この内面と向き合う時間を剥奪しているのと同じだ。


よって「一人遊び」で重視される“自身の内面(感情と思考)に向き合う”ことが、遊び以前に確立できていない弱い状態にあったのではないか。



通常、自身の内面と向き合う機会というのは、他者との間で葛藤が生じたときだと言われている。
自分以外の存在によって自分が拒絶・侵略されたときに、人ははじめて自分自身という領域を張る意識をもつ。

そしてこの葛藤をもたらすのは、親や大人や友人・知人であり、環境変化によって発現する。

ex.)今まで一緒に遊んでいた幼なじみが、小学校に上がった途端に別の友達と遊びはじめ、その不変だと思っていた関係が侵略される。


ex.)一人っ子だったが、弟・妹が生まれたことで「お兄ちゃん・お姉ちゃん」という振る舞いを、親との間に強制させられる。


幼稚園年中~小学低学年には【第一次性徴】と呼ばれる自我の発達期、俗にいう反抗期が生じるが、それにはこうした環境による他者との葛藤が顕著に発生するためでもある。

そして例を見てもそうだが、葛藤の発生はそれまでの関係の喪失体験でもある
当たり前に続くと思っていた他者との関係が、突然失われてしまうのだ。


そうして胸に空いた孤独という穴を埋めるため、一人の時間を有効にするため、他者をふたたび失う不安を対抗するために、
わたしたちは、「一人遊び」を用いて自分と向き合うのだ。

 

振り返れば、私は感受性が高いと自負していた。
それが今回の駄論で考察できたのは良い機会だった。

私がぬいぐるみに、まるで人のように向き合ったり、同居人のように終始したり、未だにいなくなると不安になってしまう。
それには、乳幼児期の喪失体験のトラウマが根付いていたためだった。

おそらく、これからもぬいぐるみに対して私が思うことは変わらないだろう。モノとして扱えるようになることは叶わないだろう。

ぬいぐるみは、過去の喪失体験で傷ついた私を投影した存在だから。
ぬいぐるみといる時間は、内面に刻まれたかつて一緒にいた同居人との思い出と過去を思い出させてくれるから。



私の幼なじみなら知っていることだが、幼稚園の年長時の誕生日。
家で飼っていたビーグルが、寒さの中で息絶えていた。
保育園バスから降りたときには、おじいちゃんが線香をあげ終わっていた。


私は感受性が高いのではない。


昔から、他者の(いのちの)喪失を体験していただけなのだ....

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