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若い頃つまらないと思っていた場所に大人になってから行ってみたら楽しかった

関西方面への出張のついでにお休みを頂いて久々に京都を訪れました。

観光で京都に行くのは中学・高校の修学旅行以来ですが、今思い返すと中高生の頃は京都や奈良の由緒ある神社仏閣に行ってもあまり面白いとは思わず、むしろ「つまらない」とさえ思っていました。

それが50歳を過ぎてから再び訪れると、これが実に楽しいと感じました。

若いころは何が面白いか全然わからなかった庭園に日常では決して体験できない「ワクワク感」を感じ、長い間風雪に耐えた数百年もの歴史を持つ建物には「畏敬の念」を感じました。

変な例えですが、銀閣寺を生で見るときの感動はかつてお台場で等身大のガンダムを見たときの感動に匹敵するものがあります。どちらも「人はこんなに素晴らしいものを作ることができるんだ」という気持ちです。

大人になったからと言って別に神社仏閣に興味を持ったわけでも日本史マニアになったわけでもなく、ただ数十年の時間だけが過ぎただけなんですが、若い頃つまらないと思っていた場所を面白いと思えるようになったのは自分の中に何かの変化が起きた証かもしれません。

その変化が何なのかはまだ確かなことは言えませんが、おそらくは人生の経験を積む中で物事を見る視野が少しだけ拡がったのではないかと考えています。

若い頃は「ただの古いお寺」としか見ていなかったのですが、今ではそのお寺を建てた人のことや建てられた時代背景まで気にするようになり、「数百年前の古いお寺が今日まで残っていること」がどれだけすごいことなのかわかるようになりました。

もちろん修学旅行のときも建てた人や時代背景について学んでいるはずですが、視野が狭かったため自分から見ようとしませんでした。

そういった意味では人は知識だけ学んでも自分の視野が狭ければ知識が自分のものにはなりませんが、視野を拡げることで逆に自分から知識を吸収するようになると思います。

知識そのものが視野を拡げるきっかけになることもありますが、知識ばかりに偏っても頭でっかちになるので、人が成長するためにはやはり一定の時間と経験が必要かもしれません。

成長に要する時間も人それぞれ異なりますので、もしかしたら他の人は高校生の時点で今の私と同じレベルで神社仏閣に興味を持てた可能性もありますが、それはその人が早熟型で私が晩成型ぐらいの違いだと思います。

そんなわけで、人は生きている限り時間と経験を積み重ねるので、生きていれば少しずつでも成長はしていくと信じています。

今回もお読みいただきありがとうございました

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