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「共感できないけど、なんか好き」の尊さ

共感できる部分が多い友情と少ない友情、どちらが健全につづいていくものだろうか。私は後者だと思っている。共感をベースとした友情は、恋愛や愚痴、うわさ話など、一時的なホットトピックで盛り上がっているだけの場合が多いからだ。環境が変わったらまったく連絡を取り合わなくなるのは、良くあることだと思う。

一方で、共感をベースにしない友情はつづきやすい。そもそもわかってもらえる前提に立っていないから。どれだけ長く一緒にいても、相手の考えや気持ちは良くわからない。性格も全然違う。それなのに何気なくつづいている友情が私はとても好きだ。

この「全然、共感できない。でもなんか好き」っていうのがすごく尊いことのように思う。共感できなくても、価値観がまったく自分と違くても、存在を受け入れている証。それが世界を愛することであり、自分の存在を認める第一歩なのではないだろうか。

そんなことを考え出したのは、西加奈子の小説『i(アイ)』との出会いがきっかけ。ハイチで生まれ、養子としてアメリカ人の父、日本人の母に引き取られた主人公のアイがアイデンティティを探す物語だ。(以下若干のネタバレ含む)

高校初日の授業で、数学教師が放った「i(アイ)はこの世に存在しません。」という一言を彼女は大人になっても忘れられずにいる。もし、養子として引き取られていなかったら、貧乏で苦しい生活を強いられていたかもしれない。自分の代わりに他の子どもが犠牲になっているのかもしれない。そんなことを何度も考えては、アイは自分の居場所、あるいは存在自体を自ら疑ってしまうのだ。

でも、アイはミナという親友、そして社会とつながることで次第に「i(アイ)は絶対に存在する!」と胸を張って言えるようになっていく。なぜ、そう楽観的になれたのか。それは、まったく自分とは違う、共感できない他者を受け入れることができたからだ。まさに「全然、共感できない。でもなんか好き」という想いを抱けたことが、アイを大きく変えていく。

私はそもそも「共感」をベースにしたコミュニケーションが少し苦手だ。どうしても愚痴やうわさ話が多くなったり、無理して共感を装わなければいけないときがあるから。

これは人だけじゃなくて、作品やコンテンツに対しても「全然、共感できない。でもなんか好き」と思えるものを増やしていけたら、自分から見える世界をもっと楽しい場所にできるかもしれない。「共感」だけをベースにしてしまったら、人間関係もクリエイティブも短期的な小さな枠に収まってしまう気がしてる。

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