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丘の上の本屋さん(2021)/クラウディオ・ロッシ・マッシミ監督

子どもの、学校への行き渋りに悩んでいた。
テコでも動かない、という堅い意志にやられる日もしばしばあって、わたしの方が疲弊して潰れる、と思ったので映画へ連れ出してみた。

行き渋りで何が問題か、と言われればまぁ色々無くはないのだが、何はともあれ部分的にでも映画が解決してくれるんじゃないかと誰ともなく頼りたかった、というところもある。

言葉や人物の感情、情緒的なこと、モノによっては知識にもなる。
そして何より、映画体験は時に人生をも動かす。

そんな目論見もありつつ、その日は彼自身しんどそうだったのでわたしも急遽おやすみして出かけることに。

その時期、街の至る所でこのポスターを目にしていた。

普段は一人で映画鑑賞するので、誰かいるというのが少し新鮮でもあった。

大体自分だけだとギリギリに来て予告編中で入るのが常だが、それだと慣れてない人は席探しづらいか、とか、もう少しお手洗いの余裕持たないとならないか、とか、色々発見だった。

何より、ポップコーン食べたいとか言い始めるので(笑)、それを買う時間も必要だと学んだ。

映画にポップコーン、て感覚はだいぶ昔に置き去りにされてたのだけど、あ、キャラメルポップコーン美味しいじゃん、と素直に童心に帰れた気がする。

そしてこの日一番の誤算に、席についてから気づく。

そう、7歳だと、字幕が読めない、のであった。笑

「こんにちは」とか「ありがとう」とか、ひらがなはいいのだが、少しでも漢字が入ってくるともうわからない。

仕方ないので周りに迷惑にならないように、彼の耳元で字幕を読み上げる。

すると、ただ読んだらいいわけでもない、ということにも気づく。

会話の内容が、大人ならわかるでしょ、という前提を持って進められているのだ。

普段ならスゥッと流れていく会話も、個々人の膨大な経験や常識等の前提を共有できて成り立っている。
そんな当たり前のことが、当たり前すぎて忘れられていた。

本屋さんに来たお客さんがが暗に意図して話す言葉とか、男性が女性を誘う時のやり取りとか、店主のリベロ爺さんが少年と接する温度感とか。

わたし自身、いつからそういうのがわかるようになったんだろう。
そして字幕で映画を観るようになったのはいつだったんだろう。

あと、映画中にお手洗いで席を立ったのはいつ以来だろう、とか。笑

今や当たり前のことにも、初めてだった時間はある。
反対に、何かをしないと決めた瞬間もあっただろう。

流れていく日々の中で、そんなことを思い出させてくれるのは、きっと誰かに「かつての自分」を見出した時なのだと思う。

わたしが子どもに「かつての映画体験」を思い出させてもらったみたいに、リベロ爺さんも本好きの少年に「かつての読書体験」を思い出させてもらったんじゃないだろうか。

そしてあの時の自分が想像しうる「いて欲しかった大人」を今の自分に重ねてみる。

おすすめの本を差し出して新しい世界を見せてくれる大人。

ああそんな人にわたしも出会いたかったなあと思わずにはいられなくて、だから子どもにも沢山の本や映画と出会って欲しいし、わたしがその入り口になれたら嬉しい、と思う。

最初は、「たのしかった」とか、「かなしかった」でいい。
でもリベロ爺さんと少年みたいに、そのうち感想を語り合えるようになれたら、と夢が膨らむ。

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