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思っていたよりも夢見がちだった話

講談社児童文学新人賞に応募した。

 はい、深河優雨です。
 この度講談社児童文学新人賞に応募した。
 内容は言ってしまえば児童文学(???)のような感じ。
 自分の書く物語が人ウケするとは思わなかったし、実際万人ウケするモノじゃない。
 それでも少なからず祈りを込めたものであって、願いをのせたものではあったのだが、簡潔に言おう。

普通に落選した。

 まあ、簡潔に言うなら自己満足だったわけだ。
 本当のところどうか知らないが、「新人賞受かったらすごくね?」「作家になりてぇ〜〜!」的な感情があり、Twitter本垢の児童書推しのFF達に「これすごいよ!」「受かって欲しい!」「子供たちに届けたい」と言われて舞い上がっていただけの痛い学生だったわけだ。

 ただの学生の下手の横好きレベルの文学がこの世にウケるはずがなかった、それだけだ。
 それでもそれなりにショックだったし、自分が思っている以上に自分はこの作品を愛していたわけだ。
 自分の一等星の言葉に、「作品が愛されたからと言って君が愛されたことにはならない。作品が否定されたからと言って、君が否定されたことにはならないよ。」という言葉がある。
 実際のところそうだ。正論だ。然し乍ら時には正論が何よりも耳に痛い時がある。
 まさに今だ。

作品への"愛"は自分への"愛"では無いのか?

 作品が愛されたからと言って自分が愛されたわけではないのはまだ理解できる。それでも少しは自分も認められたような気がする。
 けれど作品への否定は自分への否定では無いのだろうか?
 自分への否定と捉えられても致し方ないのではと思うのだ。

 わかっている、講談社児童文学新人賞に落ちたからと言って編集部の人間から明確に否定されたわけではないのはわかる。それでも""出来損ない""の烙印を押されたような気持ちにならないか?

 きっとこれは初めて新人賞に応募したから思ったことであって、回を重ねていく事に気持ちは軽くなるのだと思う。いや、違うかもしれないが。

 こんな小さなことで地の底へ落ちた気分になるなんて思ってもいなかった。
 自分は自分に自信が無いと己で思っていたが、思ったよりも自分は自分を愛していた気がする。

と、まあこんなところだ。

 応募した作品についてはまた何れかの機会で話させていただくかもしれないが、その場合はその時も読んでくれるとまあ個人的には助かる。
 とりあえず今はこんな駄文をここまで読んでいただき感謝する。

Good night and have a nice Dream……

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