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【読書感想文的エッセイ】神様みたいに良い人1

    ぼくは大庭葉蔵なんじゃないか。太宰治の『人間失格』を読んだとき、そう思った。

    ぼくは運動が苦手だった。小学生、というか中学生の頃までは、なぜか足が速い子がモテる。当然、足の遅いぼくはモテてはいなかった。中学生になったら状況は変わると思っていたが、変わらなかった。むしろ悪化した。なぜか足の速い奴は大体ぼくよりもテストの点数が良かった。塾に通わせてもらっていたので、圧倒的に成績は上から数えた方が早かったが、いわゆる文武両道の子には手も足も出なかった。そんなクラスの中でそれなりの位置を保つのに必死だったぼくは、なんとか面白い奴キャラで—ぼくがそう思っていただけで実際はどうか分からないが—生き抜いた。
 
 高校生になれば、変わると思っていた。しかし変わらなかった。運動ができなくて、勉強がそこそこできる奴はただの陰キャだった。わたしは四月の時点で学校へ通うのが苦痛になった。ここだけの話だが、何回も泣きながら登校したことがある。しかし、ぼくの親は厳しかった。看護師として働いている母には、仮病はまったく通用しなかった。それにぼくの両親は、「気持ちがしんどい」ということがほとんど理解できないタイプの人間であった。
 わたしは父がとても怖かった。高校生になってから怒られることは減ったが、それ以前はしょっちゅう怒られた。何で怒られたとかいう記憶もほとんどない。ぼくが物心ついた頃から、中学を卒業するまでの間、基本的に不機嫌だったという印象しか残っていない。母にとって、父は理解ある彼くんだったように思うが、本心は分からない。母は夜勤や土日出勤が多かったので、休日は父と一緒に過ごすことが多かった。当時のぼくの父は、仕事の帰りも遅く、そうとうストレスも溜まっていたと思う。だから、わたしはそんな父にずっとびくびくしながら過ごしていた。わたしは父に怒られることがトラウマだった。怒られると、はたから見ても分かるくらいに、顔が真っ青になる。そして—通常の流れだと思うが—過呼吸になり、吐き気を催す。父はそんなわたしを、怒られている時だけしんどそうにする奴と言った。高校に入ってからは、怒られることはほぼなくなったが、わたしは今でも父が怖い。
 高一の四月、ぼくが学校を休ませてくれと懇願したとき、父がくれたのはアドラー心理学の解説書『嫌われる勇気』だった。実際、楽にはなった。楽にはなったが、とても複雑な気持ちだった。
 人よりもものすごい時間をかけて、クラスのみんなとは徐々に仲良くなれたと思っている。三年間クラス替えがなかったのは、結果的には良かったと思う。多分、クラスのみんなから見ても陰キャから、ちょっと変わった奴くらいにジョブチェンジできたような気はする。でも、男子とはやはり馬が合わなかった。同時に「みんなと仲良くしたい」わたしは、このギャップによって、非常につらい三年間であったことは間違いなかった。先ほどのように、高校に行けば、足の速い子だけがモテる環境はなくなると素朴に信じていたぼくにとっては、クラスメイトは憧れと嫌悪の相手だった。自分がモテないことへの僻みも確かにあったと思うが、それ以上に嫌だったのは、昼休みに、誰々と誰々が付き合ったとか別れたとか、新しい彼女ができたとか、何組の誰が可愛いとか、人を値踏みする態度が気に食わなかった。クラスメイトから見て、ぼくは陰キャだったと思うが、三年生の頃、たまに「どうやったら女子と仲良くできるの?」と聞かれたことがあった。三年間ぼくと同じクラスで過ごして、アイツはただの陰キャじゃないとか思われたんだと思う。知らんけど。わたしは演劇部だったし、主席番号順に座ると、ぼくの周りの席は全員女子だったので、それこそ三年かけて仲良くなっていった—と思う—。とにかく、「有馬に聞けばなにか分かるかも」と思われたのは、ほぼ確実だったと思う。なんて答えたかよく覚えていないが、「心配せんでも、○○君の方がいいよ」とか答えたような気がする。多分、当時のわたしは、かなり根っこの部分から性格が終わってたと思う。でも、クラスメイトにそういうことを何回か聞かれたことが嬉しかった。同時に、自己嫌悪に陥った。多分これは、難しい言葉で言うとホモソーシャルへの拒否感とでも言おうか。「お前も男として認めてやるよ」という連帯への許可が下りたが、わたしはそれを結果的にはねつけたということだろう。いつからか、ぼくはモテないことの劣等感を感じながら、わたしはそうはならない、いや、そうはなりたくないという風に思ってしまうようになっていた。そしていまだに大学生になれば、勉強のできる奴がモテると思っていた。大学生になれば、変わると思っていた。


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