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【エッセイ】波打ち際にて/忘れ者の日記9

寄せては返す自己愛の波打ち際
砂の文字が流され消えて鬱向くナルシス。


    眠れない日が最近多い。少しだけだけれど、体調にも影響が出てきているような気がする。別に重大な問題を抱えているわけでもないのに、ただぼんやりとした不安に包まれる日がある。わたしは基本的にネガティヴだから、一人きりになった途端、あーだこーだと、考えたくもないことを考えてしまう。特に、ベッドに入って、自室の白い天井を、ぼーっと見ていると、その白色がスクリーンみたく、その日あった嫌だったこと、後悔していること、とにかくいい思い出ではないものがフラッシュバックしてしまう。その映像を見えないようにするためなのか、わたしは横を向いて、布団の下で膝を抱えて、丸くならないと寝つけない。
    化石にでもなった気分。インターネットに書きなぐるダイイングメッセージ同様、いつかのわたしがここに眠っている。それもそのはず、ベッド、夢、冥界、地下、墓、眠り、そしてまたベッドという連想ゲームがここにはあるの。些細なことを死活問題にすり替えてウツウツしているわたしがここにいるぞ、誰かわたしを発掘してくれ。

    一年ほど前に「メランコリーの彼岸」というエッセイを書いていた。あれからちっとも成長していないような気がする。しかし、何も変わってないかというとそうでもない。当時は演劇との繋がりはほとんどなくなっていたと言っても差し支えなく、か細い糸で繋がっているだけだったのだけれど、今はとある公演に関わらせてもらっている。演劇に対してどれほど情熱があるか、自分でもよく分かっていない。だけれど、こんなに嬉しいことはない。
    「メランコリーの彼岸」の中で、わたしは「コミュニケーションの倫理」を打ち立て、時には対人関係の間に走るボーダーラインを踏み越えることの重要性を書いた。書いたのだけれど、そもそもこの「ボーダーライン」とは一体なんだろう。「ボーダーライン」はホントウに存在するだろうか、存在するとして、それはどのようなあり方で存在しているのか。これが分からない限り問題の解決など夢のまた夢なのではないのかな。
    「自己肯定感すら低いわたしなんて……」というように、「自己肯定感」という言葉の中に良いことなど何も含意されていない。「自己肯定感」という言葉はわたしの自己肯定感をより下げることにしか役立たない。そう、わたしは自己肯定感が低いのだ。これはなかなか困ったものだ。
    例えば自分から誰かに連絡を取るとする。わたしはここで少なくとも2~3日は頭を抱えることになる。どんな文章にしよう、どんな返信が帰ってくるのだろう、そもそも読んでくれるだろうか、返信は来るだろうか、いきなり連絡を寄越すことで変な印象を持たれたらどうしようとか、「イクニから連絡来たんだけど」とか言われてたらどうしようとか、わたしが考えてもどうにもならないようなことばかりが頭を過ぎるのだ。

    これは「解釈の病」だ。一挙手一投足に意味の過剰が現れる病気。句読点の打ち方、絵文字や言葉の選択、目線、語尾の上がり下がり、手の動き、口の曲がり方。多すぎる変数のせいでまともなコミュニケーションが取れない。すべてが宙吊りなった世界では、すべてがマリオネット化していく。マリオネットの動きには見えない糸=意図が隠されている、という妄想、あるいは強迫観念。だけれど、これはもはや意味論的問題ではなく、語用論的問題なんだ。
    「メランコリーの彼岸」で問題になっていた病気「解釈の病」について、再び考えている。

ちょっとした身振り手振り、ふとした言葉に意味があると思いたい、あるいは思ってしまうーーある種の病気に近いものーー。相手の語尾や視線が気になって仕方ない「解釈の病」、そこには自分の存在はただの「記号」、あるいはそれ以下ではないかという「意味の欠如」とは真逆の「意味の過剰」が存在している。

「メランコリーの彼岸」

    このときは、意味の欠如と過剰は反対のものとして「解釈の病」を考えていたのだけれど、意味が欠如しているのか、あるいは過剰になっているのかという判断は誰にもできないのではないかしら。どちらにしてもコミュニケーション不全に陥ってしまう。違いがあるとすれば、外の出来事に対して無感覚になっているのか、あるいは分裂的に振舞っているかという点にあるかもしれない。
    影はVHSに奪われて久しい。他者とは常にわたしにとっての鏡だけれど、その鏡面の向こう側が支配者で、こちら側が奴隷なのは明らか。わたしは常に他者を見上げる立場にいるんだ。要するに、わたしはわたしの事を好きな人が好きなんだ。そうすれば自己愛が満たされるから。わたしがわたしを愛することは、わたしの鏡から「おまえがいちばん美しい」と認められることなんだ。グリム童話「白雪姫」に王様は出てこない。代わりにお后は鏡に「誰が美しいか」と問いかける。そしては鏡は言うのだ、あなたが世界でいちばん美しいと。

夢の中でその人は泣いていた。なぜ泣いているか分からなかったので、ぼくは話しかけて理由を聞こうとした。すると、その人は「私の気持ちなんて分かるわけがない!」と大きな声を出した。そこでぼくは「これは夢だ」と確信した。その人がそんなことを言うわけないと思ったからだ。

「メランコリーの彼岸」

    これは一年ほど前に見た夢。わたしはずっと相手の行動の理由、意図、意味が分からないということを悩んでいた。実際、夢の中でもわたしは相手になぜ泣いているのかを尋ねようとしている。だけれど、その相手からは「私の気持ちなんて分かるわけがない!」と言われてしまった。わたしは次のように、この夢を解釈した。

「自分の気持ちをわかってもらえない」と思うということは、「相手の気持ちが分からない」ということの裏返しではないか。おそらく、相手も「解釈の病」に罹っていたと思われるーーもちろん、これはぼくの「妄想」に過ぎないがーー。つまり、夢の中では、自分の一挙手一投足も曖昧であったということだ。

これは夢の中の話であるが、現実ではそうではないとなぜ言えるのだろうか。もちろん、この「手紙」には「意味の過剰」が存在しているため、そのまま受け取ることはできない。しかし、語尾や視線の多義性、その意味の決定不可能性、つまり曖昧性は相手の一挙手一投足だけでなく、ーー相手にとって自分が固有名詞として働いていることを前提としているがーーぼくの一挙手一投足にも当てはまると考えた方が自然だろう。

「メランコリーの彼岸」

    「手紙」はコミュニケーションの比喩。コミュニケーションとは常に「遅延」と「確認不可能性」が付きまとうもの。手紙は常に遅れて届く。そして内容が相手に伝わったかどうかは確認のしようがない。だって黒ヤギは手紙を読まずに食べてしまうから。イヤ、ここで相手に「手紙」を送り続けることこそ「ボーダーラインを踏み越えること」なのだろう。つまり、コミユニケーションの倫理とは、相手の一挙手一投足を意味を固定させようとするのではなく、むしろ自ら出した「手紙」に付きまとう遅延を少しでも解消し、不可能に思われるような確認の可能性をこじ開けていくことなのだ。つまり「自分の伝えたいことは〇〇だよ」と「手紙」を送り続けて、相手の「解釈の病」を治癒させることなんだ。
   つまり 「ホントに楽しい?」と相手に問うのではなく、「わたしは楽しいよ」と伝え続ける。これがホントウの意味でのコミュニケーションの倫理だろう。「メランコリーの彼岸」では、相手の行動の意図をどのようにして読み取るのかという問題から始まった。そして、ボーダーラインを踏み越えて意味を確定させるしかないという結論に落ち着いた。しかし、これは独りよがりで、相手の立場を無視していると言わざるをえない。この方法では、相手に問い続けることによって、自分が満足するような返答を引き出させるということになりかねない。コミュニケーションの場にはそもそも見えない「権力」の関係がある。わたしは「相手の目を見て話す」=対等になりたいという(あえて強い言葉を使うならば)欲が強すぎて、その点についてあまりにも無頓着だった。
 
    わたしはこのことにおそらく気付いていた。だけれど、「手紙」を送り続けるという勇気が持てなかった。「手紙」を送り続けるには、送る相手を信頼しなくてはいけない。わたしはその「手紙」をちゃんと読んでくれるだろうかという不安でいっぱいだったんだ。そうでもなくても、快く思わなかったらどうしようと考え、それならば(マイナスになるくらいならば)現状維持を選んだ方がマシだと思い、結局なんにもできない。これを繰り返すだけだ。自分は相手にとってなんの意味もない存在かもしれないと思ってしまうのは、最後の最後で相手を信頼しきれていないからだ。
     信頼とは道徳的な意味で罪だ。たとえ相手から自分の信頼を疑われても、相手からの信頼を疑うことは道徳的な罪である。人が人を信頼するのに理由などいらないんだ。そこに理由をつけてしまえば、それは「信用」へと成り下がってしまう。

疑うな。畏れるな。そして知れ。全ては知ることで救われる。

『グノーシア』LOOP1, セツ

(相手の信頼を)疑うな。(隠された意図を)畏れるな。そして(相手の真意を)知れ。(メランコリーの)全ては知ることで救われる。

「セツ」は世界中が敵に回っても、わたしだけはあなたを信じるという姿勢を地で行った人物だ。それでも、主人公に「だからわたしを信じて」とは言わないのだ。それは信頼ではなく、信用だから。たとえ相手に疑われたとしても、相手を信じ抜く。そういう人にわたしはなりたい。

「神様みたいに良い人」

答えは二年前にすでに書いてあった。

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