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松浦武四郎、約200年前に19才で四国遍路を廻った北海道の名付け親。 香川と徳島の境、難所にあった碁浦御番所で私の高祖母の父から手形の検査を受けた。

◼️プロフィール


◼️現在、私は香川県にある四国遍路通訳ガイド協会に所属している。

コロナ後、段々と四国遍路を廻る外国人のお遍路さんの数も回復してきた。中には、四国遍路を廻り、四国遍路を気に入り日本に住むことにしたという外国人の方もいる。


◼️四国遍路通訳ガイド協会


そんな国内外の多くの人を惹きつける四国遍路を約200年前、江戸時代の1836年に19才で廻った人物がいる。

北海道の名付け親であり、日本で初めてサンカのことを記録した松浦武四郎である。

松浦武四郎は、四国遍路を廻っている途中、讃岐から徳島に入る際、碁浦番所で手形の検査を受けた。

この碁浦番所は、現在の徳島県鳴門市北灘町に位置する。

碁浦は、神戸の三宮からだと車で1時間40分くらいの場所にある。


碁浦という名称は、海浜で天然の黒色の碁石を産出したことに由来する。






徳島県鳴門市北灘町碁浦は、上記の写真にもあるように讃岐山脈の天ケ円山の西北部に位置する。

下記の西丈の絵にもあるように周囲を山に取り囲まれたなか、わずかばかりの平地が開けていた。

讃岐と阿波の国境に位置し、讃岐と阿波との間の国境争論の結果、徳島藩により国境警備と検問の役割を果たす碁浦番所が設けられていた。



🔸碁浦御番所 (角川日本地名大辞典より)


碁浦御番所では、名主や所定の役人が記した旅行許可書である往来手形や海から四国入りした遍路については、着船した港の担当役人が発行した船揚手形が検査された。


それらを所持している遍路には、御番所役人から人数や住所、名前を記した入切手が渡され、その入切手は土佐への出口に当たる、宍喰口番所に提出しなければならなかった。



捕物道具や袖がらみなどを備えた厳めしい番所での改めは、江戸時代の遍路にとって緊張を強いられる時間であった。


19才だった松浦武四郎にとっても御番所での手形検査は緊張の瞬間だったであろう。


🔸碁浦御番所の三ツ道具



この碁浦御番所で代々、役人兼庄屋を務めていたのが、私の高祖母の実家 八田家だ。


🔸碁浦御番所。高祖母の実家。国道11号線建設の為、埋め立てられた。碁浦御番所跡地は道路になっている。


🔸碁浦港


高祖母の八田キヨは弘化3年(1846年)に生まれた。阿波浄瑠璃の三味線が上手く、春の桜の季節になると舟に乗り、近海の島に三味線を弾きながら遊山に行くような風情のある人だった。

1836年に松浦武四郎が四国遍路の途中、碁浦御番所を訪れた際に手形の検査をしたのは高祖母の父 八田孫平だった。


🔸森家の戸籍。八田家当主 八田孫平の長女 八田キヨは徳島藩から高松藩 松平家の普請方だった高祖父 森喜平に嫁いできた。



1836年に四国遍路の旅をした松浦武四郎は、『四国遍路道中雑誌』の中に、碁浦について、「此處山の厓にして右の方は数十仭の断崖、左り之方は波浪岸へ打、一歩をあやまたば粉身碎身ニなる地なり、番所有。出入之切手を改む」と書き記している。

https://sa4d6b00f1f29c6d4.jimcontent.com/download/version/1601450460/module/13615426990/name/マーカー四国遍路道中雑誌(徳島県分・松浦武四郎).pdf


現代語訳だと、「この場所は山の崖で、右側は数十仭(数150メートル)の断崖絶壁、左側は波が打ち寄せる海岸線になっている。一歩足を踏み外せば粉々に砕け散ってしまうような危険な場所だ。番所があり、出入りの際に通行証を厳しく検査している。」



🔸碁浦御番所の記録「八田家文書」は徳島県立図書館や鳴門市立図書館、徳島市立図書館で閲覧することができる。



🔸高祖母の父 八田孫平が書いた文書



🔸【私のルーツ】高松藩松平家 普請方 森家。徳島藩 碁浦御番所 役人兼庄屋 八田家と『八田家文書』阿波秦氏。讃岐 黒羽城主 永塩因幡守氏継と黒羽庄屋 永峰家。黒羽三谷家と瀬戸内寂聴と和三盆。



🔸徳島と香川の県境にあった碁浦番所の記録「八田家文書」原文が返却されず所在不明となった謎! 八田家文書に残る”高松藩主の鷹狩り風聞書”が興味深い。高松藩主一行 250人が東かがわ市の白鳥へ移動、120人を帰らせ、白鳥神社参拝、竹内邸と日下邸、渡瀬邸に宿泊、与治山と坂元でうさぎ狩り。




🔸『四国遍路道中雑誌』1844年。

松浦武四郎が 19歳の天保7年(1836年)に四国八十八ヶ所霊場をまわった紀行文をまとめた3巻からなる弘化元年(1844年)の草稿。


1836年に四国遍路の旅をした松浦武四郎は碁浦について、「此處山の厓にして右の方は数十仭の断崖、左り之方は波浪岸へ打、一歩をあやまたば粉身碎身ニなる地なり、番所有。出入之切手を改む」と記している。

現代語訳だと、「この場所は山の崖で、右側は数十丈(約150メートル)の断崖絶壁、左側は波が打ち寄せる海岸になっている。一歩足を踏み外せば粉々に砕け散ってしまうような危険な場所だ。番所があり、出入りの際に通行証を厳しく検査している。」



🔸測量中の伊能忠敬と久米通賢らも東かがわ市の引田港から船で碁浦に上陸している。この付近に碁浦御番所があった。




🔸碁浦御番所跡



以上



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