松浦武四郎、約200年前に19才で四国遍路を廻った北海道の名付け親。 香川と徳島の境、難所にあった碁浦番所で先祖が手形改めを行った。
現在、徳島市立徳島城博物館にて特別展「松浦武四郎の遍路ー北海道人、四国を旅するー」(~11/24)が開催されている。
現在、私は香川県にある四国遍路通訳ガイド協会に所属している。
コロナ後、徐々に四国遍路を廻る外国人のお遍路さんの数も回復してきた。中には、四国遍路を廻って、四国遍路を気に入り日本に住むことにしたという外国人の方もいる。
◼️四国遍路通訳ガイド協会
そんな国内外の多くの人を惹きつける四国遍路を約200年前、江戸時代の1836年に19才で廻った人物がいる。
北海道の名付け親であり、日本で初めてサンカのことを記録し、アイヌ文化の研究をした探検家の松浦武四郎である。
🔸松浦武四郎記念館
松浦武四郎は、四国遍路を廻っている途中、讃岐から阿波に入る際、碁浦番所で手形の検査を受けた。
この碁浦番所は、現在の徳島県鳴門市北灘町にあった。
碁浦は、神戸の三宮からだと車で1時間40分くらいの場所にある。
碁浦という名称は、海浜で天然の黒色の碁石が産出されたことに由来する。
徳島県鳴門市北灘町碁浦は、上記の写真にもあるように讃岐山脈の天ケ円山の西北部に位置する。
下記の江戸時代に描かれた西丈の碁浦の絵にもあるように周囲を山に取り囲まれたなか、わずかばかりの平地が開けていた。
讃岐と阿波の国境に位置し、讃岐と阿波との間の国境争論の結果、徳島藩により国境警備と検問の役割を果たす碁浦番所が設けられていた。
🔸碁浦御番所 (角川日本地名大辞典より)
江戸時代、海側ルートで讃岐側から阿波へ入る道は海に面した断崖絶壁のすぐ横にある細い道で一歩足を踏み外せば崖から真っ逆さまに海面に叩きつけられる危険と隣り合わせの難所だった。
阿波側にあった碁浦御番所では、各地の名主や所定の役人が記した旅行許可書である往来手形や海から四国入りした遍路(四国遍路を廻る者)については、着船した港の担当役人が発行した船揚手形が検査された。
それらを所持している遍路には、御番所役人から人数や住所、名前を記した入切手が渡され、その入切手は土佐への出口に当たる、宍喰口番所に提出しなければならなかった。
捕物道具や袖がらみなどを備えた厳めしい御番所での改めは、江戸時代の遍路にとって緊張を強いられる時間であった。
19才だった松浦武四郎にとっても碁浦御番所での手形検査は緊張の瞬間だったに違いない。
🔸碁浦御番所の三ツ道具
この碁浦御番所で寛永18年から明治5年まで代々、役人兼庄屋を務めていたのが、私の高祖母の実家 八田家(阿波秦氏)だった。
🔸碁浦御番所。高祖母の実家。国道11号線建設の為、埋め立てられた。碁浦御番所跡地は道路になっている。
🔸碁浦港
🔸碁浦港での釣り
高祖母の八田キヨは弘化3年(1846年)に生まれた。阿波浄瑠璃の三味線が上手く、春の桜の季節になると舟に乗り、近海の島に三味線を弾きながら遊山に行くような風情のある人だった。
1836年に松浦武四郎が四国遍路の途中、碁浦御番所を訪れた際に手形の検査をしたのは高祖母の父 八田孫平だった。
🔸高祖母が春になると三味線を弾きながら遊山に行っていた絹島
🔸四国遍路往来手形
🔸高祖母の父 碁浦御番所役人の八田孫平が書いた文書
🔸明治生まれの私の大伯母(私の祖父の姉)のインタビュー記事 (昭和39年の神戸新聞)
記事内容は、武家のしつけ、阿波浄瑠璃の上手かった祖母(八田キヨ)、英語を使い旧神戸オリエンタルホテルで電話交換手のリーダー、2.26事件時の勤務、神戸大空襲で自宅は焼失するも夫婦共に生き延びる、GHQ宿舎での電話交換手、昭和天皇の宿泊など。
大伯母の母(私の曽祖母)は東かがわ市黒羽中村の永峰家(黒羽城城主 永塩因幡守氏継の子孫)の長女で、大伯母の父(私の曽祖父)の妹が東かがわ市黒羽の三谷家へ嫁いだ為、大伯母は三谷家の法事にも手伝いに行っており、瀬戸内寂聴さんと交流があった。瀬戸内寂聴さんの祖父 三谷峰八さんは東かがわ市黒羽で江戸時代から代々、讃岐和三盆の製造をする旧家だった。三谷峰ハさんの三男だった瀬戸内寂聴さんの父の三谷豊吉さんは大伯母にあたる須磨の瀬戸内家の養子となり、徳島市で神具店を経営していた。
東京ブギウギなどのヒット曲を持つ歌手の笠置シズ子さんも東かがわ市黒羽の三谷家で生まれたが、生家は代々、製糖業を営んでいた。屋号を黒茂といい豪農だった。今は分家の孫黒茂の三谷製糖が東かがわ市馬宿で和三盆の製造を継続している。
🔸瀬戸内寂聴さん。
父の三谷豊吉さんは、東かがわ市黒羽(くれは)の旧家の出身。祖父の三谷峰八郎さんは和三盆の製造で財産を築いたが、旅役者の女性について消え去ってしまった。その後、製糖工場は人手に渡り、豊吉さんは幼くして徳島へ指物職人の丁稚奉公へ出なければならなかった。瀬戸内寂聴さんは後に自分の自由奔放さは祖父 峰八の血を受け継いだのかもしれないと自分自身の人生を振り返って小説に書いている。父母の墓は東かがわ市引田の積善坊にあり、墓石には十字架が刻まれている。
🔸笠置シヅ子さん。
生家は東かがわ市黒羽(くれは)の三谷家で江戸時代より代々、製糖業を営む豪農だった。祖父の三谷栄五郎さんは漢学者で後に東大総長となる南原繁さんの師だった。実父の三谷陳平さんは南原繁と仲が良く夏になると相生の海へ共に泳ぎに行っていた。陳平さんは隣村の引田郵便局に勤めていたが若くして亡くなった。生後間もなく笠置さんは、引田出身で大阪の福島で米屋をしていた亀井家の養子となった。笠置さんは東かがわ市引田の積善坊の隣りにある萬生寺内に養父母と弟の墓を建て、雨どいを寄進をした。その雨どいと寄進塔は今も残っている。
🔸森家の戸籍。
寛永年間から代々、碁浦御番所の役人を勤めていた八田家当主 八田孫平の長女 八田キヨは元治元年12月、徳島藩から高松藩 松平家の普請方だった私の高祖父 森喜平のもとに嫁いできた。ちなみに、私の曽祖父の妹 森トヨは東かがわ市黒羽(くれは)の旧家 三谷家へ嫁いだ。三谷家は瀬戸内寂聴さんの父 豊吉さんの家系で江戸時代から代々、製糖業を営んでいた。歌手の笠置シヅ子さんも黒羽の三谷家で生まれ、後に亀井家の養子となった。現在も三谷製糖が東かがわ市馬宿で讃岐和三盆の製造を続けている。
・阿波水軍 森家の分家 高松藩 普請方 森家
【高祖父の父】森義右エ門 (高松藩普請方)
【高祖父】森喜平 (高松藩普請方) – 八田キヨ (徳島藩碁浦御番所役人兼庄屋 八田家、阿波秦氏)
【曽祖父】森虎太郎 – 永峰チヨ (現在の東かがわ市黒羽の庄屋、黒羽城城主 永塩因幡守氏継の子孫)
🔸東かがわ市馬宿にある三谷製糖と碁浦の位置関係
🔸松浦武四郎が書いた『四国遍路道中雑誌』
1836年に四国遍路の旅をした松浦武四郎は、『四国遍路道中雑誌』の中に、碁浦について、「此處山の厓にして右の方は数十仭の断崖、左り之方は波浪岸へ打、一歩をあやまたば粉身碎身ニなる地なり、番所有。出入之切手を改む」と書き記している。
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現代語訳だと、「この場所は山の崖で、右側は数十仭(数150メートル)の断崖絶壁、左側は波が打ち寄せる海岸線になっている。一歩足を踏み外せば粉々に砕け散ってしまうような危険な場所だ。番所があり、出入りの際に通行証を厳しく検査している。」
🔸碁浦御番所の記録「八田家文書」は徳島県立図書館や鳴門市立図書館、徳島市立図書館で閲覧することができる。 『木瓜の香り」は阿波水軍 森家の出自が書かれた書籍。この木瓜は家紋を指す。
🔸【私のルーツ】高松藩松平家 普請方 森家。徳島藩 碁浦御番所 役人兼庄屋 八田家と『八田家文書』阿波秦氏。讃岐 黒羽城主 永塩因幡守氏継と黒羽庄屋 永峰家。黒羽三谷家と瀬戸内寂聴と和三盆。
🔸徳島と香川の県境にあった碁浦番所の記録「八田家文書」原文が返却されず所在不明となった謎! 八田家文書に残る”高松藩主の鷹狩り風聞書”が興味深い。高松藩主一行 250人が東かがわ市の白鳥へ移動、120人を帰らせ、白鳥神社参拝、竹内邸と日下邸、渡瀬邸に宿泊、与治山と坂元でうさぎ狩り。
🔸『四国遍路道中雑誌』1844年。
松浦武四郎が 19歳の天保7年(1836年)に四国八十八ヶ所霊場をまわった紀行文をまとめた3巻からなる弘化元年(1844年)の草稿。
1836年に四国遍路の旅をした松浦武四郎は碁浦について、「此處山の厓にして右の方は数十仭の断崖、左り之方は波浪岸へ打、一歩をあやまたば粉身碎身ニなる地なり、番所有。出入之切手を改む」と記している。
現代語訳だと、「この場所は山の崖で、右側は数十丈(約150メートル)の断崖絶壁、左側は波が打ち寄せる海岸になっている。一歩足を踏み外せば粉々に砕け散ってしまうような危険な場所だ。番所があり、出入りの際に通行証を厳しく検査している。」
🔸測量中の伊能忠敬と久米通賢らも東かがわ市の引田港から船で碁浦に上陸している。この付近に碁浦御番所があった。
🔸碁浦御番所跡
◼️プロフィール