見出し画像

教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第14章 欧米人と沖縄④

4.ペリー来航と琉米条約の締結

【解説】いよいよペリー来航である。興味深いエピソードが盛り込まれているが、多少加筆して、わかりやすくする必要があった。しかし、ペリーの通訳として同行したサミュエル・ウィリアムズが、漂流民を日本に送り届けようとして、異国船打ち払い令のために果たせなかったモリソン号(その後、蛮社の獄につながる)に乗船したことなど、リサーチするまで知らなかったこともあり、まとめながら関心を深めた。
 全体としては仲原の記述をベースにしているが、例によって文の順が適切でない箇所もあり、かなり入れ替えている。後日、筆者自身がペリーの日記や先学の研究に目を通して、再度整理したいと思う。

【本文】
 1853年7月8日、東インド艦隊司令長官マシュー・ペリー提督率いるアメリカ艦隊が神奈川県の浦賀沖に姿を現し、日本は開国への道を歩み始めます。このアメリカ艦隊は本土に行く前の5月26日に、沖縄にやってきたのです。
 その日の夕方、サスケハナ号とミシシッピ号が、少し遅れて2隻、計4隻の軍艦が那覇港に入って米ました。波の上にいたベッテルハイムは、さっそく英国旗を掲げてこれを歓迎しました。
 ペリーは、沖縄に来る前にバジル・ホールの航海記をはじめ、いくつかのイギリス人の報告書を読んで研究してきたようです。沖縄の方では、外国人はもう見慣れていましたが、4隻もの軍艦がやって来たので多少あわてたようです。通訳は、漢語に堪能で、英語の知識もあった板良敷朝忠(いたらじきちょうちゅう。後に大湾、さらに牧志と姓を改めます)と、当時清国で働いていて、艦隊に通訳として雇われた言語学者のサミュエル・ウィリアムズが勤めました。ウィリアムズは漢語だけでなく、日本人漂流者から学んでいたので、日本語も理解できました。さらに琉球方言を理解でいきるベッテルハイムも助けたので、コミュニケーションには余り不自由はしませんでした。
 ペリーは、まず島内の探索を命じました。海岸の調査、測量、地質、生物といった自然にとどまらず、産業、民俗、教育、政治に至るまで、詳しく調査しました。その後、バジル・ホールの一行が借りていた泊村の聖現寺を病院の入院施設として使わせるよう交渉しました。
 王府の役人たちは、首里城への入城を断ったのですが、ペリーはそんなことはお構いなしに、きらびやかな軍装を整えた兵士をひきつれ、首里城まで行進して、アメリカの威信を誇示しました。これを見た役人は、武器の持ち込みと兵士の入城を拒否したのですが、ペリーは武装解除した将校数名を引き連れて入城してきました。
 ミラード・フィルモア大統領の親書を提出したペリー一行は酒食でもてなされましたが、この料理のメニューには意味がありました。清からの冊封使へのもてなしよりもレベルの低い料理を出すことで、このアメリカからの客の要求を拒否するということを示していたというのです。そんなことを知らないペリーの方は歓待に感謝して、身分の高い役人をサスケハナ号に招待して、答礼にフランス料理をふるまったと伝えられています。

03ペリー一行の接待

ペリー提督一行の接待
 旧暦1853年4月30日、ペリー一行は首里城訪問しました。この図は首里城外、大美御殿(王家の別邸)における接待の様子を描いたものです。宴の半ばにペリーは立ち上がって、琉球の国民の繁栄と米琉両国の和親のために乾杯し、総理官(渉外官)も立って、ペリーの健康を祝して乾杯しました。

 琉球の人々と接する時は、できる限りの忍耐と親切をもって、友好的な関係を保つように努めると同時に、アメリカの威信を示すことも忘れない。これがペリーの方針でした。
 間もなくペリー艦隊は、小笠原を探検した後、日本に向かいました。幕府にもフィルモア大統領の親書を届け、1年後の再訪を約して那覇に帰ると、琉球王府との間に(一)石炭を入れる倉庫を貸すこと、(二)アメリカ人にスパイをつけないこと、(三)売店(バザー)を開設して品物の売買をすることなどを取りきめました。さっそく琉球側が売店を開いて、漆器の盆、皿、重箱、織物などを並べたところ、商売は大繁盛となりました。商人は思わぬビジネスに、また乗組員も珍しいものを手に入れて喜び、それまでとはちがって、なごやかな雰囲気になってきました。
 その後香港にいったん戻り、沖縄を再訪した後、ペリーは1854年2月13日、浦賀に来航し、日本との間に日米和親条約を結びました。そして、三度沖縄に立ち寄り、条約締結のための協議を行いました。沖縄の方では、すでに幕府が条約を結んだことを知っているので、特に抵抗することもなく、条約案に承諾すると回答し、7月11日に琉米修好条約に調印しました。実はフィルモア大統領は、万一琉球が武力で抵抗した場合には、琉球全島を占領することをペリーに許可していたのです。
 条約の内容は以下の通りです。
 1.貿易は自由に行うこと。
 2.アメリカ船に対して薪水を提供すること。
 3.アメリカ船からの漂流民を救助すること。
 4.アメリカに領事裁判権を認めること。
 5.アメリカ人墓地の設置を認め、それを保護すること。
などです。
 「1」を見ても分かるように、日米和親条約と違って、これは一種の通商条約になっていました。薩摩藩からは咎められましたが、条約が修正されることはありませんでした。
 ペリーは条約締結という目的を果たし、自分の任務を終えたので、沖縄から引き揚げていきました。ベッテルハイムもこの時、沖縄を離れました。  1852年11月にヴァージニア州ノーフォーク港を出発してから、1855年1月22日にニューヨークヘ帰るまで、2年以上もの間精力的に働いていたペリーは体調を崩しており、帰国と同時に東インド艦隊司令長官を退任しています。
 ペリーの日記、調査、報告は3巻の書物となって発表されました。日本語に翻訳したものが『ペリー提督日本遠征記』という名前で今も簡単に手に入ります。この貴重な資料によって、私たちは当時のアメリカ人の日本での行動を知ることができるばかりでなく、彼らの目に映った江戸時代の日本本土と沖縄の姿をを知ることができるのです。

【原文】
三、ペリー提督と琉米条約
 アメリカ艦隊は、日本に行く前に、まず沖繩にやってきました。
 一八五三年の五月二十六日の夕方、サスクハンナ号をはじめ四隻の軍艦が那覇港に入って米ました。ベッテルハイムはさっそく英国々旗をかかげてこれを歓迎しました。
     ペリー提督は沖繩に来る前にバジル・ホールの航海記をはじめ、       
    いくつかのイギリス人の報告書を読んでいます。沖繩の方でも外国
    人はすでに見なれているか、四隻の艦隊が入って来たので多少あわ
    てたようです。通訳は、中国語の達者な板良敷(いたらじき)朝忠
    (後に大湾、さらに牧志とあらためる)と、艦隊について来たウィ
    リヤムス博士がつとめました。沖繩語のできるベッテルハイムもこ
    れを助けるし、板良敷は英語もすこし出来たから、たいした不自由
    はなかったようです。
 ペリー提督は、住民とせっする時は「できるかぎりの忍耐と親切をもってし、友好的な関係をたもつように」つとめると同時に、アメリカの威力をしめすこともわすれませんでした。
 艦隊は那覇を根拠地として、小笠原、日本、ホンコンと活動をつづけ、そのあいだに日本及び琉球といずれもさいしょの条約をむすぶことに成功して、アメリカヘ帰るまで十四ヵ月かかっています。
     ペリー提督は、まず海陸の探検隊をだして、海岸の調査、測量、
    島内の地質、生物、産業から民俗、教育、政治のしかたまで、くわ
    しくしらべさせました。それから、さきにバジルホールの一行が借
    りていた泊村の聖現寺に病人をうつし、それをかしてくれとだんぱ
    んをはじめました。
 提督自身は、きらびやかな軍装をととのえた兵隊をひきつれ、首里城に行進して、アメリカの威力をしめし、また総理官のえん会に行ったり、役人たちを軍艦にまねいたり、いろいろと琉球がわと、したしむようにつとめました。
 日本を訪問し、大統領の手紙をわたして那覇にかえると、(一)石炭を入れる倉庫を貸すこと、(二)アメリカ人にスパイをつけないこと、(三)売店をひらいて品物の売買をすること等を取りきめました。さっそくバザー(売店)をひらいて、漆器の盆、皿、重箱、織物などをならべたところ、商売は大はんじょうで、商人はよろこび、兵隊はみやげをかかえてにこにこし、今までとはちがった、なごやかな気分にかわって来ました。
 それから一度、ホンコンに引きかえし、さらに沖繩でじゅんびをととのえて日本に行き、和親条約をむすんでかえり、さっそく琉球との条約にかかります。
 沖繩では、すでに日本が条約をむすんだことを知っていますから、話はすらすらとすすみ、一八五四年七月一日に調印しました。
 その条約は次のようなものです。
 一、アメリカ人が来た時には、いつも親切にとりあつかい、どんな品物でも自由に売ること。
 二、アメリカの船には、どこの港でも薪と水を売り、その外の品物は那覇だけで売ること。
 三、アメリカの船が漂流した時は、すぐにこれを助けること。
 四、アメリカ人が上陸した時に、これを見張るための人をつけないこと等です。
 日本との条約とちがい、これは一種の通商条約になっています。
 提督は目的をたっし、自分の任務をおわったので、艦隊はつぎつぎに那覇を引きあげ、ベッテルハイムもこの時、かえって行きました。
     ペリー提督の、これまでの日記、調査、報告は「支那及び日本遠
    征記」という三巻の書物となって発表されました。
     これによって、われわれは、アメリカ人の行動を知ることが出来
    るばかりでなく、彼等の目にうつった沖繩及び日本のすがたを知る
    ことが出来ます。
挿絵のキャプション
 ペリー提督一行の接待
 1853年旧4月30日ペリー提督一行首里城訪問、図は首里城外、大美御殿(王家の別邸)における接待。宴半ばにペリー立って、琉球人民の繁栄と両国の和親のために乾杯、総理官(渉外官)も立って、ペリーの健康を祝して乾杯しました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?