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教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第14章 欧米人と沖縄②

2.イギリス艦隊の沖縄訪問

【解説】
 この個所は、外国人による客観的な当時の琉球描写が非常に興味深い。しかし、その反面、ここで仲原が図らずも指摘しているように、琉球王国側のしたたかな戦術もあって、そういう点も見逃せない。琉球にやって来た英国人が、世界史で教わる出来事と接点があることで、生徒に興味を持たせることもできるだろう。ナポレオンが琉球の話を聞いていたのは、徳川幕府がオランダ風説書でナポレオンのことを知っていたという話を思い起こさせた。世界は狭くなりつつあったのだ。
 ここで示された表に示されたリストは余り意味がないもののように思われたが、それが琉球側の思惑に基づいて、多すぎない品物の無償提供だったということを検討するうえで面白い史料だと思えたので、整理して掲示した。 
 尚、原文はここでペリー一行の歓待の絵が入っているが、当該の個所で挿入することにする。

【本文】
 ペリーが浦賀(神奈川県)にやってきて日本に開国を迫ったのは1853年のことですが、それより30年以上前の前の1816年に、イギリス船ライラ号(バジル・ホール艦長)とアルセスト号(マレー・マクスウェル艦長)が琉球に来航しました。ホール艦長らが帰国後に旅行記を出版したことで、ヨーロッパ中に「琉球は貨幣、武器、窃盗、刑罰の存在しないユートピアだ」という歪んだイメージが広がったとされます。
 清国との貿易赤字(茶の大量輸入に伴う銀の大量流出)の問題を解消し、自由貿易を求めたいイギリスは、1816年にアルセスト号とライラ号により、ウィリアム・アマーストを団長とする使節団を派遣しました。使節団の送迎の間、この2隻の船は東シナ海の調査を行い、9月21日に琉球にやってきて、那覇の泊港に40日も停泊し、船の修理をしたり、海岸を測量したりしました。
 彼らの訪問は探検、調査が目的で、通商目的ではありませんでした。だから政治的な難しい問題も起こることはありませんでした。島民は異国からの来訪者を温かく迎え入れ、歓待しました。船の修理に協力し、食料や燃料の補給を受けました。琉球の王子が来艦した他、世話係に指名された役人や島民と和やかな交流がありました。また病人は手厚く看護され、死者の埋葬にも便宜が図られました。この滞在の期間を通じて、両艦長以下、イギリス人は琉球の人々に好意を抱きました。また沖縄の方でも、10月27日に彼らが帰国する際に、泣いて分かれた人もいたと言います。
 この友好的な歓待はもちろん琉球王府の方針でしたが、首里には外国人を一歩も入れず、立派な首里城や城下の都市のことなどはすべて秘密にしていました。王府は、ただ単に友好的に接しただけでなく、自分たちの立場を守るための戦略はしっかりと考えていたということでしょう。ホールは、「大琉球(イギリス人は沖縄を大琉球、奄美大島を小琉球と呼びました)は、貿易路から外れたところに偏在し、島には価値ある生産物がなく、かつ住民も外国物資に対してそれほど興味を示さない」と記録していますが、王府側はイギリスとの取引が「貿易」になって問題化しないように、少ない食料を無料で与え、あえて代価を求めず、沖縄には資源が乏しいように見せかけたようです。

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 帰国後、マクスウェルは海軍に詳しい報告書を提出し、ホールは1818年に『朝鮮・琉球航海記』を出版しています。ここでは、日本でも簡単に手に入るホールの本を少し見てみましょう。
 ホールは沖縄人々を「正直」で「その文化は非常に高い」と称賛しています。しかしこれは、当時の未開地の人々と比較してのことだと思われます。
 また沖縄人は「とても内気で外国人に対して疑い深い。彼らと交流する際には、せっかちであったり、不親切であったりすると失敗する」と書いています。
 ホールの父は、ナポレオンと知り合いでした。それで、ホールはイギリスに帰る途中で、ワーテルローの戦いに敗れ、セント・ヘレナ島に流されていたナポレオンを訪ねています。ホールはナポレオンに「琉球には武器ありません。住民は通貨を知らず、物を与えても代価を取りません」などと語りました。
 沖縄には武器がない。ナポレオンは驚いて聞き返しました。
 「君のいう武器とは大砲のことで、小銃はあるだろう」。
 「いいえ、小銃もありません」。
 「それでも槍はあるだろう」。
 「いいえ、それもありません」。
 ナポレオンはせき込んで尋ねました。
 「では、弓矢は、短刀はあるだろう」。
 「いいえ、それもありません」とホールは答えました。
 ナポレオンは拳を固めて、大きな声で問い返しました。
 「武器がないなら、何で戦争をするのだ」
 「戦争はしないようです」とホールが答えると、ナポレオンは眉をひそめ、信じられないという顔つきで、「この世界に戦争をしない者がいるとは不思議だ」と述べました。軍人の時代から皇帝に昇りつめても、戦争にあけくれたナポレオンらしい話です。ナポレオンと一緒に島に流されていたアンリ・ベルトランの記録では、ホールが「琉球の人は閣下のお名前の「ナ」の字も知りません」と言ったとき、ナポレオンは久しぶりに大声で笑ったそうです。
 政庁は10数人の役人を派遣してイギリス人を接待させましたが、真栄平房昭(まえひらぼうしょう)と安仁屋政舗(あにやせいほ)の2人が通訳の係でした。ふたりとも英語は知りませんでしたが、毎朝、早くからノートをもって船に行き、船員から英語を習いました。船員の中にも琉球語を学ぶ人もいました。ライラ号の士官であったH. J. クリフォードは、滞在中に詳しい日記をつけていましたが、琉球語の語彙集も作っていました。船員たちと沖縄の人々のコミュニケーションには、最初は漢人の通訳を介していたようですが、1か月もたつと、必要なくなりました。
 真栄平については「とても聡明で、社交的」とあり、イギリスに留学するように勧められましたが。「I go lnjeree(England), father, mother, childs (children), wife, house, all cry!not go; no, no, all cry!」と言って断ったと伝えられています。真栄平は漢字と片仮名で「英語会話集」を書きのこしたといわれます。一方安仁屋は通訳として働く傍ら、幕末に活躍する牧志朝忠(まきしちょうちゅう)に英語を教えています。
 ホールの孫、バジル・ホール・チェンバレンは、明治7年から40年間も日本に滞在し、東京帝国大学などで日本文化を研究し、言語学を教えました。『琉球語文典』を著して、日本語と琉球語の関係を解明した学者です。

【原文】
 二、バジル・ホールの沖繩訪問
 バジル・ホール大佐の一行は一八一六年九月に沖繩につき、泊の港に四〇日もとどまって船の修理をしたり海岸をそくりょうしたりして国にかえってから「大琉球航海探検記」をあらわし、沖繩のことをくわしく、美しく紹介しています。
     沖繩を大琉球、大島を小琉球と、これらのイギリス人はよんで
    います。
     この人たちの沖繩訪問は探検、調査のためで貿易を目的としたの   
    ではありません。それですから、さほどむつかしい問題もなく、沖
    繩の官民との交わりもきわめてなごやかで、いよいよ船が出る時に
    は泣いてわかれた人もいたくらいでした。
 政庁では、彼等を親切ていねいにもてなしたが、首里には一歩も入れず、王城のことはすべてひみつにしていました。

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 ホールは航海記の中で沖繩人を「正直」で「国人の文化はいちじるしく高い」とほめています。しかしこれは南洋あたりの人とくらべてのことでしょう。
 又沖繩人は「きわめて内気な人たちで、外国人に対してはうたがい深い性質だから、彼等と交わるには、せっかちであったり、不親切であったりすると失敗する」といっています。
     バジル・ホール大佐はイギリスにかえる途中で、セント・ヘレナ
    に流されていたナポレオンをたずねました。大佐が沖繩には武器が
    ないと話すと、ナポレオンはおどろいて「君のいう武器とは大砲の
    ことで、小銃はあるだろう」という。「いや、小銃もありません」
    というと、「それでも槍はあるだろう」という。「いや、それもあ
    りません」というと、「弓矢はあるだろう、短刀はあるだろう」と
    せきこんでたずねました。「いや、それもありません」とこたえる
  .  と、彼はこぶしをかため、こえたかく「武器がないと何で戦争をす
    るか」「戦争はしないようです」とこたえると、ナポレオンはまゆ
    をひそめ、信じられんという顔つきで、「この世界に戦争をしない
    者がいるとはふしぎだ」といったという。戦争王ナポレオンらしい
    話です。
     政庁は十数人の役人をやってイギリス人をせったいさせたが、そ
    の中の真栄平と安仁屋の二人が通訳です。二人ともはじめは英語を
    知らなかったが、毎朝、早くからノートをもって船に来て船員から
    英語をならい、イギリス人もまた沖繩語をならい、一月ばかりのあ
    いだに中国人の通訳はいらなくなりました。
     イギリス人は、真栄平の才能を愛し、一二年イギリスに留学する
    ようにすすめました。真栄平は、I go lnjeree, father, mother, childs,
               wife, house, all cry! not go; no, no, all cry!”(前の引用符欠ママ)と
    いってことわっています。
     真栄平は漢字と片仮名で「英語会話集」を書きのこしたといわれ
    ます。
     ホール大佐の孫に、バジル・ホール・チェンバレンという人がい
    ました。明治七年から四十年も日本にいた人で、東京大学その他の
    学校で言語学を教え、日本文化の研究をした学者です。
     「琉球語文典」という本をあらわし日本語と琉球語の関係をあき
    らかにした人です。

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