教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第17章 廃藩置県(上)④
4.廃藩置県へのうごき
【解説】
多忙の言い訳はやめよう。フォーマットを確認するのも億劫で、手がつかなかったということもある。
ただ、休んでいる間に、登録をしてくれた読者もいらっしゃったので、久しぶりに手を付けた次第。
さて、沖縄の廃藩置県とは、琉球処分ということで、政府が強権を発動したということだけが教科書ではクローズアップされているが、琉球政府側の頑迷さや姑息さについては何の指摘もない。また、最終段階のことを琉球処分をいうことが多く、一連の流れを指すとは解釈されていない。こういう作為を通じて、被害者史観は拡大されていく。県民はそれを恥ずかしいと思うべきだろう。日本政府の動きは段階を踏んだまっとうなものである。日本は沖縄を植民地にせず、内地にしたのだ。もしも県民が被害者だとしたら、琉球政府の被害者なのだ。琉球の為政者は愚かで、現実逃避を考えていただけで、県民の幸福のことなど何も考えていなかったのだ。
この箇所は、仲原の勇み足で、あらすじが開帳されてしまっているが、前述の通り、教科書などで歪んだストーリーが刷り込まれていると思われるので、まずはあらすじを知ってもらうことも悪くないと考えて、そのままの展開とした。
【本文】
沖縄の廃藩置県は、藩王の地位を蔑ろにするものではありませんでした。大名(藩主)にしたように、藩王を東京に移住させて、華族に列し、各府県同様に知事を任命して東京から派遣し、政治を行わせたということです。内地と同じ扱いでした。
沖縄県の廃藩置県は、内務卿大久保利通(その暗殺後は伊藤博文)と、大書記官松田道之(みちゆき)がその任務にあたりました。
明治5年の藩王任命に始まり、12年に沖縄県を設置するまでの一連のことを「琉球処分」といいます。
明治政府は、はじめは政府の意志を伝達し、これを自発的に実行させようとしましたが、成功の見込みがないので、松田道之を派遣して、改革の命令と警告を発しました。しかし、それでも実行に移さないので、ついに廃藩置県の命令を強行するという順序をたどったのです。
明治8年正月、政府は池城安規三司官らを東京に呼び出し、政府の意志を伝えました。それは、台湾での遭難者の遺族に救助米をあたえること、琉球藩に蒸汽船を1隻を与えること、守備隊をおくこと、清国との関係をたち切ること、藩王が上京して台湾原住民討我のお礼を言うことなどでした。
しかし、これに対して池城らは、満足な返事ができませんでした。そこで政府は松田道之ほか、官吏を沖縄に出張させることにしたのます。
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