教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第17章 廃藩置県(上)①
1.明治維新に対する琉球政府の対応
【解説】
明治維新、廃藩置県、琉球処分という一連の流れは、日本の侵略だというような愚かなことばが歴史の本では垣間見える。当時の沖縄の日清両国への両属状態は国際法上の地位を不安定にし、また欧米に付け入るスキを与えただろう。清国の影響が強いことは事実であったが、帰化人の子孫が上層階級を占めて人々を奴隷のように支配して、それを明治の世の中になっても続けることがどういう結果を招いたかは、簡単に想像できる。李氏朝鮮がそのよい例だ。それでも日本政府は李朝の国王(皇帝)を皇族として遇したのだ。王家やそれを取り巻く帰化人政治家の既得権益擁護を放置することが善であったとは絶対に思えない。民族的にも琉球は日本人の国であったし、実際清国は、琉球からの要請があっても、具体的なアクションをする余裕などなかった。そのあたりを、似非歴史家はしっかりと直視すべきだし、騙されている人々は、自分で歴史を紐解くべきだと思う。
仲原は、本書でそれを助けようとしている。そして筆者は、その志を受け継いで、沖縄の本当の歴史を多くの人に提示したいと考えている。なるべく趣旨を損なわないように、重複した表現をまとめ、文章を整えるにとどめている。
【本文】
沖縄の明治維新ともいうべき廃藩置県は、明治5(1872)年に始まり、12年に完了します。本土の明治維新の運動は薩摩、長州を中心に、下級武士が各藩の政治を改革することから火が付きました。その後、薩長が連合して幕府を倒し、やはり下級武士が中心になって新政府を作ったのです。新政府は、明治天皇の名前で新しい時代を宣言し、議会政治を行うことを神に誓い、政治改革、社会改革を断行していきました。
ところが、沖縄では、すでに上層部に対する不平不満の空気はみなぎっていたにもかかわらず、下からの改革はおこりませんでした。また、新しい時代が始まっても、旧式にこだわる首里の王府は、その流れに逆らおうとしてたのです。
内地で廃藩置県が行われたことを知ると、三司官であった宜湾朝保、亀川盛武、川平朝範以下の役人は、さっそく協議して、「日本の新政府が沖縄を直轄にする考えがあっても断わり、今までのように、鹿児島県の管轄にしてもらう」と決めました。そして鹿児島に駐在している役人に命じ、このことを鹿児島県庁に申し入れさせました。彼らには、流通経済の崩壊や農民の困窮を見ても、何とかして、現状維持を貫きたいという考えしかなく、なぜ明治維新という政治上の大変動か起こらなければならなかったのかについては、全く考えが及ばなかったようです。
この愚かな申し入れを受けて、放置できないと考えた鹿児島県庁は、明治5年正月に、奈良原繁、伊地知貞馨(ていけい)の2人を沖縄につかわし、世界情勢や明治の新政について詳しく説明したうえで、政治改革を強く勧めました。そのポイントは、以下のようなことでした。
①無用の役人を減らすこと、役人のお供も3分の1すること。
②薩摩の役人への贈り物は反物や器物ではなく、飲食の品に限ること。
③税の負担を軽減し、刑罰を緩め、みだりに百姓を人夫に使わないこと。
④学校を起こし、教育をさかんにすること。
⑤鹿児島県への5万円の負債は帳消しにするので、それをもとにして貧民を救済し、人々を大切にし、温かい心をもって政治をおこない、人々の自由を尊重すること。
言い換えるならば、その時代の政治は正反対の状態でした。無用の役人が多く、外出には数人の供をつれ、鹿児島の役人には様々なものを贈り、税は重く、刑罰は厳しく、みだりに百姓を人夫につかい、人々は貧乏でみじめな者が多く、政治家は人民の苦しみに同情心がない、と鹿児島の役人たちは見たわけです。
県から政府に出した報告にも、「琉球は大洋中の小島であるにかかわらず、堂々たる名をつけた役人が尊大に構えていて、人民から重税をとり立て、しかも世の中の形勢については、その何事であるか、まったくわかっていない。鹿児島県庁へもこの時代にそぐわないことを申し立てて来たので、これは危険だと考え、役人をやって、維新のことから、世界の形勢まで説明し、政治の改革を命じた」と述べています。
【原文】
一、琉球国から琉球藩へ
沖繩の明治維新ともいうべき廃藩置県は、明治五年にはじまり、十二年におわります。
日本の明治維新の運動は下からはじまり、薩・長その他の下級士族が、まず、その藩の政治を改革します。それから各藩が連合して幕府をたおし、新政府をつくります。新政府は、上から命令を下し、全国の政治、社会の改革を実行しました。沖繩では下からの改革はおこりませんでした。しかし、上にたいする不平不備の空気がみなぎっていたことは、前章でのべました。
新政府は、この旧式の首里政庁にたいしどういう処置をしたか。首里政庁はどういう態度をとったか。一ぱんの人民はどんなふうに考えていたか。このことは、前章ですでに暗示されています。
日本で廃藩置県がおこなわれると、三司官以下の役人は、さっそく、きょうぎして、政庁の態度をきめました。それによると、「政府が沖繩を直轄にする考えがあっても、これをことわり、今までのように、鹿児島の管轄にしてもらう」というのです。
そして鹿児島にいる政庁の役人に命じ、このことを鹿児島県庁に申し入れさせました。
なんとかして、現状のままでいたいという考えの外なく、なぜ日本では政治上の大変動かおこらなければならなかったか、これについては、深く考えなかったようです。
当時、貨幣のこんらんのため農民がひじょうに困っていたのは、前にのべたが、その時の三司官は宜湾朝保と亀川盛武、川平朝範の三人でした。
鹿児島県庁では明治五年正月、奈良原繁、伊地知貞馨(ていけい)の二人を沖繩につかわし、世界の形勢から明治の新政についてくわしくせつめいし、政治の改革をつよくすすめました。
その要点は「無用の役人をへらし、役人の供(とも)も三分の一にげんじ、薩摩役人へのおくりものは反物・器物をやめ飲食の品にかぎリ、税をかるくし、刑罰をゆるめ、みだりに百姓を人夫につかうな。学校をおこし教育をさかんにせよ。
鹿児島県へのふさい五万円はそのままやるから、それをもとにして貧民をすくい、人民を大切にし、あたたかい心をもって政治をおこない、人民の自由をのばすように」ということでした。
その時代の政治が右のぎゃくで、無用の役人が多く、外出には数人の供をつれ、鹿児島の役人にはいろいろのものをおくり、税はおもく、刑はきびしく、みだりに百姓を人夫につかい、貧乏でみじめな者が多く、政治家は人民のくるしみにも同情心がなかった、と見たわけです。
鹿児島県から政府にだした報告にも、「琉球は大洋中の小島であるにかかわらず、堂々たる名をつけた役人が尊大にかまえていて、人民から重税をとり立て、しかも世の中の形勢については、その何事であるか、まったくわかっていない。鹿児島県庁へもこの時代にふにあいなことなぞ(ママ)申し立てて来たので、不都合だと考え、使をやって維新のことから、世界の形勢まで説明し政治の改革を命じた」とのべてあります。前の年、鹿児島県庁におろかなことを申し入れたけっか、すておけないと思ったからでしょう。
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