見出し画像

なにわの近現代史 Part 1 ②「市民の足の変遷」


 モータリゼーションの波と、地下鉄の路線拡張に押されて、惜しまれながら大阪市電最後の路線が廃止になったのは、昭和44(1969)年のことでした。
 この市電が開通するまでの一時期、市民の足として活躍した乗物がありました。それが巡航船です。
 明治 36(1903)年に天王寺を中心に開催された第5回内国勧業博覧会会場への足を確保するために、鶴原定吉大阪市長は、市営蒸気船の運航を思い立ち、市議会にかけました。市内の河川網を交通に利用するという考えは、
以前からあったのですが、計画は具体化されませんでした。その頃の市民の足といえば人力車でした。人力車の数はピークを迎えていましたが、それだけでは会場への交通は心許ないと思われました。
 ところがこの市営蒸気船案は、採算面を懸念した市議会に否決されてしまいました。だだし、民間業者による運行については、利益の一部を報償として納めるという条件付きで認めることになりました。
 そこで鶴原は、船場の商人・伊藤喜十郎と東京・隅田川で「一銭蒸気船」を運行させていた会社の共同出資で、大阪巡航合資会社を設立させました。
 開業は博覧会開会の一週間後の3月7日。4隻の石油発動機船が、道頓堀の日本橋、戎橋、湊町、西横堀川の新町橋、合計4つの乗降場を結びました。半年後には41 隻が就航して、一躍水都の足となり、次第に人力車を駆逐してゆきました。
 その巡航船を廃止に追い込んだのが市電でした。
 日本で最初の市電は、明治26 年から京都で運行されていましたが、その2 年後に大阪でも最初の路線、花園橋(西区九条新道付近) ・築港桟橋間の約5㎞が開通しました。それは新しくできた築港と当時大阪の官庁街があった西区を結ぶものでした。開業当日は落雷により信号が故障するというアクシデントに見舞われましたが、ドイツ製のチンチン電車は、見渡す限り芦原の埋め立て地を、ゴトゴト、のんびり走りました。
 翌年夏、車両増備の際に、大阪名物になる2階付電車が登場します。特に2階は夕涼みに人気で、「観月電車」も運行されました。電気鉄道事務所(後の交通局)も粋な計らいをしたものです。しかしこの2階付電車はポール(集電装置)がよく外れ、乗務員がひとり余計に乗り込んで支
えていなければならないという厄介者でした。
 市電はその後南北線(梅田・天王寺間))、東西線(花園橋・末吉橋間)の幹線を中心に市域全体に路線を広げました。それと同時に巡航船の客は次第に市電に奪われ、ついに大正2年には経営不能に陥りました。
 都市交通の主役は今、地下鉄、バス、ニュートラムに受け継がれ、快適で、スマートで、スピーディな市民の足となっています。また大川を行く2代目巡航船・アクアライナーは大阪の観光スポットのひとつになっています。

連載第2回/平成10 年4月25 日掲載

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?