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ユーイング肉腫という病

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ユーイング肉腫という病と自分の人生についての記録です。
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14.最期に向けて

14.最期に向けて

突然タイトルが変わりましたが、状況が大きく変わってしまいました。

2月の半ばまでは希望を持って復職を目指していましたが、その後ヴォトリエントを次の治療のため一時休止すると状況が大きく悪化、肺に一気に悪性腫瘍が広がり水がたまってしまいました。呼吸困難で酸素マスクをつけて生活しています。

復職は一旦諦めました。4月の段階でどうなってるかももはやわかりませんし。その方がいいだろうと決断しました。後悔

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13.放射線治療と右脚の回復

 さて、再々発とともに右脚が麻痺していたのですが、2020年10月末より再び入院し、放射線治療が始まりました。骨盤と脊椎、胸椎など痛みのあるところと神経を圧迫していると考えられる4箇所に治療としてではなく症状の緩和のために放射線を当てます。

 車椅子に乗って放射線治療室に行き、ベッドに移って2〜3分ずつ各箇所に放射線を当てます。機械の前に横たわっていると機械が動き出し、放射線を当てるところまで機

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終.告白

 最後になりましたが、感謝を。

 まずは、主治医の先生。わがままな僕の考えを時間をかけて全て受け止めてくれます。もちろん医師として出来ること、出来ないことがあることは理解しています。それでも会話を惜しまず、患者の価値観を尊重し、適切なアドバイスをくれ、患者の意思決定をサポートしてくれます。信頼できる先生に出会えたことは、たとえ患者になっても幸せなことだと感じています。一度職場の上司が病院が来た時

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補.死

 2020年11月現在。再発ユーイング肉腫、ステージ4。僕は末期がん患者で、今続けている治療は現時点であまりポジティブな効果は出ていません。ユーイング肉腫に対して効果の高い保険適用の抗がん剤は、現在他に無く、化学療法自体が難しいような体調です。左脚は太ももから切断し、身体障碍者にも認定されました。残された右脚も麻痺し、ほぼ寝たきりです。確実に死は近づいていますが、むしろ発病後の方が気力は充実してお

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12.2度目の復帰と再々発

 約半年の治療を終え、3月末に退院。残り時間がどれだけあるかわからない僕は焦っており、4月からの職場復帰を願い出ました。職場ではかなり悩まれたようです。僕はこの時点で左脚もなく身体障碍者になっていました。きっと特別な配慮が必要だったのだと思います。
僕は担任は外れましたし、部活もなしとなりました。抗議はしましたが、覆りません。間違った選択でしょうが、学校に内緒で隠れて部活に通いました。1年前

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11.2度目の化学療法

 ユーイング肉腫の再発に対しては確立された治療がありません。すべての治療がやってみなければわからないし、効果の出る確率も低いものでした。死がまた一歩近づいたのを感じました。

 方法の少ない中で治療方針が決まりました。以前の治療でも使っていた抗がん剤のうち、IEの2つを数度試してから、薬を変えて白血病患者がよく行う大量化学療法を行うという方針が決まりました。早速8月からすぐにIEの投与が始まり、今

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10.2度目の手術、出産、再発

 2017年夏、復帰して半年が経過しました。文化祭が終わり、バレー部の選手も引退した頃です。腫瘍は落ち着いていましたが、左脚の骨をつないだところでトラブルが発生します。骨がうまく繋がっておらず接合部で骨折を起こしていたのです。ロッキングプレートという金属を、骨折した骨の補強のためにすねの骨に添えることになりました。夏休みに一週間の手術となります。

 この頃バレー部には選手がいなくなっていましたが

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9.商店街での文化祭

 協力をこころよく受け入れてくれた商店街に早速相談に行きました。この商店街は全長300mほどのアーケードつきの商店街で、いわゆるシャッター通りとなっています。80年代、90年代前半頃までは賑わっていて、夕方や休日にはかなりの人が訪れていたようです。バブル後に郊外のショッピングセンター、ショッピングモールに客を奪われて、現在では多くの店舗が常時シャッターを下ろしています。
 商店街には組合があり、商

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8.学校の外へ

 同じころ僕は、ライフワークとして地域社会の活性化に協力したいと感じていました。そのことについても、少しお話ししたいと思います。

僕が務めていたのは田舎の私立高校ですが、学校はあまり積極的に地元の企業と協力をしたり、地域社会での活動に参加していないと僕は感じていました。実際に周辺地域からの生徒数は減っていて、より遠方からの通学生が増えている傾向にありました。そのことに漠然と危機感を持ってい

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7.復帰

 約10ヶ月の入院生活でした。待ちに待った職場復帰は2017年の1月。3学期からでした。年度途中なので授業はさせてもらえず、他の先生の補助的な仕事だけでしたが、ただ部活には行けました。

先輩に憧れてうちのバレー部でバレーがしたい、と入学してくれた生徒もいます。本当に彼女たちには迷惑をかけました。私が帰ってきたせいで、余計に苦労するのも事実なのですが。この段階で選手は5人。そのうち一人は前十

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6.手術と長い入院生活

 5月になり、手術前に一時退院。退院したら、何よりも好きなものを食べられるのが一番嬉しいことでした。PET検査の結果も良好で、腫瘍の反応はかなり小さくなって、わずかな反応が残るだけでした。大きな不安が一つ消えました。次はいよいよ手術です。

 手術は患部の左脚の脛骨(スネの太いほうの骨)を切除し、そこに右脚の腓骨(スネの細いほうの骨)を移植するものでした。説明の中で、腓骨は無くても大丈夫な骨だと初

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5.はじめての入院生活

 2016年2月、入院と治療が始まりました。VDC−IE療法という、ユーイング肉腫に対して広く用いられる化学療法です。V、D、C、I、Eは5種類の抗がん剤の頭文字で、5種類を組み合わせた抗がん剤による化学療法が始まりました。僕の場合は2週間に1回抗がん剤が投与されました。抗がん剤を投与する週は、一週間ずっと点滴をつないで抗がん剤を投与します。はじめて見た抗がん剤はオレンジ色の液体でした。抗がん剤は

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4.発病

 結婚して1年経った2015年の秋、僕の生活は相変わらずバレーボール中心でした。しかし、このころ左脚のふくらはぎに鈍い痛みを感じるようになっていました。体を動かす仕事なので筋肉を痛めたかなと深く考えていませんでした。しかし、2ヶ月、3ヶ月が経っても痛みは消えず、そのまま年が開けた頃には、かなり強い疼きが1日に数回生じるようになりました。痛みで眠れない夜も続いていました。じっとしていても痛みは消えず

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3.日常への復帰

弟がいなくなった世界での生活が再開しました。決してそう思いたくないですが、悲しみは少しずつ薄れていきます。葬儀を終え、日常に戻れば新しい職場。しかし、すぐにモチベーションを取り戻すことはできませんでした。僕は自分自身の人生についても、改めて考え直していました。弟を死なせた兄に、教師をする資格があるのだろうか、と。
 陳腐な発想ですが、もう一度大学に戻って精神科医や心理カウンセラーになるという

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