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僕らが日本人ではなくなる日を想像してみた

地理上の日本列島は、天変地異でも起こらない限りなくならないかもしれないけれど、僕らが日本人ではなくなる可能性はあるんじゃないか。

円安の影響を受けているとはいえ、日本はGDP2位どころか、4位まで転落しています。

このまま、先進国の水準からすら転落するのではないだろうか?

ふと、そんなことを感じるのです。

街を歩いていると、僕らは 大事な物 を失っている気がするのです。

それは、倫理とか道徳とか、道義的なものとか、そういう言葉で表現されるものですが、そういったニュアンスのものが どんどん失われている。

なんていうんだろう、真面目に努力することよりも ズルや不正をしてお金を得て高い地位につくことが正義みたいな、そんな風潮ありませんか?
なんだか、そういう考えが多数派ではないとは思いますが、そういう風潮が支配的になっている空気を感じます。

科学の進歩で、神様というものが、存在する可能性への宗教観が揺らぎました。 死んだら天国に行くみたいな話は、なーんとなく、効果を失い。
宗教的な倫理観や、道徳観が、かなり薄れているわけなのですが。
これは決して、宗教をやりましょうという話ではなく、それに代わる、実質的な意味のコンセンサスが必要だと、そういう話です。

日本は、天皇陛下の国です、文化と伝統を大事にする国ですから、道徳的に許されない行為は、強い批難の対象になります。

たとえば、回転すしでのバカッターや、醤油をペロペロするインスタの投稿のようなものは、法律云々の前に、常識的に道徳的にそういう行為はいけないということで、思いっきり叩かれていたわけですが。

では、その叩き方は、道徳的なのか?

マイケル・サンデルの正義の話をしようみたいに。 道徳の話をしようという試みです。


身近な例で、例えてみましょう。

あなたは、ゴミを出しに家から出ました。そこで、ゴミ出しのルールを守らない人がいました。それを、ここでいう正義・道徳に反する行為をしている人がいたということにしましょう。

そのゴミ出しのルールが守られていないことが、町内会で問題となったとします。

では、その道徳に反する行為をする ルールを守らないひとに石を投げたり、卵をなげつけたり、スマホで写真を撮って 顔をSNSに晒す そういうペナルティが提案されたとします。

あなたは、そのペナルティに賛成しますか?

多くの人は、賛成しないと思います。 なぜなら、道徳に反する行為へのペナルティが道徳に反しているからです。

道徳の話ですから、警察は関与してくれませんし、法律の話ではなく、道徳の話なので、強制力のある法的措置はとれないものとします。

いつしか、ゴミ出しのルールを守らなくても、なんのペナルティも受けないので、ルールを守るのが馬鹿らしくなり、1人、また1人と、ゴミ出しのルールを守らない人が増え、正義と道徳は機能しなくなりました。

冒頭で述べた。いまの、日本全体の空気も、そんな感じではないでしょうか。

合法であれば、それが倫理的なことや道徳に反していても許される。

そんな変な風潮が、支配的になっていないでしょうか?

東京新聞の記事より写真転載

いま、ウクライナ情勢よりもニュースで話題になっていることがあります。

政治倫理審査会や裏金の話です。

法律上、違法とされる証拠がありませんが、倫理的な観点から、責任が追及されています。 これは、正義・道徳 が強く関わる事です。

私は、これについて思います。

基本的に法律上、容疑をかけられた側は、無罪の証明をする必要がありません。起訴する当局が有罪の証拠を出すことができなければ、判決では無罪になります。 無罪の証明をすることは悪魔の証明と呼ばれています。

それは、法律の世界での話です。

たとえば、夜にでてくる お月さま に うさぎ がいるかどうか。

これが、悪魔の証明のたとえ話にでてくるときがあります。

月に うさぎが いると主張する側がそれを証明する必要があり、月にうさぎがいないと証明するのは 無いことの証明なので、悪魔の証明だという例えです。

でも、よく考えてみてください。 月に行って、そこが真空で、地球環境でなければ生存できない うさぎ が、そこに存在しないことは証明可能です。 無いことの証明はできるのです。

もし、倫理審査会で、「証拠でもあるのか!」と開き直った態度で回答がきたら、私は、月にうさぎがいないことくらいの無いことの証明は可能だろうと、激怒するでしょう。

2000年以上続く、私達の国の歴史ですが、生まれたときからすでにあって、あって当たり前のものなので、それがどんなに大事なものか、感覚が薄れてきているのかなと。

イスラエルなんて、自分たちの国がなくて、必死に建国して、毎日のように空にロケット砲が飛んでくるわけですが。

自分たちの国というものがあることが、どんなに幸せなことか、感覚が麻痺しているのではないだろうか。

毎年、高い税金を払って、社会保障費も 毎月莫大な金額支払って。

それだけの労力を伴って維持している、「私達の国」は、このままでいいのでしょうか。

よく、日本列島沈没とか、日本オワコンとか、適当なフレーズがありますが。それってつまりどういうことかというと。

 私達が日本人ではなくなる。 ということですよね?

国が衰退する原因はたくさんあると思いますが。 この国の正義と道徳の話が思考停止に近づきあることも、原因の根本的なところだと感じます。

わたしは、なんでも白か黒かで 考える柔軟性のない人間だと言われることがあります。 世の中にはグレーな事がたくさんあると。

けど、それって、正しいのでしょうか?

たしかに、世の中、白だけでは話は進まず、妥協しなければならないことが沢山あることはわかっています。

だからといって、何が白でなにが黒か、はっきりしたうえで、グレーでいきましょうとならないと。 いつのまにか、グレーが何色かわからなくなりませんか? 白と黒を混ぜた色がグレーです。

あなたは、白色を区別できますか? 黒色が何か、わからなくなっていませんか???

数学的に考えてみてください。 白という基準点と黒という基準点が明確になっていなければ、グレーという数字は計算できません。

白に赤い日の丸が、私達の国の国旗です。

誰も、白が何色かわからなくなって、グレーの日の丸の国旗を掲げていませんか。


こんな国旗の国を掲げて、日本人ではなくなってしまうことが怖いです。

 


どうしても、高齢者の人口が多くて、若い人の声が 国の形にとりいれられにくいという、現実はあります。

でも、このまま放置していたら。

本当に、私達は日本人でなくなるかもしれません。

高齢者は総自決すべきだというような、道徳的に間違った議論が飛び交ったり、社会から特定のマイノリティをパージすることによって解決しようという論調も言語道断でもあるわけで

街を歩いていると、僕らは 大事な物 を失っている気がするのです。

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