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文章を書く目的は動機と同じはずだった。

こんにちは、れっどさんです。
私が元々、国語力が非常に無かったことは、先に掲載している記事の通りですが、文章を書くことが嫌いだったかというと、実はそうでもないのです。

今回は、今、ライター業をしている自分がふと感じた、「こうじゃなかった」感についてお話します。

幼い頃からフラストレーションの多い子供だった

今でもですが、私は自分の頭の中を口語として発するのが苦手です。考えていることを整理するのが苦手なんですね。

普通に会話をしていると、主語が抜けたり、いらない伏線を詳しく話してしまったり。
相手からしたら
「何の話をしているの?」
「結局なにが言いたいの?」
と思われることが日常茶飯事。
親にも「あんたと話をしていると疲れる!」と良く言われていたものでしたし、友人やパートナー、同僚にも「(つまり)こういうことが言いたいんだよね?」と要約をしてもらうことがほぼ毎回です。

自分の表現が上手くないのが原因のくせに私は「だからそう言ってんじゃん!」と苛立ちがちで。
特に幼い頃は、江戸っ子口調な(高圧的な表現ばかりする)家族の元で育っていたこともあり、かなり我の強い子供だったのため、一発で理解してもらえないことに疑問しかなく『相手の能力が低いのだ』と決めつけて、よくケンカをしていました。主に小学校までですね。

中学受験をして、あらゆる地域から集まった子たちと共に過ごすようになった1年目。クセの強いクラスメイトと熱血漢のベテラン女性担任のクラスで「学級委員」に立候補で就任。私は大変な粋がり様でした。それまで通りに高圧的な態度をとり、無意識に相手を下に見るような表現(発言)も多かったろうと思います。

転機はクラスメイトからのヘイトから

ある日、クラスでとあるいじめ事件が起きたことがあり、学級委員として解決に勤しんだことがありました。しかし、頭の良い子達が集まっていたので一筋縄ではいかず、最終的には担任が指揮をとることに。

その悪夢のような時期に、私は初めて、周りの子たちに
「馬鹿じゃねーの」
「あいつ、話しにくい」
「シンプルにウザい」
「ぶっちゃけ嫌い」
と思われていたことを知ることとなりました(はっきり言われる機会もありました)。

当時はあまりの衝撃で、心に大きなダメージを負うことになりました。(俯瞰して考えれば当たり前すぎるのですが…。)

はじめは頭の整理がつかず混沌。やっと事態を飲み込めて魂が抜けたように意気消沈した私は、中学2年の再組替えから大人しくなり、言いたいことはあまり言わないようにし、前の席にいる子と、とりあえず仲良くなろうと必死になりました。
(この子が大層なポケモンオタクだったことで私はここからアニメ・声優オタクへと邁進していきます。ちなみにこの子は非常に優秀で、後に医学部に進みますが、あまりに能力が違いすぎて、結局、距離が生まれていくことになりました。とても不思議で、要領が良く、言いたいことははっきり言う子だったので、羨ましかったですね。)

自分のことを一番わかってくれているのはメモ帳

このあたりから、私は創作活動を始めるようになります。周りに言えずに心に溜めているフラストレーションや、突然思いついた物語やアイデアをメモ帳に書きとめるようになったのです。

誰かに見せることなく、ただただ、詩を書くように、歌詞カードを作るように。時にはいろんなシチュエーションやキャラクターを思い描いて、設定も作り込んで、キャラクターデザインもしたりしながら、無我夢中で綴っていました。

これが私の言語化の原点だったのです。
(時代が違っていたら、自分はラッパーになっていたかもしれないと思うことがあります。)

頭を整理し、理解を深めるための"記述"だった

いつしか、自分の頭の中を手で書くことがとても好きになり、また、「自分のことは自分しかわからない」と自覚できるようになっていきました。

創作という名の日記をしたためることが、それはそれは楽しくて、いまこうしてエッセーを書いているのと同様に、どんどん筆が進みました。

その後、高校1年より通った国語専門塾にて超長文作文を経験することとなり、「自分は
書くことは苦ではない」と悟ることに。

▷国語専門塾の話はこちら

実は中学1年生の時に(パケットの使いすぎで)ガラケーを没収され、公衆電話とイエデンで友人とのやり取りをしていた私なのですが(今やスマホとタブレットを5台位使いまわしているので、当時の自分が今の自分を見たら、さぞおったまげるだろうなと思います)、高校1年生で塾に通うようになり、やっとガラケーが解禁。

行き帰りの電車内で勉強すれば良いものの、やっぱり創作が好きで、Eメールボックスに新しい作品やエッセーをたくさん書き溜めていました。(どんなに混雑した車内でも、ボタンも画面も見ずにポチポチ入力できた便利さは、今のスマホにもほしいところです。)

この頃には、国語専門塾に通っている成果がではじめ、自分の想いや考えを、前以前にも増して論理的に(客観的に)見返すために綴るようになっていました。

大学に入ってからもこの週間は続きました。主にFacebookやmixiの投稿や掲示板でだんだんと周囲に見せていくようになっていきました。

カメラマン×ライター業っていいな、となんとなく思う

大学を卒業し、カメラマンの助手としてスタジオに勤めていた頃、疲れやストレス、不規則な生活が祟り、アトピーが悪化。失敗やうまくいかないことばかりでメンタルも落ち、暗い顔をした日々を過ごしていた時、私の話を聞いて励ましてくださったのは、週末だけ手伝ってくれる外注のプロカメラマンの方々でした。

その中で一人、変わった経歴をお持ちのおじさまがいらっしゃいました。大谷さんと言います。大谷さんはアメリカに住んでいたこともあったそうで、どことなくお洒落な方でした。民俗文化にご興味があり、自身で取材し撮影したもので本も書かれていました。

お子さんが幼い頃にアレルギー症状をお持ちだったことから、私の病状も心配してくださり、何度もお声をかけてくださいました。あまりに苦しいことが多くてアトピーが治らず、泣く泣く助手の仕事を辞めたあとも、食事に誘ってくださり、たくさんお話をきいていただきました。

大谷さんとお話している中で、「カメラマンとライター業をやるのって、なんかいいな」と思うように。ですが、まだこの頃は、女性カメラマンの人口は今ほど多くはなく、「カメラマン」一本で生きて行けるようになろう!と思う希望がありました。(そのため、私がライター業を目指すことになるまではまだ時間がかかることになります。)

ひょんなことから広報に→とある雑誌の編集部にも。

アトピーが悪化しすぎて、直属の上司とも馬が合わず、スタジオ辞めたあと、私はとあるホテルの運営会社の総務部でOLをしていましたが、ひょんなことから広報に。

でも広報なんてしたことがなかったので、社長のアイデアでとある雑誌の編集部で研修させていただけることになりました。
(今の仕事でもこの編集部の方と出会うことがあり、「あの時は〜」という感謝の意をお伝えしていたりします。)

そこで、初めて「雑誌に記事が載る」という経験をしました。もちろん、周りにはプロのライターのみなさんがいらっしゃったので、手入れはしてくださいましたが、それでも、自分の書いた文章が雑誌に載る!というまたとない経験をさせていただいたことは自信に繋がりました。

順調に仕事も研修も行っていた頃、コロナが上陸。いろんな事があり、私は広報ではなくなることになり、併せて編集部での研修も終了。先行きが見えない中で、私は会社を辞める決断をしました。

年明けすぐにプー太郎。コロナが始まったばかりの頃の転職活動は厳しいものでした。自分の体調も安定せず(後に「消化管アレルギー」によるものだったとわかる)、瞬く間に3ヶ月が過ぎました。

ハローワークからのお小遣いも尽きそうになった頃、現在の職(WEBの旅お出かけ情報メディア)にPR記事担当として採用していただくことができ、なんとか首の皮一枚繋がりました。

ここから現在に至るまで、いわゆる「案件」のための書き方で且つ「WEBライティング」をひたすらにやっていくことになります。

WEBライティングはワクワクしない

それまで、プレスリリースや雑誌記事、SNS用の文章しか作ってこなかった私。入社試験は通過できたものの、WEBライティングに求められる「明るくポップに」「テンポよく、難しい言葉は使わずに」「なるべく短く」を習得するにはかなり苦労しました。

当初の私の様子を知る人に、いまも同じ会社で編集したりしていると言うと「あんなにツライツライって言っていたのによく続いてるね!」と驚かれます(当の本人は「そうだったっけ?」という感覚です)。

私がWEBライティングを始めた頃、そもそも「WEBライティング」という言葉も知りませんでした。何をしたらコツを掴めるだろうか、と考えたどり着いたのは『もしもツアーズ』。現在は終了してしまった、お笑い芸人のキャイ~ンのお二人などが出演されていた旅のバラエティ番組です。

食事時になんとなく見ていたこの番組のナレーションに注目して聞いていたら「これを文章化したものがWEBライティングのそれなのでは…?」と閃き、「この表現いいな!」というものを片っ端から記録するようになりました。

また、旅やお出かけに必須のアクティビティ「食」についてはさらに参考にする作品枠を広げ、「ワカコ酒」や「孤独のグルメ」、「異世界食堂」などの食をテーマにした作品をとにかく観まくりました。

コロナ全盛期だったこともあり、勉強に充てられる時間はたっぷりありました。数ヶ月間みっちり勉強し、第一波が去ろうとしていた頃からコンスタントに入り始めた執筆案件もしっかり対応していけるようになりました。

クライアントに良い印象を持てていなくても。

以来、何本書いたかあまり覚えていないほど、(コロナ禍だったにも関わらず)たくさんの記事を書かせていただきました。コロナが流行る前までは都市部や有名な海外観光地が主流だったところ、コロナ禍中は"密避け"という暗黙のテーマも加わり、大自然のアクティビティや少し田舎の観光地に出向くことが多かったです。おかげさまで、SUPというウォータースポーツに出会えたり、トレッキングをしたり、冬の山小屋にスノーモービルで行って泊まったりといった、旅のメディアらしい体験をたくさんさせていただきました。

ただ、なかには、ムッとするような会話しかできない方や、親切心で提案している折衷案を受け入れられない方などがクライアント側の担当者である時もあり、「同じ日本語を話していなくない?!」と思わざるを得ないほど、傷つく体験もありました。

そんな時でも、WEBライティングは、そのモヤモヤした気持ちも無かったことにしてくれる、魔法の文章法でした。何事もポジティブに書けるようになるWEBライティングはすごい、なんでもオブラートに包めるという発見もありました。

でも、つまらない。

ポジティブに書けることは、誰も傷つけないし平和。しかし、本当にそれでいいのか?と思う気持ちも同時にありました。少なくとも、自分が自分のために書くものについて(とかく、SNSの投稿など)は、ポジティブシンキング過ぎなくても良いのでは?むしろ、何事もWEBライティングに当てはめてポジティブ化してしまうと、本来向き合うべき気持ちに蓋をしてしまい、自分の中に見えないカビを増やすだけなのでは?と。

「いつもポジティブなんて、人間らしくない。つまんないじゃん!」

そう思ってなんとなく始めたのが、このnoteです。

好きに書きたい!


いつも心に秘めている「なんだかなぁ」をちゃんと記録したい。
向き合いたい。目をそらしたくない。蓋をしたくない。
いろんな人と、モヤモヤと思うことを考えたい。
指示された、期待された文章を世に送り出すだけのつまらない活動はしたくない。

だから私は文章を書く。
文章で伝わらなければ写真を撮るし、動画も撮る。
表現方法は∞通り。

まだまだ30代序盤。悔いのない10年にするために。私は突き進みたい。


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