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自己紹介:ヤマタクってだれ?

こんにちは、株式会社オレコンのヤマタクです。

僕がビジネスで叶えたい目的は、「どうすれば世界1のコンテンツカンパニーとして働く人の採算性を10倍にできるか?」ということです。

私たちオレコンは、自分自身を含めた真面目に働く人を、より短い労働時間で10倍豊かにする「超採算的」な仕組みを実践・提供し、

「オレの人生のコントロールを取り戻す」ことで本当にしたい事を実現できる人生に貢献する、世界No.1ビジネスコンテンツカンパニーを目指しています。

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僕は今、WEBマーケティングコンサルタントとして、経営者さまに何かを伝える立場にいますが、これまで全てが順風満帆だったわけではありません。

今回は僕の自己紹介も兼ねて、これまでの経歴・生い立ちについてお話していこうと思います。

小学生の頃に父の病気が発覚

個人的な話になりますが、私がこの世で一番尊敬しているのは亡くなった父です。

父は病気でした。

パーキンソン病という不治の病で、だんだん筋肉が萎縮して身体が動かなくなるという病気です。

僕が小学校低学年の頃に病気が発覚し、母は「目の前が真っ暗になった」と当時のことを話していました。

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父は絵に描いたようなとても真面目で勤勉な人でした。

家族のために朝6時から深夜12時まで一生懸命はたらいて、子供の頃は平日、父に顔を合わせる事はなかったです。

そのおかげで僕は何不自由なく育ててもらいました。父はもっとも尊敬する人で、僕はそんな父が大好きでした。

大好きな父の病気を治したくて、小学生の頃から将来は医者になろうと思っていました。

塾にまで行かせてもらい、学校でも成績が良かったので、私立中学に受験したら受かるだろうと思ってタカをくくっていました。

でも結果は…中学受験に落ちてしまいました。

僕は本気じゃなかったのです。甘えていました。

勉強せずに遊んで、努力することから逃げていたのです。

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父親の事を心配していても、どこかで大丈夫だろうとタカをくくっていました。

それでも父はそんな僕に対して優しく、大変可愛がってくれました。

弱い自分から逃げていた学生時代

それから公立の中学に行き、部活の朝練で父と一緒の時間に家を出ることになりました。

僕は徒歩で駅まで向かい、父はバスで出勤します。

途中でお互い反対方向に向かうのですが、「じゃあ」といって僕が歩き出し、20歩ほど歩いて振り返った時、父は足を怪我してるかのように歩いていました。

まだ朝焼けの薄暗い道で、ペーキンソン病で動かない身体を引きずって歩くその背中を見て僕は泣きました。

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当時の僕は、父を治すんだという思いも中途半端で、父が支えてくれている何不自由ない暮らしをなんとなく送っていたのです。

そして進路を考えたときに、高校卒業後すぐに働けるようになるため高専へと進学しました。

「高専に入って5年間で一流の技術者になって父と働くんだ。安心させるんだ。」

と思ったものの・・・すぐに心は折れてしまいました。

生意気な僕は先輩に目をつけられ、毎晩呼び出されて朝まで殴られ続けました。

授業は頭に入らず、口の中が切れて食事もできず、怖くて毎晩震えていた…そんな毎日でした。

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「すぐに一人前になるんだ」と生意気で偉そうなことを言った結果が、先輩からのいじめで授業に出席できず落第寸前の成績…

格好悪い上に、そんなことを言い出せなくてどうにも出来ない自分がいて、また現状から逃げてしまいました。

僕は、父を安心させたいと思って入った高専を辞めてしまったのです。

その後も大した才能もないのに絵を描くと言って、道路工事の交通整理でアルバイトしたり、電気屋さんのパソコン教室でアルバイトをして生活していました。

そんな逃げ続けた僕に、父は優しく接してくれました。

たまに実家に顔を出すと、父の病状は進んでいて、字が書きずらくなっていたのですが、

「お前がパソコンで作ってくれた音楽が好きで、憶えるもの大変だけど、なんとかパソコンで仕事ができるよ。ありがとう。」

と言ってくれました。病気の進行で体は徐々に動かなくなっていましたが、父はまだ懸命に働いていました。

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後で聞いた話ですが、父は会社で多くの人に助けられていました。

「これまで山本さんに助けられたので恩返しがしたい。」そう言って多くの部下や、周りの人たちがずっと父を支えてくださっていました。

それなのに僕は「弱い自分、何も応えられない自分」から目を背けたくて実家に近寄らなくなったのです。

独立するも極貧生活…そして廃業

そして19〜20歳の頃にベンチャー企業の立ち上げの話があり、パソンコン教室の講師をしながらWEBデザインの仕事を請けるようになりました。

ベンチャー企業の立ち上げというと格好良く聞こえますが、職場は工事現場の2階。

ベニヤ板の床、窓の外にはコンクリートのブロック。歩くたびにジャリ、ジャリっと砂を踏む音がします。

そこにパソコンが1台。土建屋のプレハブの2階にパソコンがある状況はシュールですよね。

「なぜ、そんな所で仕事をしていたのか?」というと当時、土建屋の2代目社長が立ち上げるベンチャーに携わっていたからなのです。

そこで僕はデジタルコンテンツの作成をしていました。

その頃はすでにビジネスを立ち上げ「マスター5段」として有名になっていましたが、

実際は月15万円ほどの収入で、家賃を払うとほとんどお金は残りません。そんな極貧生活でした。

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彼らは公共事業でのみビジネスをして来ただけに、営業はこのような感じでした。

・市役所に名刺の形をしたCD-ROMの導入を提案
・年に一度のお祭パンフレットを市役所へ
・動くWEBページで製作する提案
・市役所になんとなく訪問

そして土建屋の公共事業が苦しいなか、ベンチャーに賭けてみたのです。

思いつきの商品と上手くいってない営業。イチかバチかでやってしまった結果は…廃業でした。

プライドをへし折られて学んだ「売れるノウハウ」

そんな極貧生活から抜け出したくて、僕は京都の会社に就職しました。

ワンルームの社宅で「ここで何とかするんだ」とはじめは店内のPOPデザインや新聞広告やチラシを作っていました。

ある日新聞広告を作っていると、社長に作ったものを目の前で破かれゴミ箱に捨てられました。

「おまえのやってる事はオナニーや!俺の言うとおりに作ってみい!」

僕は「何が悪いんですか?」と言い返しました。逃げ続けてきた自分なのに無駄にプライドだけはあったのです。

「うるさい!貧乏人が判断するな!」

そう社長に言われて、もう諦めてまた逃げ出そうと思いました。

でも…悔しい。

あまりにも悔しかったので言われるまま、完璧に作ってやろうと思いました。

今度は逃げずに完璧に作って、売れなかった責任を取らせようと思ったのです。

「ほら見たことか!」と自分の正しさを証明しようと言われたとおりに完璧に作りました。

その結果…売れました。

自分の無駄なプライドが崩れるのと同時に、きれいなだけのデザインから、売れるデザインがあることを知ったのです。

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それからは言われたとおりに完璧に作りました。

「売れるものは何か?」と自分で学びだし、今までは外注されていたネットショップの作成や運営も、社長や経理の人を説得し自分でやることにしました。

外注費のうちの少しだけでも自分の給与にしたかったからという理由もありましたが、少しでも早く一人前になりたかったのです。

少しでも誇らしい自分になって父に会いたい。そう思っていました。

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海外の資料をリサーチし、売上が大きく上がる方法が分かりました。そしてSEOで検索順位を1位にしました。

やりすぎて楽天を退店になりそうになったこともあります (笑)

さらに売れるノウハウを調べるために、一週間に3日も4日も他のネットショップの店長に話を聞きに出かけて行ってはノウハウを学び、すぐに実装しました。

そうするとライバル店にノウハウを盗まれるようになったので、文字コードを暗号化して防いだり、誰にも真似できないよう高度なプログラミングを学び取り入れていったのです。

当時は会社に泊まり込んで、仕事に没頭したこともありました。

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社宅の外で布団を干したまま忘れていて、何日も会社から帰らなかったせいで、布団を取り込めず雨に濡れてしまって使えなくなったり。

徹夜続きで商品撮影中に疲れて寝てしまったり、値段を間違えて大失敗したことも…色んなことがありました。

正月休みもどこにも行かず、月商1000万円を達成したくてセールやキャンペーンを繰り返し、大晦日の夜に売上が出ないかと再読み込みボタンを何度も押したり。

しかし、それも今思えば、忙しさに逃げていただけでした。

ずっと実家に帰らず、仕事に没頭していただけだったのです。

僕は何にも変わっていませんでした。誇れる人生ではないし。

「でも、これだけやったんだ!これだけ出来たんだ!」と父に見せたかったのです。

数年間、ずっとそうして仕事をしてきました。

そのおかげで今、どんな大手企業でも、どんな最先端のノウハウでも、どんな実績を持っていても、僕は自分に自信を持って言えます。

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「どんな商品だって、どんな売上だって、どんな規模だってもっと売上をあげることは出来る。」と。

ヤマタクが父の墓前で思うこと

僕がそう自信を持って言えるのは、

この「逃げ続けながら、ビビりながら繰り返し続けてきた仕事」と「向き合えない自分から逃げ続けたけど、やるしか無かった自分」、

そして「逃げた先で、最後にやってやろうと逃げなかった過去の自分」が今の僕にこの力をくれているからです。

ネットショップでの経験を生かし、Webマーケティングコンサルタントになって早15年が経ちます。

年商15億円未満の中小企業が、自分の会社のコントロールを取り戻し、時間と収益を手に入れ幸せをつかむ、

僕が会社名に「オレコン」と名付けたのは、世の社長たちが「オレのコントロールを取り戻す」ことをミッションにしているためです。

僕たちは通販企業を中心に81業種・2044社を超える経営者さんのコンサルティングをしてきました。

報告のあったものだけでも、売り上げの伸びは182.8億円にもなります。

まだ何も事業が上手く行っていない人には、こんな私の経験がお役に立てればと思いますし、事実WEBマーケティングによってクライアントを上場させることもできました。

真面目に頑張ることも大事ですが、もちろん遊び心も忘れません。

オレコンの仲間でタイへ仕入れツアーに出かけたり、ラスベガスのザッポス本社に足を運ぶこともありました。

新年やお歳暮の時期には、お客さんを笑わせるためだけにハガキを刷ったり、ギフトを贈ったり (笑)

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経営者同士でつながり、時に真剣に、時にゆるく楽しみながら、売り上げを伸ばす環境がオレコンには揃っています。

大手広告代理店の嘘や、世にはびこる「マーケティングの常識」をくつがえし、あなたに利益をもたらすのが僕の仕事です。

独立して父の墓前で感じたことは「父は周りの人たちに助けてもらえるほどすばらしい人だったんだな」と思っています。

そして、私もそういう支えあえる組織を作りたいと思うようになりました。父に返せなかった恩をこの社会に還元できればと思っています。

父を助けてくれたような会社が一社でも増えれば良いと考えて、ほんの短い時間と労力でも働けるように、超生産的な経営方法をコンサルティングなどを通し広めています。

私の会社でも、お互いの弱みや人生を支え合い、お互いの強みを最大限出し合う、そんな仲間を作りたいと思ってます。

僕は自分の人生の経験から「人生の時間を使うなら幸せになるために。幸せになるなら最優先は身近な人から。」と体感しました。

だからこそリモートワークで「身近な人・大好きな人を幸せにしつつ社会にも参加して欲しい。」そう思っています。

僕がリモートワークにこだわる理由をこちらでも書いています。オフィスに縛られる働き方を捨てた僕からのメッセージです。

幸せな時間の使い方ができて、社会にも還元できて、子供たちが大きくなった時、そんな労働環境が当たり前になり、そんな会社が沢山ある社会になっていれば良いなと思っています。

僕は父の墓前で誓いました。

「もう自分から逃げず、お父さんに一歩でも近づけるように頑張っています。こんな情けない僕を、産んでくれて、育ててくれて、愛してくれて、ありがとう。」

私のメンターは今でも父です。

最後に

父が私を愛し育ててきてくれたように、私も収益向上に悩んでいる経営者さまやスタッフにあきらめず寄り添って、共に収益を向上させていきたいと強く決意しています。

それが亡くなった父への恩返しだと考えています。

今後もリモートワーカーの採用や人事評価、スタッフの働き方支援などについて理解を深めていただけるような発信していきたいと思います。

どうぞよろしくお願いします。

今回も最後までお読みいただきありがとうございました!

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