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「半自伝的エッセイ(39)」クリスチャンチェス・神社で聖母マリアと出会う

おそらくはマスターの影響というのか人柄というのかのためだったのだろうが、チェス喫茶「R」にはクリスチャンやクリスチャンだろうという人が多かったように思う。どんなきっかけだったか忘れたが、ある時、聖書を読むという会合に誘われたことがあった。

その頃の私は聖書にもキリスト教にも関心がなく、まったくの無知であり、カトリックとプロテスタントの区別というか違いも知らなかった。そんな私であったが、その聖書を読む会なるものになんとなく秘密結社的な雰囲気を感じてしまい、一度ぐらいなら顔を出してみるかという気になった。

指定された場所はメンバーの一人の一軒家であった。行ってみると、まだ陽の高い日中なのに窓には厚い遮光カーテンが引かれており、室内は薄暗く、数本の蝋燭が灯っているだけだった、というようなことはなく、薔薇の花が咲く手入れの行き届いた庭に面した明るい部屋に、五、六人がすでに集まり、紅茶を飲んでいた。そのうちの一人の中年男性が、おもむろに「では、お揃いのようですからそろそろ始めましょうか」と言って、聖書に手を置いた。

どうやらその男性は神父か牧師だったらしいのだが、その頃の私はその違いも知らなかったので、聖書に詳しいらしい人という認識で話を聞いていた。男性は、開いた聖書からほんの数行を読んで、「今日はこの話をしましょう」と言い、いにしえからのさまざまな解釈を説明していった。わずか数行の文章なのにそれに対してこんなに多くの解釈があったら、生きているうちに聖書は読み終わらないのではないかと思われた。まあでも、私だってチェスのある局面を何通りにもに解釈し、その先の展開を読み、未知の局面ではまた考えるということをやっていたわけだから、やっていることはそんなに大差はないかもしれないなどと考えていたら、その神父か牧師の男性が突然、チェスとキリスト教の関わりを話し出して驚いた。

男性によれば、チェスとキリスト教はかなり深い関わりがあり、いくつものエピソードを紹介してくれた。なるほど、私が今日ここに呼ばれたのはこの話を聞かせてくれるためだったのかもしれなかった。それはたしかに興味深い話であった。一時間ほど講和を聴き、またお茶の時間になった。誰かが「ねえ、藤谷美和子ってマリア様に見えない?」と誰にともなく質問した。すると数人がほぼ同時に「ああ」とか「わかる」とか口々に答えた。

藤谷美和子というと私は映画『それから』を観た印象しかなかったが、もしかしたらその頃は『愛が生まれた日』を歌っていたかもしれない。いずれにしても、私にとって藤谷美和子と聖母は密接に結びつく存在ではなかったから、やや意外な気もした。だが、聖書にもキリスト教にも無知であったいわば無垢の私の心にはその話が刷り込まれてしまい、それ以降、聖母やマリアについて書かれたり、描かれたりしたものに触れると、条件反射のように藤谷美和子の顔が浮かぶようになった。

その会合に参加してから、そのメンバーとチェス喫茶「R」で盤を挟むことが多くなった。顔馴染みになったということもあったのだろうが、私としてはクリスチャンのチェスの指し方にはなにか特色があるのではないだろうかという関心もあった。結論からいえば、特に他の人と変わりはなかった。しかし、対局後の感想戦ではだいぶ他の人とは違うことがそのうちわかってきた。

対局に負けると盤をひっくり返さんばかりに悔しがる人もいたのだが、クリスチャンの人たちは感想戦でとても真摯だった。ある局面の読み筋をお互いにこうだああだと感想戦では進めてみるのだが、聖書の解読で慣れているのか、こういう手筋もある、ああいう手筋もあるということを、ごく自然に受け入れているようだった。

対局におけるある局面というのは、その先にまだまだ無数の解釈がある。その局面に至ったまでの解釈も無数にある。そのどれも否定できない。すべてありうる可能性である。そういう真摯な姿勢が伝わってきた。

私は柄にもなく深く反省した。それまでの私は、勝てばいいとまでは思っていなかったが、勝つための最短ルートだけを意識していたと思う。それがチェスにおいて悪いことだとは思わない。けれど、それだけがチェスの真理なのだろうか?

そんなことがあってからおそらく十年ぐらい後のことだったと思う。今ではその理由は思い出せないのだが、とにかく私はどこかの神社の参道の砂利道を歩いていた。陽射しが強い日だった。あと50メートルほどで本殿に辿り着きそうな道程で、向こうから日傘を差した女性二人がこちらに向かって歩いてくる姿が目に入った。お互いの距離が近づくにつれ、向こうの女性二人組の向かって右側の人が陽射しを余計に浴びているのか全身がどんどん輝いてきた。そのまま歩いて行って距離が十メートルぐらいにまで近づいた時、私はその輝いている女性にどこか見覚えがある気がした。

とはいえ、いつどこで会ったことのある女性だったのか俄には思い出せなかった。思い出せないまま、私はその女性から目を離すことができずにいた。そのためだろうが、すれ違う距離にまで近づいた時、私は躓いて参道の砂利道に転んでしまった。その女性は私が転んだのを見て、「クスッ」と笑った。そして、「どうぞ」と言って手を差し伸べてくれた。差し出された手の先を見ると、日傘の陰に少し腰を屈めた藤谷美和子が佇んでいた。


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